花魁の仕事内容
花魁は馴染みのお客の接客以外にも、色々仕事がありました。この項目では花魁が普段している仕事を紹介します。
花魁の一日の過ごし方は?
花魁の一日は前日の夜から寝ているお客と共に起き、お客を送り出すことから始まりました。時間は早朝4時くらいだったといいます。客を送り出した後2度寝していました。しかし午前10時には起きて、入浴・食事・掃除などをしていました。
吉原の風呂屋は正午に閉まってしまうために、それ以前に入浴を済ませないといけなかったといいます。そして正午から昼見世が始まりました。花魁は昼お店には出ないので、その時間に2時間ぐらいかけて着替えをし、昼食を取り終わったら馴染みの客に手紙などを書いていたといいます。
そして16時から花魁道中がはじまり、18時から宴会が始まりました。宴会が終わり床入れが午後10時前後であり、寝る時間はお客によって様々でした。しかし十分な睡眠が取れないのは間違いなく、花魁は非常に寝る暇もない一日を過ごしていました。
花魁は遊女たちの面倒をみていた
花魁は上客を相手する高級遊女でしたが、出費も多く決して裕福ではありませんでした。花魁は多くの禿や新造を従えているために、自分の座敷を維持する費用が必要だったといいます。そして従えている遊女たちの費用も花魁持ちだったために、費用はかなりかかり儲けはあまりなかったそうです。
この時付き従っている禿や新造は姉さん女郎に付き従い、身の回りの世話をしながら花魁から遊女としての教養やお客のあしらい方などのテクニックを習っていたといいます。遊郭でも現在と変わらない組織の仕組みが既に出来上がっていたのです。
八文字という歩き方を習得した
花魁道中の際、花魁は「八文字」という独特の歩き方をしました。これは黒塗りの三枚歯だった高下駄を「八文字」を描くように歩き、習得するのに3年ほどかかったともいわれています。
古くは京で「内八文字」が起源で、内側から足を踏み出すことにより動きが小さくおしとやかな印象を与えていました。しかし1650年代、吉原の花魁「勝山」が「外八文字」で歩くことにより派手さを演出しました。それから吉原では「外八文字」が主流となったといいます。
花魁道中とは?
花魁といえば、「花魁道中」をイメージする人も多いのではないでしょうか。現在お祭りでも再現される花魁道中は、凄く華やかですよね。しかし花魁道中がどういったものなのか知らない人も多いので、ここでは簡単にどういったものかを解説します。
花魁道中の意味とは?
花魁が禿や振袖新造を引き連れて揚屋や引手茶屋に練り歩くことです。馴染み客を迎えに楼内を美しく着飾った練り歩きは、見物客が溢れたといわれています。そうした見物客にとって、花魁道中は目を楽しませるものとなり、豪華さが増していったといわれています。
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花魁を取り巻く人たちは?
花魁道中は花魁の妹分の遊女たちを多く従えて練り歩きました。そういった妹分の遊女たちはどんな人たちだったのかを簡単に見ていきます。
禿(かむろ)
花魁の身の回りの世話している見習い遊女です。身の回りの世話は多岐にわたり、食事の配膳や煙草の吸いつけ、郭内の小間使いをしていました。そうして花魁の身の回りの世話をしながら三味線や唄・書などを習ったといいます。その中でも器量がいい子は引っ込み禿となって楼主などから英才教育を受け、将来花魁に成れるように教育されたといいます。
番頭新造(ばんとうしんぞう)
花魁の身の回りの面倒を見る新造で、外部との応対など諸方面で世話していました。眉毛を剃らず、紅白粉で化粧しないのが特徴です。大体30歳前後の年齢で、見受けされないまま年季があけた遊女が郭内で働くためになりました。また器量が悪く遊女として売りだせないものがなるポジションでもあったようです。
振袖新造
15,16歳ぐらいの遊女見習いで姉さん遊女についていますが、客を取ることはありませんでした。多忙な花魁の代わりとして客の相手をすることもありました。その時も客と床入れはしませんが、密かに客を取っている新造もいたそうです。その場合の稼ぎは花魁デビューの際の足しにされました。基本的に振袖新造は、格の高い花魁になることが約束されたポジションの遊女だったのです。
留袖新造
15,6歳になっても独り立ちが出来ず、姐さん女郎に面倒を見てもらいながら客をとる遊女を「留袖新造」と呼びました。振袖新造は客を取れませんが、留袖新造は客を取れました。主に高級遊女になる道から外れた遊女や、10代で売られたために禿を経なかった遊女がなったそうです。
花魁言葉とは?
