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額田王とはどんな人?生涯・年表まとめ【万葉集に残る和歌や逸話についても紹介】

額田王の年表

630〜640年前半 – 1歳「額田王、生まれる」

額田王、誕生

額田王の誕生

額田王の生まれた年は明記されていないため、娘である十市皇女と、孫である葛野王の年齢から推測していきます。

葛野王は弘文天皇(大友皇子)と十市皇女との間に669年に生まれたと言われています。十市皇女の出産時の年齢は早くても10代半ばと考えられるため、十市皇女が生まれたのは650年代です。

そこから考えて、額田王が10代で十市皇女を出産したとして、生まれたのは630〜640年代前半と思われます。

父は鏡王

額田王は鏡王の娘であるという記述が、日本書紀にあります。しかし鏡王がどんな人物なのかはわかっていません。「王」という称号から、皇族であろうと考えられますが、一説には第28代宣化天皇の孫で、壬申の乱で戦死したと言われています。

額田王を授かった当時、鏡王は近江国鏡神社の神官であったという説のほか、額田部氏という大和の国の豪族が製鉄や鍛冶(鏡の製造にも関わっていたと想像できます)を行っており、その統率する皇族として、鏡王と呼ばれていたとも考えられています。

姉は鏡王女(鏡女王)?

奈良県に残る鏡王女の墓所
出典:Wikipedia

額田王の親族としてよく挙げられるのが鏡王女です。しかしこの人も謎の多い人物です。

本居宣長が唱えた「額田王の姉」という説が一般的ですが、確証はありません。鏡王の妹で額田王の叔母であったという推測もあります。

鏡王女の墓が舒明天皇陵域にあることから、舒明天皇の皇女又は妹とも言われます。この説は、鏡王女が亡くなる直前、天武天皇が見舞いに赴いた記録があることからも裏付けられています。鏡王女が舒明天皇の皇女であれば、天智、天武天皇の異母妹になるからです。

鏡王女は天智天皇の妃でしたが、藤原鎌足に降されて正室になりました。血縁関係はさておき、額田王と鏡王女は、時期は違えども共に天智天皇の寵愛を受けた女性たちでした。
鏡王女も万葉集に優れた作品を残している歌人です。

640〜655年あたり – 10歳代「宮廷に出仕する」

皇極天皇の信任を得る

皇極天皇

額田王は10代で宮仕えをすることになりました。皇極天皇の側で、歌を詠むこともあったようです。万葉集には額田王の一番若い時の歌が収められています。

”秋の野のみ草刈り葺き宿れりし兎道の宮処の仮盧し念ほゆ”

この歌は、皇極天皇が亡き夫舒明天皇との宇治の思い出を回想するというものです。つまり、主体は皇極天皇なのです。額田王は、皇極天皇の思いを受けて、なり代わって歌を詠んだということになります。

このことからも、額田王が皇極天皇からどれだけ信頼されていたか、そして歌の才能に恵まれていたかがわかります。

大海人皇子と出会う

大海人皇子(天武天皇
出典:Wikipedia

皇極天皇には舒明天皇との間に2人の皇子がいました。中大兄皇子と大海人皇子です。

額田王と大海人皇子の出会いの経緯については定かでありませんが、皇極天皇に仕えていた額田王と、皇極天皇の子であった大海人皇子には十分接点があったと思われます。

日本書紀の記述から推測するに、二人は政治的な思惑とは関係なく、お互い想い合い結ばれたようです。実際、この後の額田王の行動からもそれを裏付けることができます。

650〜660年あたり 10歳代「大海人皇子の皇女を出産」

十市皇女の誕生

額田王は大海人皇子にとって初めての子となる十市皇女を出産します。この人も数奇な運命を辿った女性です。

壬申の乱の際大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石
出典:Wikipedia

天智天皇の子である大友皇子に嫁ぎますが、壬申の乱で夫と父が対立。この時十市皇女は夫の側についていると見せかけ、父に情報を流したというのです。真偽のほどはわかりませんが、まるで夫浅井長政の裏切りを兄織田信長に知らせたお市の方のようですね。

