八月十八日の政変とは?背景や結果、新選組との関係について簡単に解説

「八月十八日の政変ってなに?」
「名前は聞いたことがあるけどそれが何なのかわからない」
「禁門の変とはどう違うの?」

このように思っている方もいるのではないでしょうか?八月十八日の政変とは、当時朝廷内で勢力を伸ばしつつあった攘夷急進派に対して公武合体派がクーデターを起こし、攘夷急進派を京都から追放したという事件です。

八月十八日の政変で封鎖された門の一つ、堺町御門
出典:Wikipedia

攘夷急進派と公武合体派の対立を理解しないと事件の内容がわからないので、とっつきにくい面があるのは確かです。また実際に戦闘が行われたわけでもないので派手な事件ではありません。

しかしこの政変が原因となって、有名な池田屋事件や禁門の変が起こっています。また新選組が公式デビューしたのもこの八月十八日の政変です。

このように八月十八日の政変を理解すると、幕末の歴史がより楽しくなります。この記事では一見地味でとっつきにくい八月十八日の政変についてわかりやすく解説していきます。

八月十八日の政変とは

七卿が落ち延びる際に立ち寄った御手洗七卿落遺跡
出典:Wikipedia

年月日1863年(文久3年)8月18日
場所京都(京都御所)
当事者公武合体派
(孝明天皇・中川宮・
会津藩・薩摩藩など)
vs
攘夷急進派
(三条実美、長州藩など)
原因攘夷急進派が天皇による
攘夷親政を企てたため
内容公武合体派による攘夷急進派を
京都から追放するための
クーデター
結果長州藩の追放
三条実美ら七卿落ち

八月十八日の政変とは、1863年(文久3年)8月18日、当時朝廷内で勢力を伸ばしつつあった攘夷急進派に対して公武合体派がクーデターを起こし、攘夷急進派を京都から追放したという事件です。

この事件で長州藩が京都から追放され、追放した薩摩藩や会津藩が力を持つようになります。一方で長州藩も逆襲を計画するのですが池田屋事件、禁門の変とさらに痛い目に遭うことになりました。

政変が起きた原因

攘夷急進派による外国人襲撃事件の一つ、東禅寺事件の様子
出典:Wikipedia

直接的な原因は攘夷急進派が孝明天皇を担ぎあげ、天皇が自ら政治を行う天皇親政による攘夷を行おうとしたのですが、天皇がそれを嫌ったことです。

攘夷急進派とは今すぐ外国人を日本から追い出すべきだとする考え方です。この考えの人たちは外国人を殺傷したり焼き討ちをしたりするなど過激な行動が目立ちました。

一方で公武合体派は朝廷の権威と幕府や諸藩の武力を結びつけて体制を強化しようとしていました。彼らは攘夷急進派よりも現実的で、武力で直ちに外国を追い出すことが不可能であることも悟っていました。そのせいもあって攘夷急進派と激しく対立することになるのです。

孝明天皇は攘夷論者ではありましたが、あくまで徳川幕府に政治を委任するというのが前提で、自らが軍を率いてまで攘夷を行おうとは思っていませんでした。つまり公武合体派の考えに近く、急進派の行動を嫌っていました。このことから八月十八日の政変が起きたのです。

禁門の変との関係

禁門の変
出典:Wikipedia

八月十八日の政変と混乱してしまいがちな出来事として、禁門の変があります。禁門の変は八月十八日の政変の1年後、1864年(元治元年)8月20日に京都で起きた武力衝突です。

禁門の変は、八月十八日の政変で京都を追放された長州藩が京都での主導権を取り戻そうと京都で挙兵したもので、このときも長州は敗北してしまいました。

新選組との関係

新選組の旗
出典:Wikipedia

八月十八日の政変での御所の警備には新選組も任務についています。もっともこのとき新選組はまだ「壬生浪士組」という名称でした。

八月十八日の政変は新選組にとって初めての大役でしたが無事に任務を終了し、このときから「新選組」という新しい隊名をもらいました。そしてこれ以降、池田屋事件、禁門の変といった大きな事件に参加し、世に名を轟かせることになります。

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八月十八日の政変に関わった主要人物

孝明天皇

孝明天皇
出典:Wikipedia

孝明天皇は1846年(弘化3年)3月から1867年(慶応2年)1月まで在位した第121代天皇です。

孝明天皇は攘夷論者で幕府に攘夷を求めていました。一方で公武合体派に考えが近く、自らが武力を用いて攘夷を行おうとまでは考えていませんでした。そのため攘夷急進派を嫌っており、中でも長州藩に対する嫌悪はかなり露骨だったようです。

つまり考え方は公武合体派に近いため、同派の中川宮などに対して攘夷急進派の追放を命じることになりました。

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久邇宮朝彦親王(中川宮)

久邇宮朝彦親王
出典:Wikipedia

久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)はたびたび名前が変わっており、中川宮という名前の方で知られている皇族です。

中川宮は朝廷内で公武合体派のリーダー的存在でした。しかし八月十八日の政変が起きる前は、三条実美ら攘夷急進派が幅を利かせていました。

中川宮は形勢逆転をねらって京都の警護をになっていた会津藩や薩摩藩と手を結びます。そして急進派を嫌っていた孝明天皇を説得して八月十八日の政変を行いました。

三条実美(さんじょうさねとみ)

三条実美
出典:Wikipedia

公卿です。実美は攘夷急進派の急先鋒で、その激しい言説は一橋慶喜から攘夷期限の言質を取ったり、関白を言い負かしたりするほどでした。

また孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸した際、乗り気でない天皇は仮病でごまかそうとしましたが、実美は面会を迫って仮病かどうかを問いただしています。このような激しい姿勢に孝明天皇は嫌悪感を抱いていました。

八月十八日の政変で実美ら7人の公卿は参内を禁止され長州へ落ち延びることになりました。これが七卿落ちで、実美は明治維新まで長州や太宰府で過ごすことになります。

松平容保(まつだいらかたもり)

松平容保
出典:Wikipedia

会津藩主です。当時誰もが貧乏くじとして嫌がっていた京都守護職を引き受け、過激派で治安が悪くなっていた京都の治安維持に奮闘しました。

孝明天皇を非常に敬愛しており天皇からも信頼され、御宸翰(天皇直筆の手紙)をもらうなどその信頼関係の厚さがうかがわれます。八月十八日の政変では御所警備の主力となって政変の成功に一役買いました。

真木和泉

真木和泉
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元々久留米藩士で尊皇攘夷の活動家です。過激な言動で久留米藩主から謹慎を命じられるなどしていましたがその後長州藩に接近、「天皇が攘夷親政を進めるほかに道はない」という意見をして採用されます。長州藩はこの考えに基づき京都で急進派の公家たちと活動、偽勅を乱発して孝明天皇から不興を買います。

つまり真木和泉は八月十八日の政変の思想的な原因を作ったと言えます。八月十八日の政変後は七卿とともに長州へ逃れます。そして翌年の禁門の変で敗走後自害しました。

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