廃藩置県とは、江戸時代以来の藩をなくし、明治政府が全国を支配する仕組みにした政治改革で、事実上の江戸時代の終焉とも言われます。廃藩置県が行われたのは1871年。明治維新が起こってすでに4年目を迎えていましたが、2年前に版籍奉還が行われ、藩主は領地と領民を天皇へ返上していたものの、旧藩主がいまだその土地を治めているのが実情でした。
明治政府は、日本を欧米列強と対抗できる国にするためにも、早く中央集権体制を整えるべきだと考えていました。そのため、旧藩主たちが半独立国のように領地を握っている現状を変えようと、廃藩置県を実行に移したのです。
この記事では、廃藩置県の内容について紹介するとともに、改革がほとんど抵抗なく行われた理由についても解説します。廃藩置県を知ることで、明治という時代を生きた日本人の心意気をも感じることができるでしょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
廃藩置県とは
廃藩置県とは、地方分権から中央集権へと統治の仕組みを変えた政治改革です。1871(明治4)年7月、江戸幕府時代の古い体制を解体して藩を廃し、全国を政府の直轄地としました。版籍奉還で旧藩主が任命されていた知藩事は罷免され、中央政府から府知事や県令が派遣されて統治にあたるようになりました。
廃藩置県を計画した中心人物であった木戸孝允と大久保利通は、薩摩・長州・土佐の3藩から御親兵を集めて武力を背景に廃藩を断行しました。旧藩の債務は新政府が引き継ぎ、全国3府302県からスタートしました。
廃藩置県が行われた背景
藩体制を解体して郡県制に移すべきという廃藩置県の発想自体は、幕末から論じられていました。天皇を尊ぶべきという尊王論が主流となり、日本の古代国家成立の際に中央集権制をとるために広まった、土地と人民は帝王のものであるという王土王民思想が、再び叫ばれるようになったことが理由です。
そこで明治政府は1869年に版籍奉還、1870年には藩制改革を行って藩に対する統制を強めました。しかし戊辰戦争による出費で財政的に行き詰まっていたことで、自主的に廃藩を願い出る藩が出始めるようになります。
また、明治政府に対する農民や不平士族の不穏な動きは、徐々に広がりを見せ始めていました。実際に、中央集権的な軍隊構想を持っていた政治家の大村益次郎は暗殺され、世直しを求める農民一揆が各地で起こっていました。廃藩置県によって国内を安定化することが急務だと政府首脳部は考えたのです。
廃藩置県の目的
廃藩置県の目的は、明治政府による中央集権体制の強化です。明治政府の目標である、欧米諸国に対抗できる国力を育成するためには、近代化政策を進めて、欧米諸国の政治・経済制度を取り入れることが必要だと考えられていました。廃藩置県によって藩による統治をやめ、天皇を中心とする中央集権体制を築くことは、日本を近代化させるための大前提であったわけです。
廃藩置県によって何が変わったのか?影響を解説
廃藩置県後の地図
1871年7月14日に詔が出され、261藩の廃藩置県が断行されました。廃藩により3府302県と開拓使という形になります。しかし飛び地が多くあったこともあり、その後も統廃合が行われ、11月には1使(開拓使)3府(東京、京都、大阪)72県となりました。
1888(明治21)年に現在の47都道府県の形である1道3府43県となりますが、会津藩は福島県といったように、戊辰戦争で旧幕府側についた藩の藩名の多くは県名から外されています。
藩主の処遇
版籍奉還を行った時点で、藩主は土地と人民を天皇に返上していましたが、知藩事として旧藩領を支配していたため、権威はなくとも実質的な権限はまだ旧藩主たちが握っている状態でした。
しかし廃藩置県によって、知藩事は罷免されて東京に移り住むことを指示されます。治めていた土地から引き離されたわけです。ただし知藩事は特権的身分が与えられ華族として扱われましたし、旧藩士への家禄は政府から支給が続けられました。華族や士族への家禄が廃止されるのは1876年のことです。
財政難から自主的に藩を畳もうとしていた藩主もいた一方で、実力派の藩主たちはこの処遇に不満を抱いていました。幕末に薩摩藩の国父として権力を握っていた島津久光はそのいい例で、廃藩置県に対して反乱こそ起こさなかったものの、抗議の気持ちを表したかったのか、一晩中屋敷の庭で花火をあげさせたという逸話が残っています。