勘合貿易とは?目的や輸出入品、朱印船貿易との違いもわかりやすく解説

勘合貿易の輸出入品

莫大な利益を生んだ銅
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勘合貿易では主に銅や硫黄が輸出され、貨幣や生糸などが輸入されました。両国ともに不足していた品物だっただけに、この貿易は大いに人々の生活に役立たれたのです。

では、なぜそれぞれが重宝されたのか?詳しく解説します。

輸入品

日本に大量に輸入された「永楽通宝」
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明は、当時から日本と比べて技術が進歩していました。日本から輸入した銅を加工して貨幣を製造したり、生糸を編んで織物を制作して輸出したのです。明から輸入した品物は、「唐物」として高い人気を誇り、原価より高値で流通しました。

さらに、明には銅から銀を抽出する技術があり、「銅よりは高く、銀よりは安い」価格で取引されました。輸入された貨幣は、「永楽通宝」と呼ばれています。この貨幣は、その後江戸時代まで利用され、日本経済の柱となりました。

輸出品

日本国外からも愛された日本刀
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日本からは主に銅や硫黄、武器としての刀や漆器を含む工芸品が輸出されました。明には銅が少なく、日本には一定量の保有があったために高値で取引されたのです。

また、「日本刀」も非常に人気がありました。美しくも武器として精巧な日本刀は、古くから中国大陸でも知られていたのです。そのため、武器や社会的ステータスとして明の人々に珍重されました。

勘合貿易は、双方にとって有益なものだったのです。

勘合貿易はビジネスとして大成功していた

明の国章
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勘合貿易は、実はビジネスとして大成功していました。その背景には、勘合貿易そのものが明が主張する「朝貢貿易」という形で成されていたという点がありました。

朝貢貿易とは、主上が客人をもてなすという中華思想に基づいた貿易のことを指します。中華では「客人を徹底的にもてなして満足させる」という考え方があるのです。中華料理が大皿で大量に出されるのは、その名残からになります。

つまり、日本からの輸出品を主上への貢物として捉え、明はそれ以上の返礼品を輸入品として送りました。主上は客人に対し、徳を示す必要があったからです。莫大な返礼品のおかげで、日本は結果的に元値の4〜20倍もの利益を得ることができました。

さらには、明への交通費や使者の滞在費も負担してもらえたというので驚きです。勘合貿易での成果は、足利義満が求めた利益そのものだったのです。

勘合貿易と倭寇

倭寇討伐で名を成した李成桂
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勘合貿易と倭寇には、密接な関係がありました。そもそも倭寇とは、日本を表す「倭」と海賊を意味する「寇」を合わせて呼んだ合成語です。

倭寇に困り果てた明は、日本に鎮圧を要請し、海賊と商船を見分けるために勘合符を利用しました。倭寇については、室町時代の初期に活動が盛んになったとされています。

倭寇の取り締まりについては、勘合貿易がはじまる以前から要望がありました。朝鮮では倭寇の討伐に乗り出した李成桂が活躍し、1392年に朝鮮王朝を樹立したという壮大なエピソードもあります。

勘合符を用いた貿易体制は、倭寇が存在しなければ誕生しなかったといっても過言ではないのです。倭寇はその後、利益を手に入れた幕府が褒美を与えると、次第に消滅してゆきました。

勘合貿易の歴史

勘合貿易の正式商船に掲げられた旗
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ここまで、勘合貿易について触れてきました。では、勘合貿易の詳細な歴史とはどのようなものだったのでしょうか?

そもそも勘合貿易は、日本と中国大陸との数百年ぶりの国交復活でした。勘合貿易は、倭寇の影響もあって幕を開け、中断や復活を経て長く人々の生活に貢献していたのです。

背景にあったのは「海賊」?

現代で有名な海賊旗、ジョリー・ロジャー
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前述したとおり、勘合貿易の背景には倭寇と呼ばれる海賊がいました。彼らの多くは日本人であり、対馬や瀬戸内海などを中心に、朝鮮半島や中国大陸を狙って略奪行為を行っていたのです。さらに、時には人を連れ去り、奴隷として扱っていました。

日本はまず、1367年に朝鮮の高麗から「倭寇を取り締まるように」と要求されました。しかし、当時の日本は南北朝時代の最中。全くそれどころでありませんでした。

その後問題視を強めたのが、明の建国者であり皇帝の光武帝(朱元璋)でした。彼は日本に使者を送り、倭寇鎮圧の要請を出したのです。一度はうまく進まなかった両者の交渉ですが、足利義満が太政大臣の位に就き、南北朝の統一を成し遂げたことで、話は前進します。

足利義満は見事倭寇の鎮圧を成し遂げ、明国より「日本国王」として認められたのです。これにより、勘合貿易は無事に結ばれることになりました。

数百年ぶりの国交回復

現代からは想像できない、モンゴルとの戦い
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勘合貿易の先駆けとも言える日明貿易、実は数百年ぶりの国交回復でした。

明はもともと現在のモンゴルである「元」から、光武帝が独立させて建国した国家であり、元時代には「日元貿易」も行われていました。しかし、日元貿易は実に緊張状態の上で行われていたのです。なぜなら元は13世紀に2度の蒙古襲来を仕掛けており、日本の利益を獲得するために画策していたからです。しかし、この時には私貿易のみに留まり、正式な国交には至りませんでした。

中国との正式な国交は、勘合貿易が久しぶりの出来事だったのです。

中断と再開

勘合貿易再開のために尽力した、足利義教
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日本にとって大きな利益を生み、メリットが多いように思われる勘合貿易でしたが、実際には日本側から批判の声もありました。それは、勘合貿易が「朝貢貿易」という形に応じていたからでした。

朝貢貿易のシステムで言えば、明が上で日本が下の立場になります。足利義満はそれを承知で貿易を続けていましたが、幕府や朝廷内で不満を抱く人々も一定数存在したのです。

そして1408年に足利義満が亡くなると、次に征夷大将軍となった義持が中断してしまいます。明の使者を受け入れずに帰国させ、断絶してしまったのでした。

しかしその後、室町幕府の6代将軍に足利義教が就任したことで再開されます。義教は、義満が勘合貿易で巨万の富を得たことを知っていました。当時の室町幕府は権威の失墜や、財政にも困窮していたことから、勘合貿易に目をつけたのです。

義教は、利益を財源として活用するために勘合貿易を再開させ、自ら兵庫県まで遣明船を視察するなど積極的に取り組みました。

勘合貿易に関するまとめ

さまざまな背景や思惑から、長年行われた勘合貿易。晩期には応仁の乱や寧波の乱を経て、豪商であった細川氏や大内氏が活躍しました。しかし最終的に権利を掌握した大内氏が滅亡すると、明との貿易は見込みが立たなくなり、次第に消滅していったのです。

いつの時代にも、権力やお金というものは時代を大きく動かします。勘合貿易が断絶しても、豊臣秀吉の時代には朱印船貿易として外国との交易が盛んに行われています。

現在でも広く行われている中国との貿易は、このように古くからの歴史があります。今回の記事をきっかけに、日本と外国との国交の歴史について、興味を持っていただけると嬉しいです。

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