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天平文化とは?特徴から時代背景まで簡単に解説【服装や仏像も紹介】

天平文化とは、平城京へ都が移った710年から8世紀中頃までに栄えた文化です。元号の天平を取って「天平文化」と呼称されました。

貴族の台頭で独自に発展した国内の文化と、外交や仏教に基づく国外の文化が色濃く取り入れられた天平文化。当時造られたものは、貴重な文化財として現在も脈々と受け継がれています。

とはいえ、1300年以上も昔の文化であることから

「天平文化の時期や特徴がいまいちわからない…」
「天平文化時代の有名作品ってどんなのがあるの?」

などといった疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。生きていない時代の文化を理解しようにも、なかなかイメージしづらいですよね。

そこで今回は、天平文化の特徴から時代背景、代表作品まで解説します。この記事を読めば、天平文化がどんな時代だったのかを余すところなく理解できますよ。

天平文化とはどんな文化?

天平文化の始まりの都・平城京
出典:旅と写真.com

天平文化とは、奈良時代の天平年間に生じた文化であり、平城京に遷都した710年から8世紀中頃までの時期の文化を指します。

平城京の都が(中国)の長安を模して造営されたことからも分かるように、奈良時代は国際交流が盛んに行われていました。その影響も受け、今までにないデザインや色が用いられた国際色豊かな文化です。

また、権力が国家に集中する「中央集権国家」へ徐々に移行し、貴族を中心に栄えた高貴な文化でもあります。しかし天然痘の流行や内乱も多かったために、非常に国勢が不安定だったのも事実。その不安を安定させようと仏教の力を借り、寺院や仏像が数々生まれた文化でもあります。

他にも、「万葉集」や「日本書紀」の成立、シルクロードによってもたらされた正倉院宝物など、今までの日本には無かった斬新で目新しい物々が生じた文化でもありました。1300年以上経った今でもそれらは貴重な文化財として扱われています。

天平文化と国風文化の違い

国風文化の象徴「源氏物語」の世界
出典:今昔物語集 現代語訳

天平文化がの文化を受けた国際色豊かなものであるのに対し、国風文化は平安時代に興った日本独自スタイルの和風な文化です。

奈良時代、遣使が盛んに唐へ渡っていたのでその文化を吸収して天平文化が形成されました。次第に、平安時代になると遣唐使が廃止されたため、自然に日本独自の文化が作られていくようになります。

天平文化が興った奈良時代は、男性貴族を中心とした政治が行われていました。しかし平安時代になると摂関政治が行われ、教養ある女性が政界に入るように。ここに2つの文化に違いが生じる背景があります。

唐から伝わった漢字を日本風にした「万葉仮名」を用いていた天平文化に対し、国風文化には「かな文字」「カタカナ」が使用されるようになりました。特に文学などでは、天平文化は力強い男性的なイメージがある一方で、国風文化は女流文学も登場し、やわらかな雰囲気が印象的です。

天平文化が花開いた背景

東大寺大仏殿
出典:wikipedia

天平文化が花開いた背景にはどのようなことがあったのでしょうか。詳しく解説していきます。

唐からの影響

唐の長安のイメージ図
出典:フォートラベル

日本が奈良時代の時、唐は世界最大の都市でした。そこへ継続的に遣唐使を送っていた日本は、世界最先端の唐の文化を持ち帰り、日本に強く反映させました。

710年に造営された平城京も唐の都・長安を模倣したもの。朱色が輝く壮大で今までにない絢爛な色彩が取り入れられました。また、シルクロードによって結ばれていたインドやペルシャの物々も遣唐使によって持ち帰られ、それらを収蔵する「正倉院」も建てられました。これも天平文化の賜物です。

鎮護国家思想による仏教の影響

東大寺毘盧遮那仏
出典:流れる時代を見る

天平文化は仏教思想からも多大な影響を受けています。

奈良時代は鎮護国家思想が広まった時代。この鎮護国家思想とは、仏教によって国を守ろうとする思想、さらには、仏教は国家を守るほどの大きな力があると考える思想を指します。これにより、政治と仏教は密接になりました。

仏教の力を用いて国を安定させる考え方が広まると、時の天皇・聖武天皇は東大寺に大仏建立の詔を発するほか、各国(各県)にお寺を建立するように指示。これらによってたくさんの仏教建築や仏像が造られ、さらに天平文化を豊かに発展させました。

