大宝律令とは?作られた時代背景や内容、作成者などをわかりやすく解説

地方組織

各地に国司が派遣された。讃岐国府跡
出典:Wikipedia

日本全国を畿内・七道に分け、それぞれ国、郡、里という単位があり、国司(こくし)、郡司(ぐんじ)、里長(りちょう)の3段階の役職がもうけられていました。国は今の都道府県、郡は今の市町、里は市内の町といったイメージです。

  • 国司・・・朝廷から地方へ派遣された貴族。任期のある地方長官。キャリア官僚
  • 郡司・・・地方の有力豪族から選ばれる実務担当。地方官で任期はなし。ノンキャリアの実務官僚
  • 里長・・・集落のトップで主に税の徴収を行った

中央からトップが派遣され、それを地方の有力者が支えるという仕組みで、中央が地方もコントロールできるようになりました。

班田収授と税制

農民たちは口分田を与えられて耕した
出典:たんぼの総合情報サイト

税制は公地公民制をもとに成り立っていました。土地はすべて天皇のものであるという考えで、6歳以上の人民に口分田を貸し与え土地を耕させ、そこで収穫した米の3%を税として徴収したのです。これを班田収授法といいます。

そのほかにもいくつかの税がありました。

名称内容
租(そ)口分田の収穫からの税
庸(よう)布など
調(ちょう)各地の特産物
出挙(すいこ)国から稲を借り、それを
収穫時に利子とともに返す
義倉(ぎそう)飢饉にそなえて
アワなどをおさめる
雑徭(ぞうよう)年間60日、都で労働
運脚
(うんきゃく)
都に庸や調を運ぶ
兵役(へいえき)軍団(各国警備)、
衛士(えじ、都の警備)、
防人(さきもり、
九州北部の警備)

この中で、とくに敬遠されたのが兵役や雑徭でした。兵役に選ばれた人は現地までの移動費用や食料などは自己負担だったようです。 また、税の負担が重く土地から逃げ出す人も増え、公地公民制がくずれていく一因になりました。

制定にかかわった人たち

天武天皇

天武天皇は古代最大の内乱ともいわれた壬申の乱に勝利して即位しました。そして天皇を中心とした中央集権の律令国家造りを目指し、681年に律令の詔を出しています。律令国家へ向けて着々と準備を進めるも、天武天皇は志半ばで亡くなりました。次の持統天皇の時代に飛鳥浄御原令が作成されています。

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藤原不比等

大宝律令の編纂に携わった藤原不比等
出典:Wikipedia

乙巳の変で活躍した中臣鎌足の子。持統天皇の時代に頭角をあらわし政界の実力者となり、大宝律令の作成も主導しました。娘を天皇の妃にして、藤原氏が天皇家の外祖父として権力を握る礎を築きました。

刑部親王

刑部親王が埋葬されている説もある高松塚古墳
出典:Wikipedia

天武天皇の子で藤原不比等と共に大宝律令の作成の中心人物のひとり。天武天皇の命で記紀の編纂、文武天皇の命で大宝律令の選定に携わりました。文武天皇の時代には皇族の代表的存在となり、最終的に太政官のトップにまでなりました。

文武天皇

文武天皇陵
出典:文武天皇

天武天皇の皇太子だった草壁皇子の子。14歳という若さで祖母の持統天皇から譲位され、持統天皇と妻の父である藤原不比等の後見を受けながら政治を執りおこないました。文武天皇の最大の事業が大宝律令の制定で、700年に藤原不比等、刑部親王らに選定させ、701年施行しました。しかし、25歳の若さで崩御しています。

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