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後醍醐天皇が行った建武の新政とは?年号、失敗した理由もわかりやすく解説

「建武の新政とはどんな出来事?」
「建武の新政は失敗で終わったの?」
「建武の新政が行われた時代や年号は?」

この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?建武の新政とは、今からおよそ700年前に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が行った政治改革の名称です。後醍醐天皇は強い意気込みで建武の新政を行いましたが、理不尽な政策を乱発し当時の人々を大きく混乱させてしまいました。結果、建武の新政は短い期間で失敗に終わってしまったのです。

後醍醐天皇を描いた肖像画
出典:Wikipedia

この記事では、そんな建武の新政の政策内容をわかりやすく解説しながら、短い期間で失敗してしまった理由や、建武の新政が行われていた時代や年号、建武の新政のあとの日本はどうなったのか?などをご紹介します。

建武の新政とは

建武の新政を行った後醍醐天皇
出典:Wikipedia

建武の新政とは、第96代 後醍醐天皇が1333年から約3年間行った政治改革の名称で、当時としては非常に斬新な政策でした。後醍醐天皇が政治の実権を握った後の1334年に、元号を「建武」に改めたため「建武に行われた新しい政策」の意味で「建武の新政」と呼ばれています。

しかし、後醍醐天皇の政策があまりにも理不尽すぎだったので人々の支持を得られず、たった3年数ヶ月で終了してしまいました。

後醍醐天皇が建武の新政を行った理由と経緯

鎌倉幕府打倒で活躍した足利尊氏
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は「古代日本のように、政治は天皇が中心になって行うべきだ」といった考えのもと、建武の親政を始めました。

建武の新政が行われる前の時代は鎌倉時代にあたります。鎌倉時代と言えば「源氏」や「北条氏」などの武士が政治を行っていた時代。つまり後醍醐天皇は、政治の実権を武士から天皇の元へ取り戻そうとしたのです。また、鎌倉時代の終わりごろには鎌倉幕府の政策に不満を持つ武士も多かったため、後醍醐天皇に味方する者がたくさん現れました。

元弘の乱を模した人形
出典:Wikipedia

結果、後醍醐天皇に味方した武士たちが挙兵、「幕府打倒を目指す後醍醐天皇たち」vs「鎌倉幕府」の戦い(元弘の乱)が発生します。後醍醐天皇たちは見事に勝利し鎌倉幕府は滅亡、政治の実権を天皇の元に取り戻したのです。

建武の新政が行われた期間と時代

鎌倉幕府打倒で活躍した新田義貞
出典:Wikipedia

先程も解説しましたが、建武の新政は西暦1333年6月から1336年10月までの約3年間4ヶ月に渡り実施されました。時代区分で言うと鎌倉時代の後、室町時代の前にあたります。建武の新政が行われた約3年間は鎌倉時代でも室町時代でもなく、「鎌倉時代→建武の新政→室町時代」と区分されるのが一般的です。

ただし、室町時代の初めの頃を「南北朝時代」とする場合もあり、建武の新政は南北朝時代に含まれるといった考え方も存在します。

建武の新政の主な政策内容

後醍醐天皇は建武の新政でどんな政策を行っていたのでしょうか?代表的なものをピックアップし簡単にご紹介します。

裁判制度の整備

山中をさまよう後醍醐天皇を描いたもの
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は、鎌倉時代に行われていた裁判制度を根本からひっくり返す政策を実施します。

鎌倉時代によく問題になっていたのが土地の所有権を巡るいざこざで、鎌倉幕府はきちんとした法律(御成敗式目)に基づいて裁判を行っていました。しかし、後醍醐天皇は「裁判の判決に天皇の考えが含まれないのはおかしいのではないか?」として、土地の所有権は全て後醍醐天皇の意思ひとつで決められてしまうようになったのです。

結果、「後醍醐天皇に認められればOK」といった空気が蔓延し始め、後醍醐天皇のいた京都には各地から裁判を求める人が殺到、嘘の訴えを起こす人が多発し大混乱となってしまいました。

人事の見直し

後醍醐天皇と后の西園寺禧子(さいおんじきし)を描いたもの
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は鎌倉時代の人事も否定し、自分の意思を反映した政策を行っていきます。

後醍醐天皇は政治に自分の意思を反映させやすくするため、これまで公家社会のトップ層にいた人たちをワンランク下の役職に格下げしました。現代で例えると、専務や常務といった会社役員の人たちが、部長や課長クラスに格下げされてしまったような感覚です。後醍醐天皇のやり方に意見をさせないため、あるいは政権内の人事を後醍醐天皇が掌握しやすくするためでした。

後醍醐天皇の息子 護良親王
出典:Wikipedia

また、後醍醐天皇は武士に対しても理不尽な人事を行いました。鎌倉幕府を倒した時に大活躍した足利尊氏は将軍の地位を求めます。しかし、武士の尊氏に新たな幕府を作られたくなかったために却下し、後醍醐天皇は自身の息子 護良親王(もりよししんのう)を将軍に任命。足利尊氏は将軍になれなかっただけでなく、重要な役職すら貰えませんでした。

さらにその他の鎌倉幕府打倒で活躍した武士たちも、一部を除き満足な褒美や地位をもらえず不満を募らせていったのです。

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お札の発行

現在の一万円紙幣
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は、日本の歴史上で初めてお札(おさつ)を発行した人物と言われています。

当時の日本では大陸から入ってきた小銭が使われていました。そこで後醍醐天皇は、日本国内でお金を作って流通を安定させようと考えました。後醍醐天皇は中国大陸の文化に強い興味を持っていたため、大陸で使われていた紙幣(お札)を真似して日本にも導入しようとしたのです。また、お金に関する思い切った改革を行い、天皇の地位をもっと高めようと目論んでいたとも言われています。

しかし、後醍醐天皇が発行したお札は今も発見されておらず、お札の発行計画は途中で中止となった可能性が高いと見られています。

皇居の建て替え

現在の京都御所
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は政策のひとつとして、自分の住む御殿の建て替えにも着手しました。すでにあった皇居が貧相だったため、自分には相応しくないと考えたからです。新しい立派な皇居で政治を行って、自らの権威を見せつけたかったのでしょう。

とは言え、皇居を建て替えるためのお金がありません。結果、全国各地に重い税金を課してしまい、武士からも一般民衆からも大不評。建武の新政への不満はさらに募っていくのでした。

地方の政治改革

後醍醐天皇を描いた肖像画
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は、今で言うところの県知事を各地に二人ずつ配置する改革を行い、地方の人事にも介入しました。公家から一人(国司)、武士から一人(守護)を各地域の統治にあたらせ公家と武家のバランスをとろうとしたと見られますが、逆に混乱を招いただけになってしまいました。

また、公家が地方に派遣した県知事(国司)の存在を否定したりもしました。「国司と地方の癒着がひどいから」といった理由なのですが、公家の多くは国司が徴収する税金が主な収入源だったので、国司がいなければ収入が得られません。

後醍醐天皇 直筆のサイン(親書)
出典:Wikipedia

京都の中央政治だけでなく地方の政治も滅茶苦茶にしてしまった建武の新政は、崩壊への道を順調に歩んでいきました。

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