壬申の乱後の十市皇女についても、憶測の域を出ません。万葉集に残る高市皇子(天武天皇の皇子)の歌から、高市皇子の妃もしくは恋人同士であったとも言われています。

はっきりしているのは、678年に急死したことです。まだ10代もしくは20代であったと考えられます。自殺とも言われており、大海人皇子は声をあげて嘆き悲しんだと伝わっています。

660年あたり – 20歳代「斉明天皇の側近となる」

皇極天皇が再び即位して斉明天皇となった
出典:歴代天皇

宮廷歌人としての活躍が始まる

額田王は、産後宮廷に復帰しました。歌人として本格的な活躍が始まる時代です。なぜまた天皇の側近として働くようになったのか?その理由はいくつか考えられます。

まずは額田王が出産前に仕えていて、信任も厚かった皇極天皇が重祚して斉明天皇となり、政治に携わっていたことです。斉明天皇が額田王の歌の才を頼みにしていたとも考えられます。

次に額田王自身、宮廷歌人という職に惹かれていた可能性です。大海人皇子の子を産んだ額田王には、大海人皇子の妃になる資格があったはずです。しかしその記録は残っていません。

それは額田王が宮廷歌人としての誇りを大事にしていたからとも考えられるのです。宮廷歌人として活躍したいために、妃になる道を選ばなかったのかもしれません。

万葉集の中で解釈が最も難しいとされる歌

元暦校本万葉集

”三諸の山見つつゆけ我が背子がい立たせりけむ厳橿が本”

斉明天皇が紀温泉行幸の際、額田王が作った歌という解釈が一般的です。斉明天皇にとって甥である有間皇子の謀反が発覚し、処刑されたことも影響していると考えられています。

一方、この歌は斉明天皇崩御や白村江の戦いの敗戦もあり傷心の夫を慰める歌という解釈もあります。「我が背子」とは兄弟や夫、恋人を呼ぶ言葉で、この場合それが大海人皇子なのか中大兄皇子なのか、はっきりしません。

万葉集初期の傑作と呼ばれる歌が誕生

額田王による句

”熟田津に船乗りせむと月待てば潮も適ひぬ今は漕ぎ出でな”

655年、朝鮮半島では高句麗と百済が手を取り合い、新羅に攻め込みました。新羅はに助けを求め、逆に百済を滅ぼします。当時友好関係にあった百済を助けるために、斉明天皇は中大兄皇子とともに、百済復興のための出兵を決意しました。

661年出兵の途中、熟田津(現在の愛媛県松山市近郊)に停泊します。そして出発するという時になって、額田王が斉明天皇の気持ちを代弁する形で詠んだのがこの歌なのです。

全て条件が整った今こそ、最良の船出の時だ、と命令口調ではあるものの、それが逆に皆の心を一つにする役目を果たしています。また、斉明天皇の言葉と考えれば自然でもあります。後年、斎藤茂吉はこの歌について「古今に稀なる秀歌」と表しました。

660〜671年あたり – 20〜40歳代「中大兄皇子を公私ともに支える」

宮廷歌人額田王の全盛期

中大兄皇子(天智天皇)
出典:Wikipedia

斉明天皇は661年に崩御。中大兄皇子がその意志を継いで政務を執ったので、額田王は中大兄皇子に仕える宮廷歌人となります。

この時期が、歌人額田王の一番輝かしい時期と言えるでしょう。万葉集に収められた歌を紹介していきます。

近江遷都を詠んだ歌

”味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに 委曲にも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情無く 雲の 隠さふべしや”

667年、中大兄皇子は近江大津宮に遷都します。

遷都の理由は諸説ありますが、新しい政治体制実現のために、しがらみのある飛鳥から離れるためであるとか、白村江の戦いで大敗し、新羅とからの侵略に備える必要があったため、防衛上都を内陸に移す必要があったからとも言われています。

近江大津宮 内裏正殿跡
出典:Wikipedia

どのような理由であれ、遷都には多くの民衆が反対しました。新たに宮を作るということは造作が増え、民衆に負荷がかかるからです。それでも遷都をしたいという中大兄皇子の強い意志を汲んで、額田王が中大兄皇子の歌として詠んだ歌と言われています。

