日米修好通商条約の主な内容
自由貿易
自由貿易は、アメリカ側がもっとも重要視した点です。当時欧米諸国は産業革命による工業化が進み、大量の工業製品を輸出できるようになっていました。その商品を売買するのにアメリカは新たな市場が必要でした。
日本はそれまで鎖国しており、オランダとの間で限定的な貿易をしていただけでしたから、いきなり自由貿易といわれて戸惑います。
そのため最終的には
- 軍需品は幕府のみに販売
- 日本から米・麦の輸出はできない
などの制限が設けられることになりました。
開港・開市
日米和親条約では下田と函館を開港しましたが、日米修好通商条約ではそれに加えて神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港することになりました。ただし神奈川開港後に下田は閉鎖されるという条件です。また江戸・大阪を開市して商業活動ができるようにもなりました。
当初の草案ではもっと開港の対象が多かったのですが、日本側の交渉によりここまで減りました。しかし実際の開港は朝廷などの反対もありかなり遅れて、兵庫(実際は神戸)が開港したのは1868年(慶応3年)のことでした。
協定関税率制度
協定関税率制度とは、関税を決めるのに相手国の承認が必要なことです。通常関税というのは自分の国の産業を保護するために自分で決めるものです。
お互いがこの制度に拘束されるのなら問題はないのですが、日本が関税を決める場合についてのみ協定が必要で、アメリカが関税を決めるのに協定は必要ありませんでした。
ただこのとき定められた関税率自体は例外を除いて20%と、当時の一般的な率でした。ただし1866年に結ばれた改税約書でインドや清などと同様の5%まで下げられています。これは改税約書の協議が下関戦争の賠償交渉と並行して行われたため、諸外国に妥協せざるを得なかったためです。
アメリカの領事裁判権
日本人に犯罪を犯したアメリカ人は日本の法律ではなくアメリカの法律で裁かれるというものです。アメリカ人が打ち首や獄門になるなんてとんでもないというアメリカの懸念があったようです。
条約締結当時、幕府は外国人の居留地を制限するつもりでしたから、このことがさほど問題になるとは思っていませんでした。
しかし蓋を開けてみると、日本で罪を犯した外国人は本国に帰されて甘い判決を受けたり、日本人被害者に十分な補償がなされないなど大きな問題を抱えることになりました。
金銀等価交換
外国通貨と日本通貨は同種・同量で交換できるというものです。これの何がまずいのかというと、当時日本の金銀交換レートは1:4.65でした。しかし外国の交換レートは1:15.3。日本では銀の価値が約3倍高いのです。
これで日本から金が大量に流出しました。具体的には
- 外国から銀4.65を持ち込む
- 日本で金1に交換
- 金1を外国に持ち出し銀15.3に交換
ということで金銀の交換だけで銀が3倍になるというまさに錬金術で、ハリスを始めとした諸外国人はせっせとこの両替にいそしみ、大量の金が流出しました。
日本は小判を粗悪な万延小判に改鋳して交換レートを改めますが、今度は国内でインフレが発生。経済が大混乱に陥りました。
外国人居留地
開港地に住めるというものです。開市される江戸・大阪は居留の対象外でした。居留地から一定の範囲内では外出もできましたが、自由な旅行は日本人とのトラブルを懸念する幕府の強い反対で禁止されていました。
確かに当時は攘夷派が国内にたくさんいましたし、一定範囲しか外出が許されていない状態でも生麦事件などが発生していますから、自由な旅行が許可されていたらもっとたくさんの外国人が殺されていたことになっていたかもしれません。