日米和親条約とは?内容や結んだ人、開港場所をわかりやすく簡単解説

日米和親条約を結んだ日米の背景と結果

アメリカの背景と結果

背景:日本を寄港地として利用したい

アメリカ蒸気船
出典:文化遺産オンライン

日本近海を含めた北太平洋地域は18世紀後半以降、毛皮を求めるロシアやアメリカなどの商人が進出するようになっていました。さらにアメリカは、良質な油を求めて、19世紀になり盛んになった太平洋での捕鯨領域をさらに広げたいと考えていました。そのため、太平洋にて捕鯨船の燃料補給や食料を調達するための港を確保する必要があり、日本に開港を求めていたのです。

アメリカから日本へは、太平洋を蒸気船で横断すれば18日間ほどで行くことができますが、ペリーは1853年に日本に来航した際、燃料や食料の供給を受ける必要があるために太平洋は横断することができず、大西洋周りで来ています。

アヘン戦争は、アヘンの密貿易をめぐって起きたイギリスの中国侵略戦争である。
出典:wikipedia

これに加えて、中国貿易を広げたいという事情も抱えていました。アヘン戦争後、アメリカは清との間で条約を結び、中国貿易を始めていました。この貿易をさらに活発化するためにも、太平洋に蒸気船の定期航路を整備しようと考え、その寄港地として日本の港が候補に挙げられたのです。

結果:通商条約を結ぶ布石

日米修好通商条約批准書交換証書
出典:外務省

日米和親条約は、4年後に締結することになる日米修好通商条約への布石としてアメリカは考えていました。ペリーは、日米和親条約の段階で自由貿易を始めたいという意図でしたが、阿部正弘や林復斎の毅然とした態度の前にその主張を通すことはできませんでした。代わりに、第6・7条で、通商条約へと至るステップを踏むことにしました。

1853年にペリーが来航した時の図
出典:文化遺産オンライン

第6条では、燃料や食料以外に必要とする品があったり、取り決めを要することがあれば、日本とアメリカの間で審議をすると規定します。第7条では、金・銀貨および物品と他の物品との交換を、日本政府がこの目的のために暫定的に定めた規則に従い行うことができるとし、アメリカの船舶は、日本人が交換を欲しない物品はすべて持ち帰ることができるとも記載しました。

日本の背景と結果

背景:鎖国中だった日本

鎖国時代に唯一世界へ向けて開かれていた長崎の出島
出典:長崎市公式観光サイト

1633(寛永10)年に出された鎖国令以来、キリスト教の禁止と大名たちの自由な貿易を制限するため、日本人の海外渡航を禁じ、外国船の来航にも規制をかけました。1641年以降は、オランダと清のみ長崎での貿易を許可していました。

産業革命により発達した蒸気機関車
出典:近代技術の展示場

約200年もの間、鎖国という方針は堅持したままであった日本ですが、世界的な視野で見るとこの時期に鎖国を貫くというのは難しい情勢になりつつありました。18世紀に起こった産業革命以降、欧米列強は工場制機械工業の生産品を売るための市場や原料の確保のためにアジアへ進出を図ろうとしており、日本もその波に巻き込まれていきます。

江戸湾の海防強化のために作られた台場
出典:海上公園なび

そして1840〜1845年に起こった、イギリスと清とのアヘン戦争は、清の敗北により中国が列強に植民地化されるという衝撃的な結末を迎えます。この事態を目の当たりにした江戸幕府は、欧米諸国が軍事的脅威であることを自覚し、海防政策にも力を入れるようになりました。

オランダ国王からの親書の内容を記した「阿蘭陀国王書簡之和解」
出典:文化遺産オンライン

1844年、オランダ国王ウィレム2世は、日本に開国を勧告する親書を提出しています。鎖国は幕府の祖法であるとして、その勧告をはねつける日本ですが、18世紀後半から日本近海に多くの外国船が現れるようになっており、江戸幕府は欧米列強が正式に日本に開国を求めてくるのは時間の問題とも考えていました。

結果:自ら開国へと道を開いた

ペリーが日米交渉の場として使った了仙寺
出典:文化遺産オンライン

日米和親条約は、ペリーに軍艦や大砲で脅され、日本が仕方なく開国へと舵をきった条約として知られていますが、歴史学上では、幕府が自ら開国へと踏み出そうとした条約と認識されています。その理由として、条約の内容が自由貿易を禁じているなど、薪水給与令とあまり変わらないこと、そして条約締結の際の議論の主導権を、アメリカ側ではなく日本が握っていたという事実があるからです。

開国とは、外国と交流をすることと定義されます。困っている外国船に食料を与えるといった人道的な行いをすることを「交流」とするのであれば、日米和親条約は日本が開国するきっかけになった条約といえます。しかし自由に貿易をしたり人の行き来ができることを「交流」とするのであれば、日米修好通商条約締結によって、初めて日本は開国したということになります。

ペリーが通ったことで名付けられた下田の「ペリーロード」
出典:ZEKKEI Japan

また、日米和親条約で取り決められた内容は、幕府側の主張が大筋で認められたものでした。例えばペリーは、7〜8箇所の港を開くように要求していましたが、燃料や食料の供給だけのためにそこまで多くの港を開く必要はないという幕府の主張が通り、下田と箱館のみ開港となりました。

このように、日米和親条約締結のイニシアチブは、ほとんど幕府が握っていました。つまり、幕府は自ら開国の方向へと方針を変えたのであって、決してペリーのやりたい放題ではなかったのです。

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