八月十八日の政変が起きた経過・詳細
政変が起きた背景
幕府と朝廷の対立
1858年(安政5年)日米修好通商条約に朝廷の勅許なく調印したことで、朝廷をはじめ尊王攘夷派は幕府に対して怒りの声を上げていました。幕府は安政の大獄でその声を抑え込みますが、大獄を指揮していた井伊直弼は1860年に桜田門外の変で暗殺されてしまいました。
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井伊直弼が暗殺されたことで幕府の強権派が衰退、朝廷と公武合体するべきという声が高まります。これにより孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻が結ばれ、朝廷と幕府の関係が縮まりました。
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その代わりに幕府は10年以内に攘夷を実行することを約束します。しかし幕府は今さら攘夷が実行できるとは思っていませんでした。時間を稼ぐことで孝明天皇をはじめとする朝廷の人々が現実に気づいて攘夷を取り下げるだろうという目論見があったのです。
薩長の主導権争い
このころ京都の政治主導権は公武合体派の薩摩藩が握っていました。しかし長州藩は思想を過激化させ薩摩藩から主導権を奪い返します。公家たちも薩摩派から長州派の声が大きくなり、朝廷は過激化していきます。
朝廷は将軍の上洛を求め、14代将軍徳川家茂は3代将軍家光以来約230年ぶりに上洛することになりました。上洛した家茂に朝廷側は攘夷を迫ります。そしてとうとう家茂は1864年5月10日をもって攘夷を決行するという約束をしてしまいました。
下関戦争
1863年5月10日の攘夷実行を真に受けた長州藩は馬関海峡(下関海峡)を封鎖してアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無警告で砲撃しました。もちろん幕府はこちらから勝手に攻撃してはいけないという指示はしています。長州藩としては自分たちの後に続く藩がいるはず…と思っていたようですが他の藩は沈黙を保ち動きませんでした。
半月後にアメリカ・フランス艦隊が長州の軍艦を攻撃し壊滅的な打撃を与えますがこのときも他の藩から援護はありませんでした。このことから長州は幕府や他の藩を見限り、天皇親政を目指すようになります。
政変の経過
大和行幸の計画
そんな中の8月13日、孝明天皇が大和の神武天皇陵・春日大社に行幸して軍議をするという大和行幸の詔が出されました。もとよりこれは孝明天皇の意思ではなく急進派の公家などが計画したものです。自分の意志に反してますます過激化する周囲の行動に孝明天皇は疲れ切っていました。
公武合体派の薩摩藩は会津藩と手を結び、そんな急進派を追い落とす計画を立てました。これが八月十八日の政変です。中川宮に協力を求め孝明天皇に計画を伝えたところ、孝明天皇もついに「兵力を持って国の災いを取り除くべし」と政変を許可しました。
政変決行
8月18日午前4時、会津兵、薩摩藩などが御所の門を封鎖しました。勢力は会津がもっとも多く1800人、薩摩150人などで、合計27藩の兵が警備に当たりました。新選組もこのとき警備に当たっています。
政変を知った攘夷急進派の公家や長州藩兵も御所に集まってきますが、すでに会津藩兵たちが陣取っているため入れません。その間に御所の中では急進派の公家を謹慎させることや長州藩の警備解任などが決定されました。
七卿落ち
夕方まで両軍勢のにらみあいは続きますが武力衝突には至りませんでした。負けを悟った長州藩と三条実美らは7人の公家は長州へ落ち延びていきます。このことを七卿落ちといいます。
追放されたのは三条実美、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、四条隆謌(しじょうたかうた)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)、澤宣嘉(さわのぶよし)の7人です。
彼らは長州へ落ち延びた後、明治維新までは大宰府などで過ごします。錦小路頼徳は1864年に病没しますが、残る6人は明治維新の後にそれぞれ要職に就きました。
政変の結果と影響
関連事件
八月十八日の政変前後に大和国(奈良県)で天誅組の変、但馬国(兵庫県)で生野の変、京都でも本圀寺事件が起きていますが、八月十八日の政変が起きて急進派がいなくなったため、いずれもすぐに鎮圧されています。しかし幕府の番所や城などに公然と攻撃をしかけてきたことは、幕府側にとってかなりの衝撃だったようです。
新選組と池田屋事件
政変が行われた際、新選組(このときはまだ壬生浪士組)も御所の警備に当たりました。新選組が大きな任務についたのはこれが初めてでした。無事役目を務めたことから「新選組」の名前をもらい、市中警備の任務へつくことになりました。
政変で政治の主導権は公武合体派のものとなりましたが、京都市中は依然として長州藩士を始めとする攘夷急進派の浪士たちが潜伏しており、新たなクーデターやテロ活動を計画していました。彼らを京都から一掃するのが新選組の役目だったのです。
有名な池田屋事件はそういった過激な浪士たちが池田屋という旅籠で会合を開くということを突き止め、新選組が襲撃したものです。この事件で新選組はさらに名前を挙げることになりました。
禁門の変
京都を追われた長州藩は藩主毛利敬親が謹慎になるなどの処分を受けました。一方で京都には藩士が潜伏して次の機会をうかがっていたところ、池田屋事件で藩士が殺害されてしまったのです。このことが禁門の変の挙兵へとつながっていきました。
八月十八日の政変がよくわかる書籍
早わかり幕末維新 ビジュアル図解でわかる時代の流れ!
幕末の歴史は、さまざまな勢力のせめぎあいがあるためわかりにくいのが難点です。この本はそんな幕末の歴史について図解を用いてわかりやすく説明してくれるためおすすめです。
幕末入門
幕末のややこしい人間関係や藩の関係などがわかりやすく書かれています。市民大学講座を本にまとめたものなので読みやすいです。図解を読まれてさらに興味を持たれた方におすすめです。
幕末の天皇
八月十八日の政変のキーパーソンともいえる孝明天皇とその父光格天皇について書かれた本です。それまで顧みられることのなかった朝廷が急に脚光を浴びるようになったその舞台裏が描かれており興味深いです。
八月十八日の政変についてのまとめ
八月十八日の政変についてまとめてみました。やはり地味ですが幕末史上で有名な池田屋事件や禁門の変の布石になっているので、八月十八日の政変を知っておくと、それらの事件もより深いところまで知ることができて面白いのではないでしょうか。
新選組もこの事件をきっかけにして「新選組」という名前をもらい、この後は一気に活躍の場を広げていっています。このように地味そうな事件も調べてみると案外面白いです。
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