天保の改革とは?改革の背景や内容、結果についてわかりやすく解説

倹約令・風紀取締

天保の改革で追放刑にされた七代目市川團十郎
出典:Wikipedia

寛政の改革でも倹約令は出されましたが、天保の改革のものはより過激なものでした。ぜいたくな衣服やかんざし、高価な料理、菓子などの販売を禁止しました。その一方で、ぜいたくの根源ともいえる大奥に対しては上臈御年寄(大奥の役職名、将軍などとも面会できる最上位の役職)である姉小路の抵抗などにより実行されないなど不公平感があるものでした。

また娯楽に対して厳しい規制がされました。ターゲットになったのは主に歌舞伎です。当時人気だった七代目市川團十郎が追放されたり、その他の歌舞伎役者の生活にも厳しい制限が設けられたり、歌舞伎の興行地は大都市のみしか許されないなどそれは厳しいものでした。

また寄席も大きな影響を受けました。天保の改革以前、江戸には200か所を超える寄席がありましたが、規制でその大部分が廃業しました。

天保の改革に関わった主な人物

老中:水野忠邦

水野忠邦の墓
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浜松藩主。天保の改革を指揮した人物です。強引な政策は多くの反発を招きました。最後は上知令を断行しようとしたところ、腹心だった鳥居耀蔵に裏切られるなどして失脚しました。

天保の改革による庶民の恨みも大きく、失脚したときには江戸市民から忠邦の屋敷に石を投げ込まれたほか、「ふる石や瓦とびこむ水の家」と川柳に詠まれるなどしました。

その後老中に再任されましたが往年のようなエネルギーはすでに失われており、「でくのぼうのよう」と評されましたが、鳥居耀蔵など自分を裏切った人物への報復は忘れませんでした。

目付:鳥居耀蔵

鳥居耀蔵の墓
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旗本。水野忠邦の腹心だった人物で、目付として江戸市中の取締りにあたります。非常に厳しい取締りを行ったことから「マムシの耀蔵」「妖怪」などと呼ばれて忌み嫌われました。

1841年(天保12年)には南町奉行だった矢部定謙をでっち上げにより失脚させ、自分が後任におさまります。その後北町奉行の遠山景元にも策略を巡らせ体よく異動させてしまいます。最後には上司である忠邦までも裏切り失脚させました。

しかしその後忠邦が老中に再任した際、手痛い反撃にあいます。役職を解任されたばかりか、全財産を没収され讃岐丸亀藩に預けられて明治維新まで軟禁されることになりました。

北町奉行:遠山景元

遠山景元
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旗本です。時代劇で有名な「遠山の金さん」のモデルでもあります。天保の改革のときには北町奉行でしたが、厳しすぎる改革についてたびたび水野忠邦へ意見しています。

景元のおかげで、天保の改革の厳しさはいくらか和らいだ部分があります。例えば寄席や芝居小屋は当初全面撤廃という方針でしたが、遠山の意見でいくぶんかは緩和されています。

1843年(天保14年)、鳥居耀蔵の策略により大目付に異動させられます。身分上は栄転ですが暇な役職だったので実質左遷でした。天保の改革が失敗した後の1845年(弘化2年)、南町奉行として返り咲きます。

上臈御年寄:姉小路

大奥の様子
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和宮の大叔母に当たる人です。大奥で上臈御年寄(じょうろうおとしより)という最上位の役職についていました。影の最高権力者で将軍家の縁組はすべて姉小路が取り仕切っていたといわれています。

姉小路は将軍家縁組だけではなく幕府の人事や大名家同士の婚姻にも影響力を持ち、賄賂が絶えなかったそうです。そんなに力があるのは将軍家慶と寝たからではないかという噂までありました。

そんな人ですから当然水野忠邦と対立します。しかし結局姉小路が押し切り、倹約令は大奥に浸透しませんでした。この大奥への不徹底は改革が失敗した理由の一つですし、幕府威信の低下にもつながってしまいました。

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