慣れ親しんだ古都飛鳥を象徴する三輪山への親愛を、反語的な表現で詠むことで、より深い思いとして伝えています。民衆の気持ちに寄り添うことで、皆を落ち着かせ、中大兄皇子の遷都への決意を少しでも理解してもらおうとしたのかもしれません。

額田王の作品の中でも有名な恋の歌

額田王の恋の歌

”茜草指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る”

この歌は、「散策しながら私の気を引こうとしてあなたは袖を振っているけれども、警備の兵士が見ていますよ、いいのですか?」という額田王の大海人皇子との秘めた恋の歌と考えられていました。

万葉集にはこの歌に対する大海人皇子の返歌も載せられています。

”紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも”

「紫草で染めた鮮やかな色のようなあなたのことが本当に憎かったら、人妻であるあなたをこんなに恋い慕うことはないですよ」という訳です。

紫草・染料になるのは根で、花は白い
出典:Wikipedia

表面的には、この歌からは大海人皇子も額田王に未練があるように感じます。この一連の歌の遣り取りから、額田王が中大兄皇子と大海人皇子との三角関係にあったと考えられていたのです。

しかし実際には、額田王と大海人皇子の個人的な歌ではなく、天皇も臨席している宴の席で公に披露した、いわば座興であったというのが定説となっています。

そう考えると、自らの恋愛関係をも酒の肴にしてしまう額田王と大海人皇子からは、大人の余裕を感じさせます。そして、それをおそらく笑って見守っていたであろう天智天皇の器の大きさにも驚きますね。

ちなみに、大海人皇子が詠んだとされる歌の注釈には「皇太子の答へませる御歌」とあります。この皇太子は大海人皇子だと一般的には考えられていますが、当時大海人皇子は「大皇弟」であり、皇太子は天智天皇の皇子である大友皇子だとする説もあります。

春秋争いの歌

春と秋、どちらにも魅力はあるが…

”冬こもり 春去り来れば 喧かざりし 鳥も来鳴きぬ 開かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉つをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾は”

「春は鳥も来て花も咲くので素晴らしい季節ではあるけれど、山には木が繁っていて花は手に取れない。でも秋山は、木の葉を見て色づいているものは手に取れる。青い葉はそのままにして溜め息をつかなければならないところは恨めしいけれど。やはり秋の山がいい、私は。」という意味です。

近江大津宮では、しばしば天智天皇による漢詩の宴が催されていました。この作品は、天智天皇から藤原朝臣(鎌足)に、春山の花の艶と秋山の紅葉の色、どちらが良いか競うよう命じた際、額田王が歌で応じたものです。

額田王は、春が良いか秋が良いかという判定を任されたのですが、歌からは、自分の好みは示しつつも両方の顔を立てるという、座を盛り立てる姿勢が感じられます。これはまさに宮廷歌人としての役割です。

このようなアクロバットを歌で見せてくれる額田王は、天智天皇にとって公私ともに大切なパートナーであったに違いありません。

額田王が近江天皇を偲んで作った歌

男女のいる部屋に御簾がかかっているのがわかる
出典:Wikipedia

”君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く”

「あなたが早くおいでにならないかと恋しく思いながら待っていると、我が家の簾が秋風に吹かれて動きます。あなたが来たのかと思いました。」という訳の歌です。

額田王の、天智天皇に対する恋の歌ということで、これも大海人皇子を含めた複雑な恋愛模様を想像させるものとされてきました。

額田王が天智天皇と親しい間柄であったことは確かなことのようなので、この額田王の天智天皇に対する思いも真実かもしれません。

しかし注目したいのはこの歌につけられた題詞の「近江天皇」です。天智天皇が宮を置いた「近江」という名称は後年つけられたものであり、この歌が詠まれた当時は使われていない呼び名です。そのため、この題詞は万葉集の編者が後付けしたものと考えられるのです。

そう考えると、この歌が額田王のプライベートな思いを詠んだものかどうかははっきりしません。大海人皇子との恋愛の歌同様、宴の席で天智天皇を愛する歌を披露し、宴に華を添えたという解釈もできます。

