廃藩置県はなぜ実行できたのか
廃藩置県は、大久保利通や木戸孝允といった一部の薩長出身の実力者を中心に密かに計画され、実行されました。しかも政府から諸藩へは一方的な命令のような形で下された内容でした。さらに廃藩置県は、短期間に計画され実行に移されたという、日本の歴史の中でもかなり特異な政治改革です。
このように、廃藩置県がさしたる抵抗を受けることなく短期間に実現したことは、世界的に見ても奇跡に近いことでした。その成功理由は大きく2つあります。
負債を抱えていた諸藩
日本は明治維新を迎えるにあたって、戊辰戦争により財政的にかなり厳しい状態が続いていました。ただでさえ幕末には多くの藩が財政難に苦しみ、財政改革を断行していた状況であったにも関わらず、戊辰戦争に巻き込まれて新政府軍も旧幕府軍も莫大な軍事費がかかり、有力商人に半ば強制的にお金を出させ借金していた藩も多かったのです。
そのため、藩にはもはや財政的な面において明治政府に対抗する体力はありませんでした。例えば仙台藩は100万円(現在にして200〜300億)の負債を抱えていました。全国の藩の負債総額は、当時の国家予算の2倍近い7800万円以上にのぼっていたと資料に残されています。
明治政府はその金額のうち、1843年以前の借金は棒引きにするという棄捐策をとり、1844年以降の負債3500万円近くを国債として発行し、引き継いでいくことになります。
廃藩置県の必要性が周知されていた
廃藩置県は、日本が世界列強に肩を並べる国になるために必要な改革として実行されましたが、その趣旨が多くの士族層に理解されていたことも、廃藩置県が平穏に行われた大きな理由です。
江戸幕府が諸外国と幕末に締結した不平等条約に対し、明治政府はその改正をしようと何度も諸外国に働きかけをしましたが、改正の議論どころか相手にもされない状況でした。こうした欧米列強と日本との格差を、明治時代の人々はよく理解していたのです。
そのため、日本が列強国に対抗できるような近代国家になるために、廃藩置県はどうしても必要なものであるという明治政府の改革の意図は、多くの人が理解出来ました。実際に、廃藩置県によって日本が列強に仲間入りできる下地を整えることができる喜びを語っていた藩士の様子が、記録に残っています。
もちろん、反乱が全く起こらなかったわけではありません。岡山や島根などでは、旧藩主の強制移住に対して、旧領民たちによる反対一揆が起きていますが、ごく一部のことでした。
版籍奉還との違い
版籍奉還とは、1869(明治2)年に諸藩主が領地(版図)と人民(戸籍)を朝廷(天皇)に返上した改革のことです。版籍奉還の実行を推し進めた中心人物は大久保利通と木戸孝允です。藩主が返還を願い出て、朝廷がそれを聞き届けるという形式で行われました。姫路藩を筆頭に、274藩全ての版籍が奉還されました。
これにより藩は地方官制のもとで位置付けられましたが、藩制度はもともと独立性が高く、租税と軍事の権限は諸藩が握っていました。つまり、藩内で集められた年貢は、明治政府に納められずに全て藩で収納していましたし、諸藩は旧藩士を集めて常備軍としていました。
明治政府の財政基盤は旧江戸幕府領を中心とした直轄地であり、新政府直属の軍隊は存在すらしていない状況でした。このように、版籍奉還では実質的な意味での中央集権体制からほど遠く、廃藩置県という改革が必要になったわけです。
琉球藩の設置
琉球(現在の沖縄県)は、江戸時代は薩摩藩と中国とに両属していました。そのため、琉球に関しては他藩と同じような版籍奉還を行うことが難しいと判断され、段階的に日本へ組み込む方法を取ることになります。そこで1871年の廃藩置県の際、琉球王国は琉球藩として新たに設けて鹿児島県に所属させました。1872年に琉球国王であった尚泰(しょうたい)を琉球藩王に封じて華族とします。
明治政府は、琉球への支配権を強めて徐々に廃藩置県へともっていくつもりでした。しかし尚泰は中国への朝貢を続け、明治政府の命令になかなか従わなかったため、強引に琉球処分を行うことになります。
1879年に琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告し、前の肥前鹿島藩藩主であった鍋島直彬(なおよし)を沖縄県令に任命しました。これによって500年近く続いた琉球王国は終わりを迎えたのです。旧藩王尚泰は東京に居住することが命じられました。
廃藩置県に関するまとめ
廃藩置県という政治改革を考えるとき、私は明治時代初期を生きていた人々の心意気に胸を打たれます。なぜなら、彼らは自分のことよりも、日本という国のことを最優先に考えて行動したと思うからです。廃藩置県によって藩主がいなくなり、封建制度も崩壊するという現実は、大きな不安であったはずです。しかし多くの士族はそれを日本のためと思って受け入れ、変わろうとしました。
明治という新しい時代を迎えるために、日本では戊辰戦争で夥しい人々の血が流れました。優秀な人も多く失い、明治政府を支えていた官僚たちも皆その失った仲間達への思いを抱えて生きていたわけです。だからこそ彼らは日本のために必要な改革と思えば、それこそ身を挺してでも実行しました。
廃藩置県はそうした政府首脳部の思いを多くの士族が受け止めたからこそ、世界史上稀に見るスムーズな改革として実行できたのでしょう。この記事を通して、そんな明治時代初期を生きた人々に思いを馳せてもらえたなら幸いです。