「建武の新政とはどんな出来事?」
「建武の新政は失敗で終わったの?」
「建武の新政が行われた時代や年号は?」
この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?建武の新政とは、今からおよそ700年前に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が行った政治改革の名称です。後醍醐天皇は強い意気込みで建武の新政を行いましたが、理不尽な政策を乱発し当時の人々を大きく混乱させてしまいました。結果、建武の新政は短い期間で失敗に終わってしまったのです。
この記事では、そんな建武の新政の政策内容をわかりやすく解説しながら、短い期間で失敗してしまった理由や、建武の新政が行われていた時代や年号、建武の新政のあとの日本はどうなったのか?などをご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
建武の新政とは
建武の新政とは、第96代 後醍醐天皇が1333年から約3年間行った政治改革の名称で、当時としては非常に斬新な政策でした。後醍醐天皇が政治の実権を握った後の1334年に、元号を「建武」に改めたため「建武に行われた新しい政策」の意味で「建武の新政」と呼ばれています。
しかし、後醍醐天皇の政策があまりにも理不尽すぎだったので人々の支持を得られず、たった3年数ヶ月で終了してしまいました。
後醍醐天皇が建武の新政を行った理由と経緯
後醍醐天皇は「古代日本のように、政治は天皇が中心になって行うべきだ」といった考えのもと、建武の親政を始めました。
建武の新政が行われる前の時代は鎌倉時代にあたります。鎌倉時代と言えば「源氏」や「北条氏」などの武士が政治を行っていた時代。つまり後醍醐天皇は、政治の実権を武士から天皇の元へ取り戻そうとしたのです。また、鎌倉時代の終わりごろには鎌倉幕府の政策に不満を持つ武士も多かったため、後醍醐天皇に味方する者がたくさん現れました。
結果、後醍醐天皇に味方した武士たちが挙兵、「幕府打倒を目指す後醍醐天皇たち」vs「鎌倉幕府」の戦い(元弘の乱)が発生します。後醍醐天皇たちは見事に勝利し鎌倉幕府は滅亡、政治の実権を天皇の元に取り戻したのです。
建武の新政が行われた期間と時代
先程も解説しましたが、建武の新政は西暦1333年6月から1336年10月までの約3年間4ヶ月に渡り実施されました。時代区分で言うと鎌倉時代の後、室町時代の前にあたります。建武の新政が行われた約3年間は鎌倉時代でも室町時代でもなく、「鎌倉時代→建武の新政→室町時代」と区分されるのが一般的です。
ただし、室町時代の初めの頃を「南北朝時代」とする場合もあり、建武の新政は南北朝時代に含まれるといった考え方も存在します。
建武の新政の主な政策内容
後醍醐天皇は建武の新政でどんな政策を行っていたのでしょうか?代表的なものをピックアップし簡単にご紹介します。
裁判制度の整備
後醍醐天皇は、鎌倉時代に行われていた裁判制度を根本からひっくり返す政策を実施します。
鎌倉時代によく問題になっていたのが土地の所有権を巡るいざこざで、鎌倉幕府はきちんとした法律(御成敗式目)に基づいて裁判を行っていました。しかし、後醍醐天皇は「裁判の判決に天皇の考えが含まれないのはおかしいのではないか?」として、土地の所有権は全て後醍醐天皇の意思ひとつで決められてしまうようになったのです。
結果、「後醍醐天皇に認められればOK」といった空気が蔓延し始め、後醍醐天皇のいた京都には各地から裁判を求める人が殺到、嘘の訴えを起こす人が多発し大混乱となってしまいました。