日米和親条約が不平等条約といわれた理由
日米和親条約が不平等条約といわれるのは、アメリカにのみ適用される、片務的最恵国待遇の条項があるからです。
最恵国待遇とは、一方の締約国が第三国に対してより有利な待遇を与えた場合に、他方の締約国に対しても同様の待遇を与えることを約束するもので、将来的に第三国よりも不利な地位に陥らないように決められる内容です。そのため、お互いが最恵国待遇を認めるのであれば、不平等にはなりません。
しかしアメリカは、日米和親条約が締結されることにより、日本の開国を知った諸外国はこぞって日本と条約を結ぶであろうと予測し、先手を打つ形で日本に片務的最恵国待遇を認めさせたわけです。結局、日本はイギリスとの和親条約締結の際も、イギリスに対して片務的最恵国待遇を取らされることになります。
日米和親条約に関わった人物
アメリカ東インド艦隊司令長官:マシュー・カルブレイス・ペリー
ペリー(Mathew Calbraith Perry)はアメリカで初めて蒸気軍艦を造った、「蒸気船建造の父」とも呼ばれるアメリカの海軍軍人です。
東インド艦隊司令長官として太平洋横断航路を開くため、遣日特使となり1853年に浦賀に来航しました。幕府にフィルモア大統領親書を渡して一度は退去しましたが、1854年に再び来日し、日米和親条約締結を成し遂げました。
老中筆頭:阿部正弘
日米和親条約を締結した時の徳川幕府は、第13代徳川家定が将軍を務めていました。家定を支えながら幕政を取り仕切っていたのは、老中首座についていた阿部正弘です。諸大名や幕臣にも意見を聞きながら、挙国一致体制で公議世論の政治を行いました。
ペリーの来航により、阿部正弘はアメリカと軍事衝突だけは避けなければならないと考えていました。日本は負ければ諸外国の植民地にされてしまうからです。そうなると、条約を締結するしか道はありません。
しかし、自由貿易だけは許可しないという主張を通しました。そのため、日米和親条約は鎖国を終わらせる条約ではありましたが、自由貿易を禁止する条項が盛り込まれます。1842年に定められた、漂流船へ燃料や食料を与えるという薪水給与令と決められた内容は同じだったため、実質的には鎖国体制下と変わらない内容になったのです。
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日本全権:林復斎
日米和親条約を締結した際の日本全権は、林復斎という儒学者です。復斎は家康以来、徳川家を学問的に支えた林家11代目当主です。復斎はオランダなどから入ってきていた国際情勢に関する情報も豊富に持っていたため、アメリカの要求には安易に屈せず、日本の主張を通しました。阿部正弘も細かな交渉を林に一任していたほど、腹の据わった人物でした。
軍艦や大砲といった武力で脅すペリーを前に、常に冷静に議論を続けた復斎。その様子にペリーはいたく感銘を受け、条約締結後に復斎へこんな言葉を残しています。「もし今後日本と外国が戦争するようなことがあれば、アメリカは軍艦を率いて日本を助けよう。」
天皇:第121代孝明天皇
日米和親条約締結時に在位していた天皇は孝明天皇です。幕府の朝廷への報告は条約が締結された後に行われたものではありましたが、孝明天皇がこの条約に対し、了承の勅旨を出していたことはあまり知られていません。
孝明天皇は開国には反対でした。しかし日米和親条約は、捕鯨船が燃料や食料の補給のために立ち寄ったり、難破船を助ける条約であり、人道的な行いをすることを取り決めたものです。外国人の国内への立ち入り区域も制限されており、自由な貿易も認められていなかったため、孝明天皇が異を唱える内容ではなかったのです。
開国へと舵を切ることになった一連の諸外国との条約に対し、孝明天皇が反対をした状況下で、つまり「無勅許」状態で江戸幕府が調印したことに、幕末の志士たちが大いに憤慨して尊王攘夷運動を起こしますが、これは4年後の日米修好通商条約締結時の話です。