いつからいつまで施行されたのか
大宝律令は701年に制定され、710年から始まる奈良時代初期の基本法典となりました。律令はその後も改修が進められます。そして757年(天平宝字1)、文武天皇の孫にあたる孝謙天皇の時に養老律令が施行されました。そのため大宝律令はわずか半世紀ほどでその役目を終えています。
大宝律令の原文は残っていませんが、一部が『続日本紀』『令集解』など古記録に残されています。また、養老律令は大宝律令の内容をほぼ継承しているとされることから、大宝律令の内容も推測されています。
ちなみに養老律令のあとはこれを補った刪定律令(さんていりつりょう)、刪定令格(さんていりょうかく)が奈良時代末期から平安時代にかけて編纂されましたが、約20年で廃止されました。平安時代には養老律令を修正、補完した「格式」(きゃくしき)という法令を出して柔軟に使用しています。しかし、平安時代の院政、さらに武士の時代に律令制度は形骸化していきました。
大宝律令の主な内容
刑罰
律とは現在の刑法のこと。罪、そしてその罪に対する罰則などを定めた法律です。その基本は、刑罰の種類の五刑と八虐というものでした。
五刑 | 内容 |
---|---|
笞(ち) | 細い竹の棒でたたく刑罰 (10回~50回の5段階) |
杖(じょう) | 太い木の鞭でたたく刑罰 (60回~100回の5段階) |
徒(ず) | 懲役刑(労働使役で、 1年から3年半の半年刻み) |
流(る) | いわゆる島流しのこと。 大和から見て近流、中流、 遠流と3段階に分かれた |
死(し) | 絞首刑の「絞」と首切りの 「斬」という2種類の死刑。 斬は重い刑罰で殺人と強盗の 罪の刑罰 |
この五刑は形を変えながら江戸時代まで続いていました。江戸時代にも遠島や百叩きの計などがありましたよね。一方、八虐とは天皇殺害や国家への謀反、尊属殺人や上位者に対する殺人、大量殺人など重い罪のことを指します。
中央組織
令とは税なども含めた行政法や政治機構、地方組織、さらに服務規程など行政全般が定められたものです。これらは奈良時代の政治の根本となりました。
中央政府は二官八省の組織が定められました。二官とは太政官と神祇官です。
- 太政官・・・政治を司る部署でいまの司法、立法、行政全体を司る組織
- 神祇官・・・祭事や神祇を扱う部署
太政官では上から太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、少納言、左弁官、右弁官が統括しました。
ただし太政大臣は欠員のことも多く、左大臣が実質的な権力者。そして主な政策はこの7名で話し合って決められていました。
二官八省の八省とは太政官の下につき、実務を担当していました。いまでいう役所の組織で、図表のような8つの省がありました。
これら役所では正しい形式や手続きを重視するなど、官僚体制が構築されました。
位階制度
位階制度は身分制度のことです。一番上の正一位から従八位下、続いて大初位上から一番下の少初位下(しょうしょいげ)まで30もの段階に分かれました。
家柄や勤務評定で位階が上がるシステムでしたが、家柄によって最高位が決まり、親の位階に応じて子供に自動的に高い位階が与えられる世襲制に近いものでした。
そして正一位につけば太政大臣になれるなど、位階と官職はある程度セットになっており、身分によってつける役職が決まっていたわけです。
ちなみに位階の大きな分かれ目は五位以上でした。太政大臣になれる正一位は2億7千万円、従五位下は地方長官につくことができ、年収が2000万近くあったようです。しかしそのすぐ下にあたる正6位上は地方官僚で、年収は150万前後と大きく開きがあったといいます。