天智天皇の大殯の時の歌

京都市山科区にある天智天皇陵
出典:Wikipedia

”かからむの懐ひ知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを”

この歌は、「こんなことになると前からわかっていたなら、天皇のお船が泊まっている港に、しめ縄を張り巡らしておきましたものを(そうしたら天皇のお船はあの世へ旅立っていくことはなかったでしょうに)。」という訳です。

671年、天智天皇崩御により大殯という天皇の葬儀が行われました。額田王にとって、天智天皇は恋人という以上に、宮廷歌人として認めてくれる権力者という側面が大きかったと考えられます。

もちろんそれは天智天皇にとっても同様でしょう。額田王は、天智天皇の目指した政治を実現させるために、必要なタイミングで、適切な言葉を駆使して歌として詠み、支えていました。

この歌からは、天智天皇の時代が終わって悲しいというだけではなく、そんなかけがえのないパートナーを失くしてしまった額田王の切なさも感じられます。

672年 – 30〜40歳代「壬申の乱勃発」

天武天皇の敵方になってしまう

壬申の乱が歌人としての地位を退くきっかけに

天智天皇の死後、後継者をめぐって大海人皇子と大友皇子が対立し、壬申の乱が起きました。最終的には大海人皇子が勝利し、大友皇子が自殺することで決着します。

壬申の乱が起きた時点では、まだ天智天皇の御陵は完成していなかったこともあり、額田王は天智天皇の近親者とともに山科の御陵近くにいたと考えられます。そのため、壬申の乱では額田王は天智天皇の息子である大友皇子側の人間として扱われるのです。

もちろん、娘である十市皇女は大友皇子の妃であったため、生母である額田王が大友皇子についた可能性もあります。父である大海人皇子と敵味方に別れてしまったことで苦しむ十市皇女の側に付き添った可能性も否定できません。

事情はどうあれ、額田王は期せずして天武天皇の敵となりました。そして敗者となった額田王には、天武天皇の治める宮廷に、歌人としての地位はなくなってしまったのです。

山科の御陵から去る時に作った歌

別れの悲しみを歌に綴った

”やすみしし 吾ご大王の 恐きや 御陵奉仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ”

「我が大君の御陵に恐れ多くもお仕え申し上げる、山科の鏡山で、夜は夜通し、昼は一日中声をあげて泣き続けています。このままで宮廷に仕える大宮人は別れていくのでしょうか。」という歌の意味です。

天智天皇崩御から約半年は過ぎていますが、山科の御陵での奉仕を大切にしていたことがうかがえます。そんな最中に壬申の乱が起こり、山科にも戦火が及ぶ可能性があるからと、立ち退かなければならなくなりました。

額田王が、仕えていた宮廷人たちの心を慮り、彼らを代表して詠んだ歌のように思われます。天智天皇の宮廷歌人として詠んだ最後の歌と言えるかもしれません。

持統天皇との関係

持統天皇

壬申の乱で大友皇子が世を去ったのち、十市皇女は天武天皇の元に引き取られました。こういった経緯から、額田王も共に赦される可能性はあったはずです。しかし額田王はもう政治の表舞台には姿を現しませんでした。

その理由として考えられるのが、天武天皇の皇后、鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)との関係です。

天武天皇には多くの妃がいました。天武天皇の子を産んだ女性も複数います。しかしその中でも額田王は特別だったと思われます。

鸕野讃良皇女は、天智天皇の皇女でした。額田王は、自分の父と夫両方と関係を持っていた女性ということになります。

そして、歌人としての輝かしい才能を持った女性でした。

「百人一首之内 持統天皇」
出典:Wikipedia

天武天皇は額田王を、男女関係が解消されて以降も歌人として評価していたと考えられます。額田王が天智天皇に寵愛されていた当時、過去の関係を歌にして公に披露できるほど、天武天皇と額田王は成熟した関係だったのです。このような女性は、天武天皇の周りで額田王一人です。

鸕野讃良皇女は、壬申の乱でただ一人、大海人皇子に従って吉野まで付き添うことを許された女性でした。天武天皇の皇后というだけではなく、天武天皇の政治のパートナーとして支え続け、天武天皇の死後は持統天皇として天武天皇の意志を継いでいきます。

