額田王とはどんな人?生涯・年表まとめ【万葉集に残る和歌や逸話についても紹介】

額田王は7世紀の飛鳥時代の天才的な歌人です。万葉集に収められた歌の中で秀歌と評されるものの中には、額田王の作品も含まれています。

一般的には、恋多き女性というイメージが強いかもしれません。日本の律令国家としての基礎を作ろうとした兄弟の天皇として知られる、天智、天武天皇と深い関係がありました。万葉集には、二人と交わした愛の歌も残されています。

安田靭彦「飛鳥の春の額田王」

しかし額田王は、宮廷歌人という地位を何より大事に考えた、働く女性だったと考えられます。

当時は歌を詠むことが教養でした。歌の才に恵まれていた額田王は、注目を集める存在だったはずです。それは国のトップにいる天皇からも言い寄られるほどの魅力だったのでしょう。

子供まで生まれた大海人皇子(のちの天武天皇)との恋も、女性としてだけでなく宮廷歌人としても天智天皇を支えた関係も、額田王にとってはキャリアウーマンとして選んだ道であったに違いありません。

恋愛、結婚、出産、仕事と、女性は何を最優先に選ぶかで人生が変わってきます。その選択には正解はなく、選んだ道が最善と考えて進むしかないのです。

人生の選択に悩む現代の女性に、ぜひ知って欲しい額田王の生涯です。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

額田王とはどんな人物か

名前額田王
別名額田女王、額田姫王、額田部姫王など
誕生日630年代から640年代前半が濃厚
生地不明
没日690年〜715年が濃厚
没地不明(奈良県桜井市にある粟原寺跡という説あり)
配偶者大海人皇子(のちの天武天皇)、天智天皇、中臣大嶋
埋葬場所野口植山城跡とも呼ばれる植山古墳という説あり
実子十市皇女

額田王の生涯をハイライト

滋賀県雪野山大橋の欄干に立っている額田王像
出典:古都の礎

額田王は、今から1400年近く前の飛鳥時代に活躍した皇族であり、女流歌人です。彼女に関してはとても資料が少なく、一体いつ生まれて亡くなったのかも、出生地もハッキリしていません。生まれたのは631年から637年の間、亡くなったのは690年頃と言われています。

彼女は天武天皇に嫁ぎ、十市皇女という娘を出産、その後は天智天皇とも結ばれました。そこには政治的な駆け引きもあったと思われます。その後は天智天皇の皇子と天武天皇が争った壬申の乱が起こり、さらに人生が変わっていきます。そしてその波乱万丈の人生の中でも、額田王は和歌を詠み続けました。

天武天皇亡き後も、額田王は生き続け、創作を続けました。当時としては長寿だったようで、60歳過ぎまでは確実に生きていたそうです。中には80歳近くまで生きたとする説もあります。豊かな才能を持ち、それを長期間生かし続けたところに額田王の価値があるのです。

額田王の歌は政治的にも重要な働きをした

類稀な歌の才能があった

額田王の歌に詠まれたのは、恋愛だけではありません。彼女の和歌は政治的にも重要な働きをしたと思われます。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮も適ひぬ今は漕ぎ出でな

これは斉明天皇時代に額田王が詠んだ歌です。白村江の戦いを控えたこの時、兵士の心を鼓舞し、安全を祈るための歌として詠まれたと考えられています。額田王は歌一つで皆の出発への気持ちを高めました。

三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや

天智天皇が近江へ遷都した時の歌です。遷都に気が進まない人々に、共感するように歌を読むことで、逆に皆の気持ちを鎮めることができます。額田王の歌が優れていることはもちろん、このタイミングで額田王に歌を詠ませた天智天皇も賢いですね。

このように、額田王は天皇の行う政治を補完する歌を詠むことができました。宮廷歌人として、素晴らしい才能だと言えます。

三角関係も気にしない冷静な性格だった?

ただ美しいだけの女性ではなかった?
出典:Amazon

額田王の有名な和歌からは、彼女がとても冷静な性格だったことがわかります。

あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

これは夫がありながらその弟と心を通わせている、三角関係を表していると言われていますが、実は酒宴の座興として、夫である天智天皇の目の前で披露されたと言われています。自分の恋愛すら、座興にできたのは、冷静であればこそです。

額田王が天武天皇のもとから天智天皇のもとに移ったのも、弟の天武天皇が兄の顔を立てるため、また少しでも自分の立場が良くなるように考えた結果だったとも言われています。

当時は結婚に対する意識が現在とは違っていたとは言え、弟から兄のもとに嫁ぐというのはかなり冷静で強い心でなくてはできないでしょう。天武天皇、天智天皇、額田王の三角関係には額田王の性格がハッキリと現れているのです。

実はかなり有能な女性だった?

