「和宮ってどんな人?」
「篤姫とはどんな関係だったの?」
和宮親子(かずのみやちかこ)内親王は、江戸時代の皇女で14代将軍徳川家茂の正妻です。仁孝天皇の第8皇女である彼女は他の時代なら京で静かに暮らしたのでしょうが、時は幕末、動乱の時期の皇女であったために幕府と朝廷の「公武合体」の犠牲となり、江戸に下った数奇な運命の女性でした。
しかし嫁いでからは「徳川の人間」として、最後まで徳川家存続の為に動いた女性でもありました。幕末の陰の立役者であった「和宮」という女性。彼女を辿ることで、違った視点から幕末を見ることができます。
この記事では、和宮という女性に興味を持ち長年研究していた筆者が、彼女の生涯をご紹介します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
和宮とはどんな人物か
名前 | 和宮親子(ちかこ)内親王 |
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称号 | 和宮、静寛院、静寛院宮 |
誕生日 | 1846年7月3日 |
没日 | 1877年9月2日 |
生地 | 山城国 |
没地 | 神奈川県箱根 |
配偶者 | 徳川家茂 |
埋葬場所 | 東京都港区、増上寺 |
和宮の生涯をハイライト
和宮の生涯を簡単にダイジェストします。
- 1846年:仁孝天皇の第八皇女として誕生、和宮の称号を賜る
- 1851年:有栖川宮熾仁親王との婚約が内定する
- 1861年:内親王宣下を受け「親子」の名を賜る
- 同年:降嫁に伴い3品に叙され、京を出発する
- 1862年:江戸に到着し、徳川家茂と婚儀を行う
- 1866年:夫の徳川家茂死去。それに伴い落飾する
- 1868年:徳川慶喜と対面、江戸に嘆願書を送る
- 同年:再度2度にわたり官軍の攻撃猶予の嘆願書を提出
- 1869年:天璋院に暇乞いをし、京に戻る
- 1874年:東京麻布に居を構える
- 1877年:療養地の箱根で死去、享年32歳
将軍徳川家茂に嫁いだ和宮
和宮は当初有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、幕府と朝廷の事情により婚約を取り消し、14代将軍徳川家茂に嫁ぎました。嫁ぐまでにはかなり揉めましたが、結果的に朝廷側が譲歩する形で実現しています。
婚姻の経緯は、幕府側が朝廷側に和宮が嫁げば、公武一和に役立つという提案から始まりました。当初孝明天皇は、「和宮はすでに婚約しているから」という理由で断っています。しかし1860年に、幕府はまず和宮の叔父・橋本実麗に打診、その後正式に朝廷へ家茂との婚姻を打診しています。
何度かそのようなやり取りが続き、ついに孝明天皇も「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の婚姻を認める」という条件で了承しています。幕府側も「10か年以内の鎖国体制の復帰」と約束し、天皇は和宮の婚姻を決めました。結婚にあたって和宮は条件として「御所風の流儀を守ること」などを提示しています。
早期に婚姻を望む幕府の意向に従い、2か月後には総勢3万人、行列は50㎞、神輿の警護に12藩、沿道の警護には29藩が動員される花嫁行列となりました。
和宮が通る沿道では外出・商売は禁止され、行列を高みから見物することも、寺の鐘を鳴らすことも禁止されました。犬猫も鳴き声が聞こえない程遠くに繋がれたといい、これまでの皇族の婚姻の中でも特に盛大な花嫁行列となったのです。