天武天皇には鸕野讃良皇女という理解者がいると考えて額田王が身を引いたのか、鸕野讃良皇女が額田王に嫉妬して遠ざけたのか、天武天皇にとって額田王がもう必要のない存在であったのか、理由はわかりません。

ただ、持統天皇の死後、額田王の孫にあたる葛野王が、額田王の墓を天武天皇の陵墓近くに移したという伝説があることを考えると、少なくとも周囲の人々は二人の関係に気を遣っていたのでしょう。

686年 – 40〜50歳代「3人目の夫と結婚」

中臣大嶋の妻になる

中臣(藤原)鎌足
中臣大嶋はその跡を担うほどの人物だった
出典:Wikipedia

686年、天武天皇が崩御されます。額田王はこの頃、中臣大嶋と結婚したと言われています。

しかし、この結婚も定かではありません。もし結婚が本当であったとするなら、額田王がだいぶ歳を重ねている女性であること、この結婚は天武天皇崩御後である可能性を考えると、額田王が人生をリセットしてもう一度生きようとしたようにも思われます。

中臣大嶋は中臣鎌足亡き後、中臣氏の氏の上として天武、持統天皇の元で活躍しました。中臣鎌足といえば、中大兄皇子の片腕として大化改新を支えた人物です。669年鎌足没後、息子である藤原不比等が台頭するまでの間、中臣大嶋が中臣氏を支えたと考えられます。

690年代 – 60歳頃「額田王最後の歌」

弓削皇子と交わした、天武天皇を偲ぶ歌

”古に恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく”

持統天皇が天武天皇にゆかりの深い吉野に行幸した際、天武天皇の皇子である弓削皇子が、額田王に歌を贈りました。額田王を「古(天武天皇の時代)に恋ふる鳥」と例えたのです。額田王の姿を、吉野から大和の方角へ鳴きながら渡っていく鳥に重ねて歌にしました。

これに対して額田王は弓削皇子に次の歌を返しました。

”古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと”

鳴き声が印象的なホトトギス

中国で、ほととぎすは、一度帝位を退いた後、再度復権を望むも叶わなかった蜀の望帝が、死んで化けた鳥と考えられていました。

昼夜問わず鳴き続け、帝であった時代を懐かしんだほととぎすの故事を用い、額田王は弓削皇子に「その鳥は昔を恋い慕う私と同じですから、きっと鳴いたでしょう。あなたの仰る通りですよ」という意味の歌を返したのです。

また万葉集には、弓削皇子が額田王に、吉野のから苔むした松の枝を贈ってくれたことに対する歌も残されています。

”み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく”

弓削皇子は額田王の健康を願い、長寿の木とされた松を、しかも天武天皇ゆかりの吉野から贈ったのです。この歌からは、弓削皇子の気遣いをとても喜ぶ額田王の姿が、透けて見えるようです。

690〜715年頃 – 60〜80歳位「額田王の晩年」

夫の死去

三度目の結婚も終わりを迎えた

中臣大嶋は693年に亡くなったと言われています。晩年、中臣大嶋は草壁皇子を偲んで、粟原寺を建立しようとしていました。額田王はその夫の志を受け継ぎ、22年かけて完成させました。晩年は粟原寺で過ごしたという説もあります。

この説は、現在国宝に指定されている粟原寺三重塔伏鉢という粟原寺の遺物からきています。しかし、寺を完成させたとする「比売朝臣額田」というのが額田王である確証はありません。このように、額田王の晩年は謎に包まれているのです。

額田王の墓

額田王の墓

額田王がいつどこで亡くなったのか、死因もわかっていません。ただ、額田王の墓といわれている場所が、奈良県明日香村野口に残る、野口植山城跡とも呼ばれる植山古墳にあります。

現在はこの場所に、額田王が弓削皇子へ贈った歌が刻まれた石碑があります。石碑の裏に、葛野王が持統天皇の崩御の後、額田王の墓を天武天皇陵に近いこの場所に移したと書かれています。

額田王の孫にあたる葛野王が、額田王に気を利かせて天武天皇陵近くに埋葬し直したのか、額田王自身が天武天皇の近くに眠りたいと遺言していたのか、想像するしかありません。

