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大宝律令とは?作られた時代背景や内容、作成者などをわかりやすく解説

「大宝律令とはいったい何?」
「大宝律令はいつできたもので、どんな内容?」
「大宝律令を作って日本はどう変わった?」

本記事を読まれる方はこのような疑問をお持ちではないでしょうか。大宝律令は飛鳥時代の701年、文武天皇の時代に制定された日本の法典です。日本で初めて行政法と刑法の律令がそろった法典で、天皇を中心とした中央集権の律令国家を支える柱の制度となりました。

大宝律令を施行した文武天皇
出典:Wikipedia

そこで今回は、この時代に大宝律令が作られた理由や、だれが作ったのか、内容やその後の日本に与えた影響などについてわかりやすく紹介していきます。

大宝律令とは

大宝律令について簡単に解説

律令では戸籍も作られた
出典:奈良正倉院に残る最古の戸籍
名称大宝律令
巻数律6巻、令11巻 計17巻
施行年701年
天皇文武天皇
編纂者刑部親王、藤原不比等ほか

前述したように、大宝律令は飛鳥時代の701年、文武天皇の時代に制定された法典です。

大宝律令は日本初の律と令がそろった法典です。律は刑法、令は政治機構も含めた行政法や民法を指します。681年に天武天皇が律令を定める詔(みことのり)を発布し、701年文武天皇の時代に完成し施行されました。の律令を参考にしてつくられたといいます。

大宝律令は国の立法、行政、司法制度の基礎となるものです。こうした律令を柱にした国のことを律令国家といいます。日本も大宝律令を施行したことで、天皇を頂点にした中央集権体制の律令国家となりました。

作った天皇・作成者は誰か

律令の作成を命じた天武天皇
出典:Wikipedia

大宝律令は681年に天武天皇が律令の制作を命じ、701年に天武天皇の孫にあたる文武天皇が制定しました。編纂は天武天皇の子・刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)を中心に行なわれました。

実質的に取り仕切ったのは藤原不比等です。不比等は天武天皇の皇后である持統天皇の時代に台頭した人物で、政界の実力者でした。このほか粟田真人、下毛野古麻呂、出身の役人である薩弘恪(さっこうかく)など19名で編纂が行なわれたようです。

なお、編さんに当たっては藤原不比等らの思惑も入っていたと思われます。刑法にあたる律は、の律をほぼ継承した内容でしたが、行政法である令は、日本の国情にあわせて変えられました。

なかでも蔭位の制(おんい)は、貴族の子がスタート時点から自動的に高い位を授けられる特権制度。これは貴族の世襲を固定化するものです。のちに不比等の息子や孫が最初から高い位につくなど、藤原氏発展に役立ちました。

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大宝律令が作られた背景・理由

百済は唐と新羅によって滅亡
出典: Wikipedia

日本が律令国家を作ったのは、天皇を頂点とした中央集権体制を確立するのが目的でした。それまでも天皇がトップに君臨していましたが、国を動かす基本ルールがなく、国家としてひとつにまとまっているとはいいがたい状況だったのです。

そんな日本に未曽有の危機が訪れます。660年に日本と親しかった百済が滅亡し、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本は唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。

この戦いで、日本が目の当たりにしたのは唐軍の強さでした。豪族の寄せ集めであった日本軍と違い、皇帝の権力の下、一致団結できる唐の強さを目の当たりにしたのです。しかも日本はその唐軍が攻めてくるのではないかと震え上がりました。それに対抗するため日本も天皇を中心に統制の取れた中央集権国家作りが急務となったのです。

白村江の大敗ののち近江大津京に遷都
出典:Wikipedia

その国造りの礎に取り入れたのが律令でした。

天智天皇は唐の律令を採り入れ、671年に近江令を発布します。さらに681年には天武天皇が律令制定の詔を出し、その意志を受け継いだ妻の持統天皇が689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらのりょう)を制定しました。これはどちらも令のみだったといわれています。これに基づいて戸籍が作られ、班田収授に関する規定も定められたようです。