額田王の代わりに差し出された1人は持統天皇だった!
出典:Wikipedia

現在に伝わる逸話から、額田王がとても有能な女性だったと推測できます。

すでに弟の妻となっていた額田王をぜひとも欲しいと、天智天皇は自分の4人の娘を差し出しました。そうまでされては断れないと、天武天皇は額田王を差し出したと言います。これを彼女が美しかったからだと解釈することもできます。

しかし、もう1つの可能性が彼女の詠む和歌です。天智天皇は彼女の和歌が自分の政治を支えると考えたのでしょう。そのため、どうしても額田王の和歌の才能が欲しかったのではないでしょうか。

だからこそ、彼女は朝鮮出兵を控えたときや、遷都のときなど国の節目に和歌を詠むだけでなく、天皇になり代わって和歌を詠むという務めを果たしたのでしょう。

まだ若かった娘の死から、朝廷と距離を置くように

十市皇女が嫁いだ弘文天皇
出典:Wikipedia

天武天皇と額田王の娘、十市皇女は天智天皇の息子・大友皇子に嫁ぎました。大友皇子は天智天皇の跡を継ぎ、弘文天皇となりましたが、それを不服とした天武天皇と戦いになりました。これが壬申の乱で、十市皇女にとっては父と夫の戦いとなってしまいました。

乱の後も十市皇女の立場は微妙なものでした。その苦しい立場のまま十市皇女は30歳前後で突然死去。自殺だったとも言われています。

額田王にとっても、かつての夫の勝利は複雑なものだったでしょう。この機会に彼女は朝廷と距離を置くようになりました。冷静な彼女だからこそ、距離を置いたのでしょう。

年齢を重ねても輝き続けた証拠とは

弓削皇子が滞在した吉野宮には1本の碑が立っている
出典:Wikipedia

額田王が生きた時代、平均寿命は30代でしたが、彼女は50歳近くになっても和歌を詠んでいたことがわかっています。

古(いにしへ)に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)がおもへるごと

弓削皇子(天武天皇の第9皇子)が吉野宮から贈った、天武天皇を偲ぶ和歌に応え、作られた和歌は『私のように、昔を恋しがって鳴いているのはホトトギスなのでしょう』という意味ですから、ただ昔を懐かしんでいるようにも思えます。

しかしそこには後継者争いで命を落とした者への深い悲しみを秘めていた弓削皇子に対する思いやりが込められていました。晩年と言われる時期にも、このような創作活動ができた額田王は、年齢にとらわれず輝き続けたと言えます。

額田王の歌

額田王の歌碑
出典:Wikipedia

上記の歌を含め、万葉集に残る額田王作と伝えられている作品は、長歌が三首と、短歌が十首(重複が一首)です。上記の歌以外のものをここでご紹介します。

三諸の山見つつゆけ我が背子がい立たせりけむ厳橿が本

味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに 委曲にも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情無く 雲の 隠さふべしや

冬こもり 春去り来れば 喧かざりし 鳥も来鳴きぬ 開かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉つをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾は

君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く

かからむの懐ひ知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを

やすみしし 吾ご大王の 恐きや 御陵奉仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ

み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく

詳しい解説が知りたい方は、こちらが参考になります。

【万葉集の歌人】額田王が詠んだ歌11選!意味や背景も解説

額田王と関係が深い人物

大海人皇子(天武天皇)

天武天皇
出典:Enpedia

額田王が最初に結婚したのは、天武天皇です。彼が額田王を天智天皇に差し出してから、結婚したのが天智天皇の4人の娘たちで、そのうちの1人が後に持統天皇となりますから、夫婦で20年以上の治世が続いたことになります。

天智天皇に額田王を横取りされた形になりましたが、持統天皇は皇后時代から天武天皇をサポートしていました。それは大臣が一人もいなかったことからも、よくわかります。

律令制度の導入や新しい都の造営、日本書紀と古事記の編纂など、天武天皇は精力的に政治をした天皇でした。

中大兄皇子(天智天皇)

天智天皇
出典:Enpedia

天智天皇は天武天皇の兄にあたります。弟の妻であり、すでに子どもを出産していた額田王を見初めて妻にします。代わりとして自分の4人の娘たちを弟のもとに嫁がせました。

天智天皇はと新羅に滅ぼされた百済を救うために、朝鮮に出兵しますが、白村江の戦いで大敗、母である斉明天皇を亡くしてしまいます。そのため即位してからは、防人を設置するなどの防衛政策を忘れませんでした。また、日本最古の戸籍を作ったことでも知られています。

息子であった大友皇子に皇位を継がせたいと考えていましたが、壬申の乱で大友皇子は敗北、皇位継承は叶いませんでした。この壬申の乱が額田王の人生までも変えてしまうのです。

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