建武の新政が失敗した理由
これまで解説してきたように、後醍醐天皇の政治は事あるごとに裏目となってしまい、武家や公家、民衆までもが大きな不満を抱える結果となりました。最終的には武士の反乱を招き後醍醐天皇は京都から逃亡、建武の新政は約3年で終了したのです。
以下より、建武の新政が失敗した主な理由を整理して見ていきましょう。
後醍醐天皇の理想を追い求めすぎた
建武の新政が失敗した大きな理由のひとつは「後醍醐天皇が自身の理想を追い求め過ぎたから」です。「天皇に政治権力を集中させたい」といった理想のもとに、凄まじい情熱を傾けて政治を行ったのですが、現実とはかけ離れた政策となり大きな混乱を招いてしまったのです。
また、政治権力を後醍醐天皇に集中させようとしすぎため、政権内でも後醍醐天皇に媚びる人たちが増えていき、深刻な政治の腐敗を招いてしまいました。
武士たちの支持を得られなかった
時代の流れに逆行し、社会的に力を持っていた武士たちの支持を得られなかったのも、建武の新政が失敗した大きな理由です。
建武の新政の前の鎌倉時代には、すでに法律が整備された武士社会が形成されていました。ところが後醍醐天皇は、武士が行った鎌倉時代の判決を認めず、天皇である自身の権限で裁判を行おうとしたため、武士たちにしてみれば大きな違和感を感じずにはいられなかったのです。
つまり、建武の新政は武士の時代に逆行した政策だったため、すでに社会の中心だった武士からの支持を全く得られないまま短期間で終了となったのでした。
公家からも反発を受けた
「建武の新政は公家を重視した政策で、武士たちには冷たい政策だったために崩壊した」とよく言われますが、実際には公家たちからも支持されていませんでした。すでに述べた通り、後醍醐天皇は公家社会の人事にも介入し、役職の格下げを行ったり公家が派遣した国司の存在を否定したりもしています。
建武の新政は公家に有利な政策だったわけではなく、実際には後醍醐天皇の権力強化が目的であり、後醍醐天皇の意向に合った人物かどうかが重要視されていました。つまり、公家であるか武家であるかよりも、後醍醐天皇の媚びへつらう人物が優遇される政策だったのです。
過去の判決を無効にした
建武の新政崩壊の要因としては、鎌倉時代の裁判制度を否定したのも大きな理由です。
建武の新政は、鎌倉時代の裁判制度を根本からひっくり返してしまったため、過去の判決が全て無効になってしまいました。さらには、裁判の判決が後醍醐天皇の考えひとつで決まってしまうため、裁判の公平性が全く保たれていなかったのです。
結果、鎌倉時代の法律で土地の所有権を認められていたのに、判決を無かったことにされた人々は猛反発。さらには、嘘の所有権を主張する人たちが大量に現れる始末。しかし、鎌倉時代の判決を否定してしまったので嘘を証明する術がありません。やがて嘘と本当の訴えがごちゃ混ぜになったまま訴訟案件がどんどん山積みになっていき、建武の新政への不満はついに爆発してしまったのです。
建武の新政の後の出来事
社会を大混乱させた建武の新政が約3年で終了した後、足利尊氏によって室町幕府が開かれました。
時代に逆行し、やることなすこと全てが裏目になった建武の新政は、武士からも公家からも民衆からも大きな不満を招き、ついには建武政権打倒の兵が決起してしまいました。建武政権打倒の中心にいたのは足利尊氏、皮肉にも鎌倉幕府を倒した最大の功労者でした。
後醍醐天皇の陣営は尊氏軍を蹴散らし九州に逃亡させたものの、尊氏は再び決起。多くの武士たちから支持を得た尊氏は大軍を率いて京都へ進軍し勝利をおさめます。敗れた後醍醐天皇は奈良県の吉野山に逃亡し、建武の新政は終わりを迎えました。後醍醐天皇を倒した足利尊氏は京都に室町幕府を開き、時代は新たな局面へと突入していったのです。