過去の壮絶な病歴
夏目漱石は、幼い頃より病弱な人物でした。天然痘や虫垂炎にはじまり、大人になってからは精神的な病にも悩まされていました。さらに、晩年には胃潰瘍の他にも、痔や糖尿病での通院を余儀なくされたのです。
幼い頃から病弱だった
夏目漱石の病歴は、わずか3歳で発症した天然痘(てんねんとう)からはじまりました。天然痘とは、「天然痘ウイルス」による感染症で、発熱に加えて全身に疱瘡(ほうそう)という発疹が表れ、顔に痣が残ると言われています。夏目漱石も右頬に痕が残り、コンプレックスに感じていました。
また、大学の予備校時代には、虫垂炎や結膜の病気であるトラコームにもかかりました。結果、大学入学を留年しています。教師として働きだしてからも、肺結核や神経衰弱に悩まされ、病弱な人生を歩んだのです。
精神病弱、現在で言ううつ病?
夏目漱石は、もともと神経質な性格だったと言われています。彼の精神病弱に拍車がかかったのは、33歳の頃、国費留学生としてイギリスへ渡った時でした。
夏目漱石は当時、熊本の第五高等学校で教授を務めていました。幼い頃より英語の成績がよく、英文学者としても活躍していたのです。すると、文部省から「国費留学生として、英国で英文研究に従事するように」と命を受けます。そして1900年、夏目漱石は家族を残して渡英しました。
もっとも不愉快な2年間なり
留学中、十分でなかった国費によって貧しい生活を強いられ、英国の人々の人種差別、自身のコンプレックスを強く感じるようになります。
結局、夏目漱石の精神病弱は悪化し、帰国命令が下って日本へ帰還しました。帰国後には、教え子の自殺が重なり、常に不安定な精神状態が続いたといいます。現代の医療で診ると、「うつ病や統合失調症の気があったのでは?」と言われているほどです。
最後の様子とは
夏目漱石は1916年12月9日、自宅で執筆作業中に腹部の内出血を起こして亡くなりました。彼の死に際の言葉には諸説ありますが、倒れた後には目を覚ますこと無く、この世を去ってしまいました。
日本を代表する文豪の最後の姿とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
最後は自宅で迎える
夏目漱石は亡くなる数日前、フランス学者である辰野隆の結婚式に参列していました。祝宴の場に用意された「ピーナッツ」も食べています。
その後、当時連載中だった「明暗」の執筆を進めていた際に、突然激しい痛みに襲われます。諸説ありますが、家族がかけつけると「腹に水をかけてくれ」と叫んだと言われています。そして、泣く娘を叱責した妻をなだめ、「いいよ、泣いてもいいんだよ」と声をかけました。
そして、そのまま帰らぬ人となったのです。
夏目漱石の遺体は、東京帝国大学の医学部解剖室にて解剖されました。なんと、その際に摘出された脳や胃は寄贈されており、現在も保管されています。自宅で最期を迎えた夏目漱石は、家族が見守る中静かに息を引き取ったのです。
未完の作品「明暗」
「明暗」は、朝日新聞で1916年5月から連載されていた長編小説です。188回も続いていた作品でしたが、残念ながら未完となってしまいました。
複雑な夫婦関係を軸として、人間のエゴイズムを描いた近代小説です。シュールな設定ですが人気を博し、未完となったあとも、高い評価を得ている作品になっています。
未完ですが、夏目漱石の死の翌年には岩波書店から刊行され、現在でも多くの人に愛されているのです。
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夏目漱石死因に関するまとめ
夏目漱石の人生は、病気とともに歩んだといっても過言ではありません。しかし、決して暗いものだけでもありませんでした。
例えば、精神を病んだ英国留学ですが、「創作への方向に向かう」きっかけとも発言しているのです。夏目漱石は37歳で作家デビューし、作家人生は10年ほどしかありませんでしたが、病と戦い、偉大な作品を多く残しました。なにごとも、辛いことばかりではないのです。
今回は、過去に千円札の顔にもなった偉大な小説家、夏目漱石の死因についてご紹介しました。彼の作品は、自身の人生を反映した作品が多くあります。この記事をきっかけに、彼の作品の奥深さを知っていただけると幸いです。
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