天平文化とは、平城京へ都が移った710年から8世紀中頃までに栄えた文化です。元号の天平を取って「天平文化」と呼称されました。
貴族の台頭で独自に発展した国内の文化と、外交や仏教に基づく国外の文化が色濃く取り入れられた天平文化。当時造られたものは、貴重な文化財として現在も脈々と受け継がれています。
とはいえ、1300年以上も昔の文化であることから
「天平文化の時期や特徴がいまいちわからない…」
「天平文化時代の有名作品ってどんなのがあるの?」
などといった疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。生きていない時代の文化を理解しようにも、なかなかイメージしづらいですよね。
そこで今回は、天平文化の特徴から時代背景、代表作品まで解説します。この記事を読めば、天平文化がどんな時代だったのかを余すところなく理解できますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
天平文化とはどんな文化?
天平文化とは、奈良時代の天平年間に生じた文化であり、平城京に遷都した710年から8世紀中頃までの時期の文化を指します。
平城京の都が唐(中国)の長安を模して造営されたことからも分かるように、奈良時代は国際交流が盛んに行われていました。その影響も受け、今までにないデザインや色が用いられた国際色豊かな文化です。
また、権力が国家に集中する「中央集権国家」へ徐々に移行し、貴族を中心に栄えた高貴な文化でもあります。しかし天然痘の流行や内乱も多かったために、非常に国勢が不安定だったのも事実。その不安を安定させようと仏教の力を借り、寺院や仏像が数々生まれた文化でもあります。
他にも、「万葉集」や「日本書紀」の成立、シルクロードによってもたらされた正倉院宝物など、今までの日本には無かった斬新で目新しい物々が生じた文化でもありました。1300年以上経った今でもそれらは貴重な文化財として扱われています。
天平文化と国風文化の違い
天平文化が唐の文化を受けた国際色豊かなものであるのに対し、国風文化は平安時代に興った日本独自スタイルの和風な文化です。
奈良時代、遣唐使が盛んに唐へ渡っていたのでその文化を吸収して天平文化が形成されました。次第に、平安時代になると遣唐使が廃止されたため、自然に日本独自の文化が作られていくようになります。
天平文化が興った奈良時代は、男性貴族を中心とした政治が行われていました。しかし平安時代になると摂関政治が行われ、教養ある女性が政界に入るように。ここに2つの文化に違いが生じる背景があります。
唐から伝わった漢字を日本風にした「万葉仮名」を用いていた天平文化に対し、国風文化には「かな文字」「カタカナ」が使用されるようになりました。特に文学などでは、天平文化は力強い男性的なイメージがある一方で、国風文化は女流文学も登場し、やわらかな雰囲気が印象的です。
天平文化が花開いた背景
天平文化が花開いた背景にはどのようなことがあったのでしょうか。詳しく解説していきます。
唐からの影響
日本が奈良時代の時、唐は世界最大の都市でした。そこへ継続的に遣唐使を送っていた日本は、世界最先端の唐の文化を持ち帰り、日本に強く反映させました。
710年に造営された平城京も唐の都・長安を模倣したもの。朱色が輝く壮大で今までにない絢爛な色彩が取り入れられました。また、シルクロードによって結ばれていたインドやペルシャの物々も遣唐使によって持ち帰られ、それらを収蔵する「正倉院」も建てられました。これも天平文化の賜物です。
鎮護国家思想による仏教の影響
天平文化は仏教思想からも多大な影響を受けています。
奈良時代は鎮護国家思想が広まった時代。この鎮護国家思想とは、仏教によって国を守ろうとする思想、さらには、仏教は国家を守るほどの大きな力があると考える思想を指します。これにより、政治と仏教は密接になりました。
仏教の力を用いて国を安定させる考え方が広まると、時の天皇・聖武天皇は東大寺に大仏建立の詔を発するほか、各国(各県)にお寺を建立するように指示。これらによってたくさんの仏教建築や仏像が造られ、さらに天平文化を豊かに発展させました。
天平文化の特徴
では、天平文化にはどのような特徴があるのでしょうか。3つのカテゴリーで紹介します。
国際色豊かな文化
天平文化は国際色豊かであることが最たる特徴です。世界最大都市の唐からの最先端の文化が多く輸入され、様々ところに反映されました。
例えば、平城京の朱雀門や大極殿には鮮やかな朱色が用いられ、今までにない豪華な仕様に。他にも唐招提寺金堂、東大寺転害門(てがいもん)なども今までにない雄大さを兼ね備えた大きな造りに変化します。ここに、当時の日本が海外交流を大事にしていた軌跡を読み取れます。
また、ペルシャやインドから伝わった宝物を収蔵する正倉院もそのひとつ。ガラス陶器や琵琶、南方の海の貝、琥珀など今までの日本には無かった海外文化の美術工芸品は、国家によって丁重に正倉院に収められました。現在も貴重な宝物として収蔵されています。
仏教に基づき花開いた文化
天平文化とは、仏教に基づいて花開いた文化でもあります。「仏教には国を守る力がある」という鎮護国家思想が定着したために、時の天皇であった聖武天皇は平城京周辺にたくさんの寺院を建立させるほか、各国に国分寺・国分尼寺を建立するように指示。全国各地に仏教の勢力が広まりました。
これに伴い、仏像などの仏教美術も多数生まれ、仏像を造る素材にも唐の技術が用いられるようになり、今までにない躍動感溢れる仏像が誕生したのも天平文化を知る上で欠かせない事実です。
衣服の規定が細かい
天平文化は、当時制定された「大宝律令」の影響も大きく受けています。
大宝律令には、貴族の服装を決める「衣服令」という規定が含まれていました。朝廷の行事の際に親王などの五位以上の人が身に付ける「礼服」、平常出仕の際に着る「朝服」、身分の低い人が着る「制服」が定められました。
貴族の女性に関しては、頭のてっぺんに髪を丸い輪で結ぶ宝髻(ほうけい)や、眉間や口元に緑の点を描く化粧をするように定められました。
衣服・化粧に関しても全てが唐からの影響を受けており、鮮やかな色彩が特徴です。
你好