花魁が話す独特な話し方を花魁言葉といいます。別名、廓詞(くるわことば)・ありんす詞とも呼ばれる言い回しはどんなものなのかを解説します。
花魁言葉である「廓詞」が生まれた理由
廓詞が遊郭で使われるようになった背景には、各地方から遊女が集まってくることが理由でした。貧しいために売られた女性は、そのほとんどが地方の農村でした。そのために田舎の方言が出ないように廓詞が出来たのです。
特に花魁は高嶺の花であるために、地方出身であることは絶対に隠さないといけないことであり、徹底的に廓詞を叩き込まれ多くの男性を虜にしてきました。
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有名な廓詞
廓詞でとくに有名なのは「~ありんす」や「~なんし」という言い回しで、一般的な言葉よりも艶めかしい印象を与える言葉です。その他に珍しい言い回しや現在も使われている言葉もあるので、有名なものを3つ紹介します。
その1:「わちき」
「わちき」とは「私」のことをいいます。この言葉は花魁や上級遊女が使用しました。中下級遊女は「わっち」といい、階級で「私」の言い方も使いわけられていたのです。
その2:「お茶を挽く」
暇をもてあますという意味で、現在でも水商売で使われる言葉です。これはお客がつかず暇な遊女がお茶を挽かされてばかりだったために出来た言葉だそうです。そのため遊郭では「お茶」は縁起の悪い言葉でした。
その3:「おいでなんし」
言葉通りの意味でとると「こっちにいらっしゃい」ですが、遊郭では「いらっしゃいませ」を意味します。なんとなく艶やかで、立ち寄りたくなってしまう言葉です。現在長野の一部で「おいでなんし」という言葉が残っていますが、「いらしてください」と別の意味で使われています。
どうしたら花魁になれるのか?
花魁も最初から花魁ではなく、段階を踏まえた一握りの女性がなることができました。どのようにしたら花魁になれるのか?解説します。
禿から振袖新造になること
少し前述しましたが、花魁になる第一歩は禿になることから始まりました。花魁になるためには、多くの教養を学ばねばならず10歳前に入った禿でないと習得が難しいほど多岐に渡っていました。そして勉学以外にも、花魁の元で遊女としてのしきたりや言葉を学んでいます。この中で器量が良く楼主や女将に認められた禿は、「引込禿(ひきこみかむろ)」と呼ばれ、英才教育が施されたといいます。
引込禿が15歳前後になると、花魁見習の振袖新造になり花魁について本格的な接客のノウハウを学びました。17歳には遊女としてデビューし、「昼三」「つけ廻し」とステップアップしていったのです。
花魁になるための教養が必須
花魁は教養が必要なために、禿時代に徹底的に古典や書道・茶道・和歌・筝・三味線・囲碁など芸事と教養を叩き込まれました。理由は吉原の客が武士や豪商、文化人などでどんな相手にも恥ずかしくない教養を身に着けておく必要があったのです。
その中でも特に力を入れていたのは手習い(習字・文字の読み書き)で、識字率が低い江戸時代でも手紙を書くことは花魁にとって非常に重用でした。客にまた通ってもらうために手紙を書くことにより、営業をかけていたのです。
有名な花魁たち
花魁の中でも有名な人物を代表して4名紹介します。
吉野太夫
大見世の世襲制名だった「吉野太夫」で、一番有名なのが2代目吉野太夫です。14歳の若さで太夫になり、楽器・書道・茶道・文学などにも優れていたといいます。
吉野太夫の身請けに関白・近衛信尋と豪商の灰屋紹益が競っていましたが、結局豪商の灰屋の方が勝ち26歳で身請けされて結婚しました。その後質素に暮らし38歳で亡くなったそうです。