事情はわかりませんが、地元の人がここを額田王の墓として言い伝えていることに注目したいと思います。これこそ、額田王が歌人として多くの人に愛されていた所以でしょう。だからこのような石碑が立てられ、額田王永眠の地として伝説になっているのです。

額田王の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

額田女王

芥川賞作家の井上靖による歴史小説です。古代史に生きた人々が、まるで近くにいるような気配を感じさせてくれます。のちにドラマ化されたことも、この小説の魅力を物語っていますね。

天の果て地の限り

歴史を意識しないでさらりと読める恋愛マンガです。歴史上の人物というと何となく遠い存在になりがちですが、実際には恋もしたでしょうし悩むこともあったはずです。額田王が身近に感じられる一冊になっています。

齋藤孝のざっくり! 万葉集 歴史から味わい方まで「すごいよ! ポイント」でよくわかる

額田王といえば欠かせない万葉集ですが、色々出版されている中で、万葉集の背景にある歴史もわかる本としておすすめです。歌の裏にある事情がわかると、歌の理解も深くなります。

額田王をよく知れるおすすめ漫画6選【王道から番外編まで】

おすすめ動画

ねこねこ日本史第4期 第107話「万葉集きっての歌姫、額田王!」

ねこねこ日本史は、歴史上の人がねこだったらという設定で描かれているアニメです。10分弱の作品ですが、額田王の略歴のみならず有名な万葉集の歌も詠まれる濃い内容で、侮れません。

おしゃべり人物伝 額田王

1984〜1985年までNHKで放送されていた番組です。昭和の香り漂う映像ではありますが、柄本明や田中健など演技派俳優が当時のモダンな試みに挑戦していて、逆に新鮮さがあります。単なるドラマではなく、額田王の学術的側面を捉えているあたりも面白いです。

日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち

古代の建造物は現存するものも少なく、時代のイメージが捉えづらいのですが、この動画ではCGで当時の色彩豊かな建物を見られるのがとても良いです。額田王が見ていたかもしれない世界を体感できます。

おすすめ映画

花組博多座公演万葉ロマン「あかねさす紫の花」

宝塚の舞台を収めたDVDです。額田王と中大兄皇子、大海人皇子をメインに繰り広げられるこの愛憎劇は、宝塚では1976年の初演以来とても人気がある演目で、繰り返し上演されています。

「あしびきの山の雫に」

「あかねさす紫の花」の姉妹編となる宝塚の舞台です。壬申の乱以降の物語で、額田王も登場します。大地真央や黒木瞳といった、今や大女優となったタカラジェンヌたちが麗しく演じていました。

「ちはやふる 上の句/下の句/結び」

競技かるたに青春をかけた若者たちのドラマです。大会が近江神宮という近江大津宮ゆかりの場所であることから、額田王の「あかねさす〜」の歌も紹介されています。熱い恋の歌は、高校生も大好きです。

おすすめドラマ

ABC創立30周年記念番組 額田女王 前編「くれないの恋」/後編「むらさきの歌」

1980年放送という古いドラマではありますが、額田女王役の岩下志麻をはじめ、近藤正臣、松平健と錚々たる顔ぶれからもわかるように、評判の高いドラマでした。

関連外部リンク

額田王についてのまとめ

額田王と天智、天武天皇に関わる系図を初めて見たときの驚きは、今でも忘れられません。いとこ同士や、娘と叔父との婚姻も普通にありました。

近親相姦は今でこそ禁忌とされていますが、当時は天皇を中心とした集権国家を作ろうとしていた時代です。血を濃く残すことを大事にしたとも考えられます。

こう考えると、兄弟と関係を持った額田王も非難されるような立場ではなかったはずです。むしろ、歴史的にも偉大な業績を成した2人の天皇に寵愛されるほどの才があったことを、評価すべきでしょう。

令和という元号名の由来として、万葉集は注目を集めています。万葉集に収められた歌の中でも、額田王の作品は秀歌と呼ばれるものが多くあります。これをきっかけに、万葉集や額田王に関心を持っていただけると幸いです。

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