後醍醐天皇が行った建武の新政とは?年号、失敗した理由もわかりやすく解説

人事の見直し

後醍醐天皇と后の西園寺禧子(さいおんじきし)を描いたもの
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は鎌倉時代の人事も否定し、自分の意思を反映した政策を行っていきます。

後醍醐天皇は政治に自分の意思を反映させやすくするため、これまで公家社会のトップ層にいた人たちをワンランク下の役職に格下げしました。現代で例えると、専務や常務といった会社役員の人たちが、部長や課長クラスに格下げされてしまったような感覚です。後醍醐天皇のやり方に意見をさせないため、あるいは政権内の人事を後醍醐天皇が掌握しやすくするためでした。

後醍醐天皇の息子 護良親王
出典:Wikipedia

また、後醍醐天皇は武士に対しても理不尽な人事を行いました。鎌倉幕府を倒した時に大活躍した足利尊氏は将軍の地位を求めます。しかし、武士の尊氏に新たな幕府を作られたくなかったために却下し、後醍醐天皇は自身の息子 護良親王(もりよししんのう)を将軍に任命。足利尊氏は将軍になれなかっただけでなく、重要な役職すら貰えませんでした。

さらにその他の鎌倉幕府打倒で活躍した武士たちも、一部を除き満足な褒美や地位をもらえず不満を募らせていったのです。

足利尊氏とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や家系図、肖像画の謎も解説】

お札の発行

現在の一万円紙幣
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は、日本の歴史上で初めてお札(おさつ)を発行した人物と言われています。

当時の日本では大陸から入ってきた小銭が使われていました。そこで後醍醐天皇は、日本国内でお金を作って流通を安定させようと考えました。後醍醐天皇は中国大陸の文化に強い興味を持っていたため、大陸で使われていた紙幣(お札)を真似して日本にも導入しようとしたのです。また、お金に関する思い切った改革を行い、天皇の地位をもっと高めようと目論んでいたとも言われています。

しかし、後醍醐天皇が発行したお札は今も発見されておらず、お札の発行計画は途中で中止となった可能性が高いと見られています。

皇居の建て替え

現在の京都御所
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は政策のひとつとして、自分の住む御殿の建て替えにも着手しました。すでにあった皇居が貧相だったため、自分には相応しくないと考えたからです。新しい立派な皇居で政治を行って、自らの権威を見せつけたかったのでしょう。

とは言え、皇居を建て替えるためのお金がありません。結果、全国各地に重い税金を課してしまい、武士からも一般民衆からも大不評。建武の新政への不満はさらに募っていくのでした。

地方の政治改革

後醍醐天皇を描いた肖像画
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は、今で言うところの県知事を各地に二人ずつ配置する改革を行い、地方の人事にも介入しました。公家から一人(国司)、武士から一人(守護)を各地域の統治にあたらせ公家と武家のバランスをとろうとしたと見られますが、逆に混乱を招いただけになってしまいました。

また、公家が地方に派遣した県知事(国司)の存在を否定したりもしました。「国司と地方の癒着がひどいから」といった理由なのですが、公家の多くは国司が徴収する税金が主な収入源だったので、国司がいなければ収入が得られません。

後醍醐天皇 直筆のサイン(親書)
出典:Wikipedia

京都の中央政治だけでなく地方の政治も滅茶苦茶にしてしまった建武の新政は、崩壊への道を順調に歩んでいきました。

1 2 3 4

コメントを残す