日米修好通商条約とは?不平等の内容や結んだ理由、与えた影響を詳しく解説

日米修好通商条約に関わった人物

大老:井伊直弼

井伊直弼
出典:Wikipedia

彦根藩第15代藩主。条約交渉が始まった当初は大老ではありませんでしたが、老中堀田正睦が朝廷勅許を得るのに失敗した後に大老へ就任します。

井伊直弼自身も朝廷の勅許を得てから条約調印すべきという考えだったようですが、ほかの幕閣やアメリカの圧力には勝てず無勅許で調印することになってしまいます。

大老という立場上、無勅許調印の責任者ということにもなり、世の批判を一身に受けます。その批判を抑え込むため安政の大獄と呼ばれる大弾圧を行いました。

dog 井伊直弼とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や名言も紹介】

総領事:タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス
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アメリカ側の代表で1856年に来日しました。非常に優秀な(狡猾な)外交官で、外国交渉にうぶな日本を手玉に取るかのように有利な条件で条約交渉を進めました。

一方で日本に対しては好意も持っていたようで、「喜望峰以東でもっとも優れた人民」と日記に記すなどしています。1862年に帰国した際には幕府から慰留されるほどでしたから、幕府との間にもそれなりの関係を築いていたのでしょう。

老中:堀田正睦(ほったまさよし)

堀田正睦
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佐倉藩5代藩主。開国派で佐倉藩内でも蘭学を推奨して「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれたほどでした。

条約交渉が始まった当初の責任者で、条約反対派を抑え込むには朝廷の勅許を得たらよいのでは?というアイデアを実現すべく上洛します。勅許は容易に得られると思っていたようですが、予想に反して朝廷は大反対。井伊直弼が大老に就任し、自身は失脚しました。

交渉担当:岩瀬忠震(いわせただなり)

岩瀬忠震
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日本側の交渉担当です。旗本の生まれでそれほど身分は高くありませんでしたが、学業優秀で昌平坂学問所の教授にも就任しています。

老中だった阿部正弘(あべまさひろ)に抜擢されてから目付や外国奉行などを歴任し、日露和親条約の締結にも当たっています。

日米修好通商条約には井上清直(いのうえきよなお)とともに交渉に当たり、当初の要求だった11港の開港を4港に抑えたり、外国人の国内旅行を禁止したりするなど一定の成果を上げています。しかし一橋派であったため条約調印後は安政の大獄で蟄居処分を受けています。

日米修好通商条約が結ばれた経緯

日米修好通商条約が締結されるまで

外国船の来航

アヘン戦争(川鼻海戦)
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江戸時代後期、日本へ外国船が次々と来航するようになります。蒸気機関の発明などによる航海技術の発達や産業革命による工業化により自国で生産した商品を売買するための市場が必要となったことが主な理由です。

しかし日本は鎖国体制をとっていましたから、最初のうちは来航する外国船を追い払っていました。しかし外国船の武力には勝てないということがだんだんとわかってきました。

とりわけ幕府が大きな衝撃を受けたのは、大国だと思っていた清がアヘン戦争で負けてしまったということです。日本も同じように戦争を仕掛けられて植民地にされてしまうのではという恐怖が幕府だけではなく一般民衆の間にも広がっていきます。

日米和親条約の締結

ペリー一行の上陸
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そんな中、アメリカのペリー率いる艦隊が大統領の国書とともに日本へ来航します。アメリカの目的は太平洋航路において、遭難した船員の救護や食料や薪水の補給基地を確保することでした。通商(貿易)はこの時点では二の次でした。

幕府は消極的な態度を取ってなんとか追い返そうとしますが、ペリーは「拒否するなら武力で上陸する」と脅します。さらに江戸湾奥深くまで艦隊を進め、幕府を慌てさせます。

海軍を持っていなかった幕府にはペリーに対抗するすべはありませんでした。こうして日米和親条約が調印されました。

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