天平文化の特徴

天平文化が花開いた奈良中心地
出典:LINEトラベルjp

では、天平文化にはどのような特徴があるのでしょうか。3つのカテゴリーで紹介します。

国際色豊かな文化

遣唐使の船がたどる地図
出典:和魂美才

天平文化は国際色豊かであることが最たる特徴です。世界最大都市の唐からの最先端の文化が多く輸入され、様々ところに反映されました。

例えば、平城京の朱雀門や大極殿には鮮やかな朱色が用いられ、今までにない豪華な仕様に。他にも唐招提寺金堂、東大寺転害門(てがいもん)なども今までにない雄大さを兼ね備えた大きな造りに変化します。ここに、当時の日本が海外交流を大事にしていた軌跡を読み取れます。

また、ペルシャやインドから伝わった宝物を収蔵する正倉院もそのひとつ。ガラス陶器や琵琶、南方の海の貝、琥珀など今までの日本には無かった海外文化の美術工芸品は、国家によって丁重に正倉院に収められました。現在も貴重な宝物として収蔵されています。

仏教に基づき花開いた文化

寺院が立ち並ぶ奈良の風景
出典:フォートラベル

天平文化とは、仏教に基づいて花開いた文化でもあります。「仏教には国を守る力がある」という鎮護国家思想が定着したために、時の天皇であった聖武天皇は平城京周辺にたくさんの寺院を建立させるほか、各国に国分寺・国分尼寺を建立するように指示。全国各地に仏教の勢力が広まりました。

これに伴い、仏像などの仏教美術も多数生まれ、仏像を造る素材にも唐の技術が用いられるようになり、今までにない躍動感溢れる仏像が誕生したのも天平文化を知る上で欠かせない事実です。

衣服の規定が細かい

天平の貴族の練り歩き
出典:奈良県

天平文化は、当時制定された「大宝律令」の影響も大きく受けています。

大宝律令には、貴族の服装を決める「衣服令」という規定が含まれていました。朝廷の行事の際に親王などの五位以上の人が身に付ける「礼服」、平常出仕の際に着る「朝服」、身分の低い人が着る「制服」が定められました。

貴族の女性に関しては、頭のてっぺんに髪を丸い輪で結ぶ宝髻(ほうけい)や、眉間や口元に緑の点を描く化粧をするように定められました。

衣服・化粧に関しても全てが唐からの影響を受けており、鮮やかな色彩が特徴です。

天平文化時代に起きた3つの出来事

天平年間を治めた聖武天皇
出典:歴史しんぶん

文化は、その時に起きた出来事と切っても切り離せません。天平文化が興った時代にはどんなことが起きたのでしょうか。

東大寺大仏開眼供養

大仏開眼の様子
出典:雅楽-gagaku-あれこれ

東大寺の仏様・毘盧遮那仏は、742年(天平14年)に完成し、752年に「大仏開眼供養会」が行われました。「開眼供養」とは仏の魂を入れること。約10年の年月と260万人の労力がかかった当時最大の仏様でした。

東大寺毘盧遮那仏が造立された背景には、聖武天皇の仏教帰依がありました。河内国(現在の大阪府)知識寺に参拝に行った聖武天皇は、民衆から毘盧遮那仏が信仰されていることを知り、都の奈良にも同じ毘盧遮那仏像を造立するのを懇願したといいます。

天然痘の流行

飢饉の様子
出典:探検コム

奈良時代には天然痘が流行しました。天然痘とは赤い発疹が体中出て、発熱や倦怠感を伴い死に至る病。735年から737年の2年間にかけて大流行し、全国で100~150万人が亡くなったと言われています。これは当時の人口の25~35%にあたる数でした。

737年には政務を停止する事態になり、政治情勢にも打撃を与えます。また、当時政権を握っていた藤原四氏(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)も天然痘で死亡する事態になりました。九州または遣唐使が感染源とする見方など複数の記録が残っていますが、定かにはなっていません。

農民の多くが天然痘に罹患したために、農地の放棄され、飢饉が引き起こされます。このような厄災から聖武天皇が仏教の力で国を守ろうとしたことで、天平文化が仏教色強い文化へと発展しました。

唐との交流が盛んになる

遣唐使が乗った船
出典:ヒストリアンベル

中国の先進的な情報を収集する目的で派遣された遣唐使。主に、政治制度、技術、文化、宗教についての情報を集めるために、奈良時代には7回唐へ渡った記録があります。

日本は唐の皇帝に対して原材料の「朝貢品」(貢物)を渡し、そのお返しに工芸品や絹織物が下賜されました。この時の返礼品は、正倉院に収められています。

他にも仏教の経典なども伝来し、当時の日本の宗教観にも大きな影響を与えました。

天平文化を飾る代表作品【分野別】

天平文化を代表するものには何があるのでしょうか。分野別に細かく紹介します。

建築物

唐招提寺(とうしょうだいじ)

