「大宝律令とはいったい何?」
「大宝律令はいつできたもので、どんな内容?」
「大宝律令を作って日本はどう変わった?」
本記事を読まれる方はこのような疑問をお持ちではないでしょうか。大宝律令は飛鳥時代の701年、文武天皇の時代に制定された日本の法典です。日本で初めて行政法と刑法の律令がそろった法典で、天皇を中心とした中央集権の律令国家を支える柱の制度となりました。
そこで今回は、この時代に大宝律令が作られた理由や、だれが作ったのか、内容やその後の日本に与えた影響などについてわかりやすく紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
大宝律令とは
大宝律令について簡単に解説
名称 | 大宝律令 |
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巻数 | 律6巻、令11巻 計17巻 |
施行年 | 701年 |
天皇 | 文武天皇 |
編纂者 | 刑部親王、藤原不比等ほか |
前述したように、大宝律令は飛鳥時代の701年、文武天皇の時代に制定された法典です。
大宝律令は日本初の律と令がそろった法典です。律は刑法、令は政治機構も含めた行政法や民法を指します。681年に天武天皇が律令を定める詔(みことのり)を発布し、701年文武天皇の時代に完成し施行されました。唐の律令を参考にしてつくられたといいます。
大宝律令は国の立法、行政、司法制度の基礎となるものです。こうした律令を柱にした国のことを律令国家といいます。日本も大宝律令を施行したことで、天皇を頂点にした中央集権体制の律令国家となりました。
作った天皇・作成者は誰か
大宝律令は681年に天武天皇が律令の制作を命じ、701年に天武天皇の孫にあたる文武天皇が制定しました。編纂は天武天皇の子・刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)を中心に行なわれました。
実質的に取り仕切ったのは藤原不比等です。不比等は天武天皇の皇后である持統天皇の時代に台頭した人物で、政界の実力者でした。このほか粟田真人、下毛野古麻呂、唐出身の役人である薩弘恪(さっこうかく)など19名で編纂が行なわれたようです。
なお、編さんに当たっては藤原不比等らの思惑も入っていたと思われます。刑法にあたる律は、唐の律をほぼ継承した内容でしたが、行政法である令は、日本の国情にあわせて変えられました。
なかでも蔭位の制(おんい)は、貴族の子がスタート時点から自動的に高い位を授けられる特権制度。これは貴族の世襲を固定化するものです。のちに不比等の息子や孫が最初から高い位につくなど、藤原氏発展に役立ちました。
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大宝律令が作られた背景・理由
日本が律令国家を作ったのは、天皇を頂点とした中央集権体制を確立するのが目的でした。それまでも天皇がトップに君臨していましたが、国を動かす基本ルールがなく、国家としてひとつにまとまっているとはいいがたい状況だったのです。
そんな日本に未曽有の危機が訪れます。660年に日本と親しかった百済が滅亡し、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本は唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。
この戦いで、日本が目の当たりにしたのは唐軍の強さでした。豪族の寄せ集めであった日本軍と違い、皇帝の権力の下、一致団結できる唐の強さを目の当たりにしたのです。しかも日本はその唐軍が攻めてくるのではないかと震え上がりました。それに対抗するため日本も天皇を中心に統制の取れた中央集権国家作りが急務となったのです。
その国造りの礎に取り入れたのが律令でした。
天智天皇は唐の律令を採り入れ、671年に近江令を発布します。さらに681年には天武天皇が律令制定の詔を出し、その意志を受け継いだ妻の持統天皇が689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらのりょう)を制定しました。これはどちらも令のみだったといわれています。これに基づいて戸籍が作られ、班田収授に関する規定も定められたようです。
さらに改定が続けられ、誕生したのが大宝律令です。大宝律令は、日本が外国からの脅威に対抗するため必要に迫られて作り出した、律令国家である日本の設計図であり、基本ルールでした。