日米修好通商条約とは?不平等の内容や結んだ理由、与えた影響を詳しく解説

日米修好通商条約の交渉が行われた経過

ハリスと幕府との交渉

ハリスが謁見した13代将軍徳川家定
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日米和親条約が結ばれたことで1856年にタウンゼント・ハリスが総領事として来日しました。アメリカの次なる目的は日本と自由貿易を行うことです。

しかし薪や水の補給程度ならまだしも、貿易を始めるとなると多くの外国人が日本を訪れるようになります。当時外国は日本から追い出せという攘夷派が力を持ちつつあった時代、そんな中で通商条約を結ぶということは容易なことではありませんでした。

ハリスは大統領の国書を将軍へ手渡そうとしますが、幕府はのらりくらりとかわし続けます。しかし1857年に下田へアメリカの軍艦が入港したことで黒船の恐怖が再燃、ハリスに謁見許可がおり将軍家定へ国書を手渡すことができました。

朝廷の反対

当時朝廷があった京都御所
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幕府内では、このまま逃げ続けるわけにはいかない、しかし条約を調印すると尊王攘夷派など反対勢力が気勢を上げるはず、反対派を抑え込むよい手はないものかと悩みに悩んだ末、ある案が生まれました。

それは朝廷から勅許をとるというものです。それまでの朝廷はお飾りで、徳川幕府が行う政治に関して朝廷から許可をもらうなどということはありえませんでした。しかし尊王攘夷派が台頭してきたこのご時世、朝廷からお墨付きをもらえば彼らも黙るであろうという計算からこの案が採用されました。

当時の朝廷は経済的にも困窮しており、お金を積めば喜んで許可をくれるだろうと老中の堀田正睦らが上洛します。しかし堀田らの思惑とはまったく異なり、朝廷は勅許を与えてくれません。

これは当時の孝明天皇(こうめいてんのう)が攘夷論者だったということと、尊王攘夷派が朝廷に勅許を与えないように工作をしていたためです。

違勅調印

井伊直弼
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手ぶらで帰ってきた堀田正睦の体たらくに、幕府内では強いリーダーシップが求められます。それに応える形で大老に就任したのが井伊直弼です。直弼は自身に権力を集中させ事態を解決しようとします。

しかし直弼自身も最初から無勅許調印を望んでいたわけではなく、あくまで勅許を得てから条約を調印すべきと考えていました。しかしハリスから「イギリスやフランスが日本に来るため出港準備をしている、アメリカと早く条約を結んだほうが得策である」などとブラフをかけられたことで、幕閣の多くが無勅許調印やむなしという考えに傾き、直弼もそれを許可せざるを得ませんでした。

日米修好通商条約が与えた影響

安政の大獄と桜田門外の変

桜田門外の変
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日米修好通商条約を無勅許で調印したことで、予想どおり一橋派や攘夷派などといった当時の幕府の反体制派が一斉に非難の声をあげます。しかし井伊直弼はそれらの人々に対して徹底的な弾圧を行い、志士から町人、公家の家来など100人以上を処罰しました。(安政の大獄)

日米修好通商条約の調印に関わった堀田正睦、岩瀬忠震らも一橋派だったことで堀田は老中を罷免され、岩瀬は蟄居させられるなど大獄の影響を受けています。

しかしあまりに過激な弾圧は当然のように強い反発を生み、とりわけ激しく弾圧された水戸藩の過激派により、直弼は桜田門外の変で命を落とすことになりました。

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日本の開国

横浜の外国人居留地
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日米和親条約では鎖国が解かれたといっても外国船への燃料の補給など限定的なものだったので経済に与えた影響はそれほどありませんでした。しかし日米修好通商条約の調印で自由貿易が開始され、経済的な開国が行われました。それまで200年以上鎖国して国内だけで完結していた経済が一気に世界へ開かれたのですから大きな混乱も発生しました。

一方で日本が開国されたことで、清が香港をイギリスに割譲したように国土が植民地化されることはありませんでした。また外国から安い製品を購入できるようになり近代化が進んだという側面も持っています。

攘夷運動の激化

生糸
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日本の生糸は海外で評価され大量に輸出されました。それまで国内でしか流通していなかったものが海外へほとんど流れてしまったので、国内の生糸が品薄になってしまい物価が上昇しました。

また金銀等価交換による金の流出、小判の改鋳はインフレを発生させ物価上昇に拍車をかけました。こうした経済的な混乱により困窮者が続出し、攘夷論はますます支持されるようになります。

つまり日米修好通商条約により自由貿易が始まったことで、倒幕運動がより加速して江戸幕府の寿命が短くなってしまったのです。

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日米修好通商条約を覚えるための語呂合わせ

日米修好通商条約が結ばれたのは1858年です。これを覚えるための語呂合わせがいくつかあるので紹介します。

  • ハリスって1858(ひとはこわ)い
  • 18(いや)だな58(こわ)いな通商条約
  • 1858(いやこわ)い やむなく結ぶ 通商条約

日米修好通商条約がよくわかる関連書籍

条約で読む日本の近現代史

日本が開国してから数多くの条約が締結されています。本書では23の条約や同盟を取り上げ、それぞれの条約の時代背景、内容、後に与えた影響などが書かれています。条約から歴史の流れをうかがうことができておすすめです。

万波を翔る

開国後、幕府に設けられた外国局の外交官を描いた小説です。この記事でも紹介した岩瀬忠震のように直接交渉にあたる外交官の生の声を感じ取れるような内容です。

幕末「円ドル」戦争 大君の通貨

日米修好通商条約で合意された金銀等価交換に焦点を当てた歴史経済小説です。現代の我々からするとなぜこのような合意がされたのか理解に苦しむところがありますが、そうなってしまった背景やいきさつなどについて主に経済の面から描かれています。

日米修好通商条約に関するまとめ

日米修好通商条約についてまとめました。この条約は江戸幕府が結んだものですが、江戸幕府だけではなくその後の明治政府にとっても大きな影響を与えました。

その不平等な内容で日本が長年苦しんだというのも事実ですが、一刻も早く改正したいという情熱が明治時代の富国強兵や近代化といった急激な成長の原動力になったのも確かです。

このように条約から歴史を見るというのも新しい視点が得られてまた面白いのではないでしょうか。この記事を読んでもし興味を持たれた方がいらっしゃれば、関連書籍等からさらに知識を深めてみることをおすすめします。

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