山県有朋
廃藩置県を、軍事力を集中させた中で断行すべきと献策したのは、山県有朋をはじめとした長州出身の官僚たちでした。彼らが木戸孝允に話を持ちかけたことで、事態は急速に動き出します。特に山県有朋は、西郷隆盛無くしてはこの改革は難しいと考えており、岩倉具視とともに鹿児島へ赴き、西郷隆盛の上京を促したのです。
山県有朋は、幕末には高杉晋作とともに奇兵隊を率いて倒幕運動で活躍しました。大村益次郎亡き後を引き継いで陸軍の基礎を築き、第一次伊藤博文内閣では内務大臣として地方制度の確立に尽力しました。1889年には第一次内閣を組織し、第一回帝国議会を開いています。1898年には第二次内閣を組織して首相を務めました。
日清戦争では第一軍司令官、日露戦争では参謀総長も務め、官僚や軍人たちをまとめて「山県閥」と呼ばれる一大勢力となっていました。1922年、山県有朋は息を引き取りましたが、これによって政府と軍両方への支配力を持つ者がいなくなり、徐々に軍部の暴走が始まっていくのです。
大隈重信
大隈重信は、廃藩置県を行うことで日本は中央集権化を進めることができるため、結果的に明治政府の財政を安定させることに結びつくと考えていました。そのため、廃藩置県を行う際には参議として明治政府を支えたのです。
佐賀出身の大隈重信は、幕末には尊王攘夷派の中でも急進的な人物として知られていました。明治政府では主に財政面で近代産業の育成に尽力します。政争に巻き込まれて下野した際には東京専門学校を設立しました。現在の早稲田大学です。
1898年に日本初の政党内閣を組織して首相に就任します。1914年に第二次内閣を率いた際には第一次世界大戦を迎えました。1922年に他界しています。
大隈重信とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績を交えて解説】
板垣退助
土佐藩出身の板垣退助も、廃藩置県を参議として支えました。廃藩置県を実行するために御親兵を組織すべきと実務レベルで話し合ったのは、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、そして板垣退助の4人でした。
板垣退助は戊辰戦争で活躍し、明治政府でも重要な地位を占めました。征韓論争に敗れて下野しますが、自由民権運動の中心人物として活動の拡大に努めます。「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が有名です。
1892年発足の第2次伊藤博文内閣で内務大臣を務め、日清戦争後の経営に尽力します。1898年発足の第1次大隈重信内閣でも内務大臣として入閣し、「隈板内閣」と呼ばれました。1919年に亡くなりました。
板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、子孫、死因についても紹介】
岩倉具視
廃藩置県を実行するにあたり、明治政府内では薩摩と長州・土佐の3藩の力を以て行う以外に道がないと判断するに至ります。そこで岩倉具視は勅使となり、当時鹿児島にいた西郷隆盛に上京するよう説得するのです。岩倉具視の話を受け入れた西郷隆盛は、御親兵編成命令が出ると兵を率いて上京しました。
岩倉具視は下級公家出身でしたが、幕末期には公武合体論を進め、倒幕論に転じてからは大久保利通など薩長の倒幕派志士と交流を続け、王政復古の実現に尽力しました。明治政府では右大臣となり、遣欧使節の大使として欧米を視察しています。
産業革命後の欧米各国の日常にカルチャーショックを受けた岩倉具視は、鉄道の開設、欽定憲法の制定や天皇制の確立など、日本を近代国家にするために様々な活動を行いました。1883年に他界しています。