廃藩置県に関わった人物
大久保利通
廃藩置県を主導した人物の一人が大久保利通です。薩摩藩出身の大久保は、幕末には西郷隆盛とともに薩長連合や王政復古に力を尽くします。明治時代になってからは、藩閥政府の中心人物として殖産興業政策を推し進めました。江戸幕府を倒し、日本が近代国家に生まれ変わるための礎を築いた、最大の功労者と言っていいでしょう。
大久保はまず薩摩と長州、土佐、肥前の藩主に対し、版籍奉還を申し出るように説得します。それを受け入れた4藩主を見習って、その他の藩も版籍奉還を行いました。しかしながら、版籍奉還だけでは実質的な効果がなかったため、大久保は廃藩置県を断行したのです。
廃藩置県は藩主をなくす、つまり土地に根付いた藩主と家臣という関係性をなくすという制度でした。そうしたことから大久保は不平士族の不満を一身に受けることとなり、1878年、東京の紀尾井坂で不平士族に襲われて暗殺されてしまいました。
木戸孝允
大久保利通と共に廃藩置県の実行に力を尽くしたのが木戸孝允です。長州藩出身で、幕末期には桂小五郎と名乗っていました。青年期は吉田松陰に学んで倒幕運動に参加します。明治政府では長州閥の筆頭として参与・参議となりました。大久保利通とは薩長連合の締結など幕末時代から関係が深く、明治になってからは岩倉遣欧使節にも共に参加しました。
近代のジャーナリストとして知られる徳富蘇峰は、大久保利通と木戸孝允の関係を称して「性の合わない夫婦」のようだと書き残しています。性格は全く違うものの、才能は認め合い、付かず離れずの二人だったようです。そんな二人が、明治政府が中央集権体制を目指すべきという目的を一致させて行ったのが廃藩置県でした。
木戸孝允は1877年に病死します。死因は癌と考えられていますが、ストレスが原因の一つとも言われています。西南戦争が勃発していた最中のことで、病床で木戸が西郷隆盛に「いい加減にしないか」とつぶやいたという逸話も残っていますが、廃藩置県のような大胆な政治改革の実行に加え、士族の反乱に心を痛めたことで、木戸の死期が早まったのかもしれません。
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西郷隆盛
廃藩置県によって国内で反政府運動が起こることを恐れていた明治政府が、それでも廃藩置県を断行することができたのは、何かあれば自分が赴いて反乱軍を抑えようという覚悟を示した西郷隆盛がいたからです。
西郷隆盛は、新政府の直属軍として薩摩・長州・土佐藩の3藩から集めた武力を御親兵として組織します。東京を守るだけではなく、反政府運動の起きそうな地域に兵力を送り、廃藩置県を実行するための武力の盾となったのです。大久保利通と木戸孝允、西郷隆盛を明治維新の功労者として「維新の三傑」と呼びますが、廃藩置県を実行したことも3人の大きな功績の一つです。
西郷隆盛は1827年に薩摩藩で生まれ、薩長連合を結び倒幕運動の立役者として戊辰戦争の参謀に任じられました。1871年に参議となって廃藩置県に力を尽くすも、1877年に西南戦争の中心人物として不平士族たちに担がれ、明治政府軍と戦い、自刃しています。