さらに改定が続けられ、誕生したのが大宝律令です。大宝律令は、日本が外国からの脅威に対抗するため必要に迫られて作り出した、律令国家である日本の設計図であり、基本ルールでした。

いつからいつまで施行されたのか

平安時代の延喜式
出典:延喜式神名帳 文化遺産オンライン

大宝律令は701年に制定され、710年から始まる奈良時代初期の基本法典となりました。律令はその後も改修が進められます。そして757年(天平宝字1)、文武天皇の孫にあたる孝謙天皇の時に養老律令が施行されました。そのため大宝律令はわずか半世紀ほどでその役目を終えています。

大宝律令の原文は残っていませんが、一部が『続日本紀』『令集解』など古記録に残されています。また、養老律令は大宝律令の内容をほぼ継承しているとされることから、大宝律令の内容も推測されています。

ちなみに養老律令のあとはこれを補った刪定律令(さんていりつりょう)、刪定令格(さんていりょうかく)が奈良時代末期から平安時代にかけて編纂されましたが、約20年で廃止されました。平安時代には養老律令を修正、補完した「格式」(きゃくしき)という法令を出して柔軟に使用しています。しかし、平安時代の院政、さらに武士の時代に律令制度は形骸化していきました。

大宝律令の主な内容

刑罰

島流しもあった
出典: ゆかしき世界

律とは現在の刑法のこと。罪、そしてその罪に対する罰則などを定めた法律です。その基本は、刑罰の種類の五刑と八虐というものでした。

五刑内容
笞(ち)細い竹の棒でたたく刑罰
(10回~50回の5段階)
杖(じょう)太い木の鞭でたたく刑罰
(60回~100回の5段階)
徒(ず)懲役刑(労働使役で、
1年から3年半の半年刻み)
流(る)いわゆる島流しのこと。
大和から見て近流、中流、
遠流と3段階に分かれた
死(し)絞首刑の「絞」と首切りの
「斬」という2種類の死刑。
斬は重い刑罰で殺人と強盗の
罪の刑罰

この五刑は形を変えながら江戸時代まで続いていました。江戸時代にも遠島や百叩きの計などがありましたよね。一方、八虐とは天皇殺害や国家への謀反、尊属殺人や上位者に対する殺人、大量殺人など重い罪のことを指します。

中央組織

奈良時代の政治機構を定めた大宝律令
出典:Wikipedia

令とは税なども含めた行政法や政治機構、地方組織、さらに服務規程など行政全般が定められたものです。これらは奈良時代の政治の根本となりました。

中央政府は二官八省の組織が定められました。二官とは太政官と神祇官です。

  • 太政官・・・政治を司る部署でいまの司法、立法、行政全体を司る組織
  • 神祇官・・・祭事や神祇を扱う部署

太政官では上から太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、少納言、左弁官、右弁官が統括しました。

ただし太政大臣は欠員のことも多く、左大臣が実質的な権力者。そして主な政策はこの7名で話し合って決められていました。

二官八省の八省とは太政官の下につき、実務を担当していました。いまでいう役所の組織で、図表のような8つの省がありました。

二官八省制
出典:葛飾区史

これら役所では正しい形式や手続きを重視するなど、官僚体制が構築されました。

位階制度

位階制度は身分制度のことです。一番上の正一位から従八位下、続いて大初位上から一番下の少初位下(しょうしょいげ)まで30もの段階に分かれました。

家柄や勤務評定で位階が上がるシステムでしたが、家柄によって最高位が決まり、親の位階に応じて子供に自動的に高い位階が与えられる世襲制に近いものでした。

そして正一位につけば太政大臣になれるなど、位階と官職はある程度セットになっており、身分によってつける役職が決まっていたわけです。

ちなみに位階の大きな分かれ目は五位以上でした。太政大臣になれる正一位は2億7千万円、従五位下は地方長官につくことができ、年収が2000万近くあったようです。しかしそのすぐ下にあたる正6位上は地方官僚で、年収は150万前後と大きく開きがあったといいます。

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