唐招提寺
出典:wikipedia

唐招提寺は、唐僧・鑑真(がんじん)が朝廷から譲り受けたお寺。律宗の総本山です。「招提」とは、サンスクリット語で「四方」という意味。「四方からの僧が集まるお寺」という意味で唐招提寺と名付けられました。

天平時代の特徴の一つである、唐との盛んな交流。唐僧・鑑真は12年間に5回の失敗、失明をしながらも、その厚い信仰心のもと来日しました。弟子の忍基(にんき)の政策指導のもと制作された鑑真和上の像は今も当時の豊かな色彩を残したまま唐招提寺にあり、天平文化の代表物とされています。

唐招提寺には、奈良時代に建立された金堂が今もなお残されており、国宝に指定されています。ほかにも、朝廷の官人が出仕する際の控室「朝集殿(ちょううしゅうでん)」を移築・改修した講堂も鎌倉時代から現存。東アジア伝統の屋根造り「入母屋造り(いりもやつくり)」を見ることができます。

薬師寺

薬師寺
出典:旅ぐるたび

薬師寺は法相宗の大本山、朝廷の保護を受けた寺・南都七大寺の一つです。680年に藤原京の地に造営されましたが、平城京遷都後に奈良の西の京に移転しました。

中央に本尊を祀る金堂、東西に西塔と東塔の二基の塔を配置した伽藍配置は、薬師寺が日本で最初のもので、これを「薬師寺式伽藍配置」といいます。また、塔の各層に裳階(もこし)と呼ばれる小さな屋根が付いている造りは「龍宮造り」と呼ばれ、流動感と壮麗さが兼ね備わっているのが特徴です。その美しさから東洋美術家・フェノロサは「凍れる音楽」と称しました。

他にも大講堂や食堂(じきどう)など、朱色と白が基調になった建築物が薬師寺の特徴。東塔以外は、昭和以降に立て直されており、再現高い当時の色彩を感じられます。

東大寺

東大寺
出典:wikipedia

奈良時代、聖武天皇が国力を尽くして造立した東大寺は、華厳宗の大本山。「金光明四天王護国之寺」の異名も持ち、毘盧遮那仏があることでも有名です。奈良時代当時、全国に約60の国分寺を建立された「国分寺」の中心をなす「総国分寺」でもありました。

東大寺の起源は、聖武天皇と皇后光明の皇子・基王(もといおう)の弔いのために建立された金鐘寺が起源とされており、「国分寺造立の詔」と同時に大和国の国分寺になりました。

毘盧遮那仏像とともに、世界最大級の木造建築である大仏殿、南大門、転害門、法華堂、二月堂のほか、金剛力士像、四天王像などがあり、その多くが奈良時代から鎌倉時代に造立され、当時の文化を色濃く残しています。

法隆寺

法隆寺
出典:アートアジェンダ

聖徳太子が607年に創建した聖徳宗総本山のお寺、法隆寺。現存する世界最古の木造建築として世界遺産に登録されています。

法隆寺の中で天平文化を代表する建築は「東院夢殿」です。聖徳太子を追慕して建立され救世観音像を本尊にしています。高い基壇の上に立つ八角円堂は天平文化建築の特徴です。

正倉院

正倉院
出典:美術手帖

正倉院は聖武天皇と光明皇后のゆかりの品を収蔵する建物。東大寺の中にあり、国宝および世界遺産に登録されています。

聖武天皇を亡くした妻の光明皇后が、聖武天皇愛用の品を大仏に捧げようと考え、収蔵したのが正倉院の始まり。それだけでなく、大仏開眼供養の儀式の際に使用された品や、遣唐使や留学僧が持ち帰ったインドやペルシャの工芸品も収められています。

正倉院の特徴は校倉造(あぜくらづくり)です。これは柱を用いず、断面が台形や三角形の木材を井桁に積み上げて壁にした造りのこと。校倉造にすることによって、湿気が多くなると木が膨張して木と木の隙間が無くなり湿気を防げるほか、乾燥した時には木が縮み風通しが良くなる仕組み。日本の伝統的な建築様式です。

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