小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

天保の改革とは?改革の背景や内容、結果についてわかりやすく解説

「天保の改革ってなに?」
「名前はなんとなく知ってるけどどんな内容かわからない」
「水野忠邦ってどんな人?」

天保の改革とは、1841年(天保12年)から1843年(天保14年)にかけて江戸幕府が行った改革です。老中首座だった水野忠邦が指揮をとりました。

しかし、この改革は現状を無視した強引な政策が多く、どれも失敗に終わってしまいます。なぜそのような強引な改革が行われたのか、改革が行われた背景から改革の具体的な内容、結果などについて解説していきます。

天保の改革とは

天保の改革をわかりやすく解説

天保の改革とは江戸時代後期の1841年(天保12年)から1843年(天保14年)に行われた幕府による改革です。この改革は享保の改革、寛政の改革とともに江戸時代の三大改革として知られています。

水野忠邦
出典:Wikipedia

この改革は当時の老中首座、水野忠邦が主に指揮をとりました。その内容は株仲間解散令や人返し令など、当時低迷していた経済を立て直そうとするものが多いのですが、ことごとく失敗してしまいます。

なぜなら享保の改革や寛政の改革と比べると過激で現状にそぐわないものが多く、改革が行われたことにより逆に経済が混乱し、人々の反発を招いてしまったからです。

最後に出された上知令(じょうちれい・あげちれい)では、腹心に裏切られたり将軍からもダメ出しを出されたりしてしまい、忠邦は失脚、天保の改革は失敗に終わりました。

享保の改革とは?内容や結果を分かりやすく解説【語呂合わせも紹介】

改革が必要だった背景・理由

天保の大飢饉の様子
出典:Wikipedia

1833年(天保4年)から1839年(天保10年)に天保の大飢饉が発生し、国内で多くの餓死者が出ました。その数は20~30万人といわれています。

そのため百姓一揆や打ちこわしが頻発、1837年(天保8年)には大阪で大塩平八郎の乱が起こります。大塩平八郎は幕府の元与力だったため、幕府に大変な衝撃を与えました。

またこのころから外国船が頻繁に来航するようにもなっており、幕府は国内外の問題が山積みでその威信が低下しつつある状況でした。

一方で幕府内は大御所時代と呼ばれる11代将軍家斉の治世でした。幕府内は賄賂がはびこり、家斉自身を始めとしてぜいたくな生活を送っていたため幕府財政も傾きつつありました。

そういった状況を変えなければならなかったことが、改革が必要だった理由です。

改革を行った3つの目的

大御所時代に幕府財政を傾けた徳川家斉
出典:Wikipedia

改革を行った目的は

  • 経済の立て直し
  • 幕府の体制強化
  • 世の中の引き締めを図る

の3つです。

つまり天保の大飢饉で低迷している経済を立て直し、幕府の財政も改善させ、世の中のだらけた空気を引き締めて幕府の威信も取り戻すというのが天保の改革の目的でした。

1841年(天保12年)に家斉が死ぬと、老中首座だった水野忠邦は家斉の側近たちを次々と左遷し新たな人材を登用します。そうして矢継ぎ早に新たな政策を発していくのでした。

天保の改革の主な内容

天保の改革の主な内容は、

  • 人事政策
  • 経済政策
  • 倹約令・風紀取締

の3つです。順番に詳しく説明していきます。

人事政策

左遷された大名の一人、林忠英
出典:Wikipedia

大御所時代は賄賂が盛んに行われ、幕府内は腐敗していました。忠邦はそんな大御所時代の役人を次々と左遷しました。左遷された人数は旗本が68人、御家人が894人と非常に大規模なものでした。一方で鳥居耀蔵(とりいようぞう)、遠山景元、矢部定謙(やべさだのり)、川路聖謨、高島秋帆などといった新しい人物を登用します。

経済政策

人返し令

百姓
出典:Wikipedia

人返し令とは、江戸に住んでいた農村出身者を強制的に出身地へ返すことです。江戸後期になると貨幣経済が発達し、地方の農民の中にはよりよい収入を求めて都市へ移住する者が増えました。農民の移住により農村の生産高は減少、幕府の年貢収入が減ってしまいました。

そのため農村から江戸への移動を禁じるとともに、江戸に住み着いている元農民については戸籍の調査を行って出身地へ返そうとしますが、効果が出る前に改革が終わってしまいました。

株仲間解散令

菱垣廻船の復元船
出典:Wikipedia

株仲間とは、菱垣廻船など同じ業者の間で作られた組合のことです。忠邦は株仲間による独占が物価高騰の原因だとして株仲間の解散を命じます。解散させれば業界の自由化が進み物価も下がるだろうという狙いです。

しかし株仲間の解散によって、彼らによって運営管理されていた流通システムが機能しなくなり経済が混乱しました。新規参入業者が無秩序な商取引を行ったこともそれに拍車をかけることになりました。結局経済はより悪化してしまいました。

上知令

上知令反対派の盟主だった土井利位
出典:Wikipedia

江戸や大阪周辺の大名・旗本の領地を幕府直轄地にして幕府財政の強化と大都市周辺の国防・治安強化を狙ったのが上知令です。

幕府の直轄地は全国に散らばっていました。一方で江戸・大阪の周辺は幕府領、大名領、旗本領が入り混じっていて、行政手続等が複雑でした。

外国船が襲来に備えるためにも大都市周辺は幕府領で固めるべきと忠邦は考えました。また大都市周辺は豊かな土地が多く年貢収入が多かったため、幕府財政を強化するというねらいもあったようです。

しかし大名や旗本たちからは猛烈な反対が起こりました。領地替えには莫大な費用がかかりますし、自分たちの豊かな土地をそうじゃない土地と交換されるとあってはたまったものではありません。

この上知令は将軍からも否定されてしまうという有様で、忠邦が失脚して天保の改革が失敗する直接的な原因となってしまいました。

無利子年賦返済令

札差が多く店を出した浅草蔵前の地図
出典:Wikipedia

無利子年賦返済令とは、旗本・御家人の借金をすべて無利子にして、元金の返済も20年返済にするという命令です。

借金が増え生活に苦しむ旗本や御家人を救う目的で出されたものですが、札差(ふださし、貸金業者)が貸し渋りをするようになりかえって旗本たちの生活を苦しめることになりました。

改鋳

天保一分銀
出典:Wikipedia

改鋳とは、それまでの貨幣をつぶして新しい貨幣にすることで、その際には新貨幣の金や銀の含有量を減らして通貨の量を増やすことが行われます。例えば金100%の1両小判を金50%に改鋳すると1両小判が2倍作れるのでその分が幕府の利益になるのです。

改鋳自体は天保の改革以前にも何度か行われていましたが、天保の改革では大規模に行ったためインフレが起きて物価は上昇。経済が悪化してしまいました。

1 2

コメントを残す