大谷吉継の年表を具体的にまとめると?
1559or1565年 -「大谷吉継、誕生」
後の義将、大谷吉継の誕生
1559年、もしくは1565年に、大谷吉継は誕生したとされています。現在は1565年生まれという説が有力となっていますが、確定的な証拠は見つかっていません。
彼の前半生はほとんど記録に残っておらず、母が高台院(秀吉の正室・ねね)の取次役である、東殿と言う女性であるということ以外は、ほとんど何も情報がないのが現状です。
父親については、近江国の六角氏の旧臣である大谷義房であるという説が現在の通説となっていますが、豊後の国の大友氏の家臣である大谷盛治であるという説や、青蓮院門跡坊官である大谷泰珍であるという説も根強く残っているため、現在でも確定的なことはわかっていない状態となっています。そのため、吉継の生地についても、近江説と豊後説が混在しており、現在でも議論の対象となっています。
幼名に関しては「紀之介」とする説が多いですが、記録そのものに幼名は残っておらず、「大谷紀之介」の名義は吉継が後に公的な文書で使用した名前でもあるため、幼名と考えるには不自然さも残っています。
ともかく、吉継の前半生についての記録は全くと言っていい程残っておらず、彼の幼年期が謎に包まれていることは確かです。吉継の名が広く知られるきっかけとなるのは、織田家の出世頭である、羽柴秀吉に仕官した後の事。それにはまだ、長い時間が必要でした。
1573年頃 -「織田家に仕官。羽柴秀吉の小姓として使える」
織田家に仕官。羽柴秀吉の小姓に
1573年(天正元年)頃に、吉継は秀吉の小姓として取り立てられたと言われています。明確な年に関しては分かっていませんが、歴史書に「秀吉公が長浜城に在城されている頃に見出された」と記載されているため、1573年~1575年ごろに仕官したとする説が有力です。
吉継の仕官については、同郷の近江出身であり、一足早く秀吉に仕えていた石田三成からの推薦があったとも言われていますが、真相は定かではありません。三成が秀吉に仕え始めた正確な年もわかっていないため、吉継と三成の友情エピソードから生じた、作り話の可能性が高いでしょう。
この時期の秀吉の下には、前述の石田三成を筆頭に、数多の武勲で名を残す福島正則、加藤清正と言った優秀な若武者たちが揃っていました。彼らは皆、秀吉肝いりの家臣たちとして、後の豊臣政権を支えるオールスターとなっていくのです。
1577年 -「秀吉の中国攻めに従軍」
中国攻めに馬廻り衆として従軍
この年、秀吉は中国攻めの総指揮官に任ぜられ、姫路城を拠点に中国制圧に乗り出しました。
吉継はこの時、秀吉の近くに控え、伝令や事務的な業務、決戦時の兵力を担当する馬廻り衆の一人として参戦。「大谷平馬」の名前で、歴史書に記載が残っています。これによって初めて、吉継は歴史上に名を表しました。
吉継以外の馬廻り衆は、先述の福島正則と加藤清正や、その二人同様、後に「賤ケ岳の七本槍」と称される脇坂安治(わきざかやすはる)などが名を連ねており、秀吉旗下の武将たちにとって、この頃の馬廻り衆が、いわば登竜門であったことがわかります。
そもそも馬廻り衆という役職自体が、文武に優れたものでなければ務まらない役職であったこともあり、秀吉が馬廻り衆の若手たち、ひいては吉継にも、大きく期待をかけていたことが伝わります。
1582年 -「備中高松城攻めと、本能寺の変」
備中高松城攻め
この年には中国攻めが佳境に入り、大一番である備中高松城攻めが勃発。吉継はこの時も、秀吉の馬廻り衆として参戦していました。
この頃の吉継に与えられた禄については諸説がありますが、150石か250石という説が有力です。しかし、明確に石高が記載された資料は存在しておらず、吉継がどの程度の石高を得ていたのかについては、詳しくは分かっていません。
本能寺の変が勃発
中国攻めが佳境に入る中、京都・本能寺にて突如として明智光秀が謀反。吉継にとっては主君よりも上の人物でもある、天下取りの第一勢力だった織田信長が討ち取られてしまいます。
これによって宙に浮いた信長の後継者の座を、秀吉は光秀を討った功績や、清須会議の結果によって得ることに。これにより秀吉は、名実ともに織田の後継者として台頭し始めます。
本能寺の変に際しての吉継の様子は資料には残っていませんが、吉継はこれ以降も秀吉に仕え続けています。
1583年 -「賤ケ岳の戦い」
羽柴秀吉VS柴田勝家、勃発
織田家の主導権を秀吉が握ることを快く思わない、信長の重臣だった猛将・柴田勝家は、この頃になると秀吉との対立を決定的なものに。
秀吉と勝家の対立は、ついに賤ケ岳の戦いへと発展してしまいます。
賤ケ岳の戦いの際の吉継は、主に調略の方面で活躍。長浜城を治める柴田勝豊を調略し、秀吉の勢力に引き入れるという戦果を挙げています。
「賤ケ岳の三振りの太刀」
吉継は賤ケ岳の戦いの際、槍働きでも多くの功績をあげ、石田三成と共に、「賤ケ岳の七本槍」と並び称される「賤ケ岳の三振りの太刀」と讃えられたとも言われています。しかし現在では、その信ぴょう性は疑問視されています。
歴史書に残る「賤ケ岳の三振りの太刀」は、石河兵助、伊木半七、桜井佐吉の3名。このうちの桜井佐吉の“佐吉”と言う名前が、石田三成の幼名と一致していたことから、三成が「三振りの太刀」であると歴史研究家たちが誤認。そこから、三成と仲の良かった吉継も合わせて、勘違いとして「三成と吉継が三振りの太刀に数えられた」という誤解が広まっていったようです。
とは言え、この2年後には「七本槍」の面々と並んで、従五位下刑部少輔に任命されていることから、吉継がこの数年の間に大きな功績をあげ、秀吉から高い評価を受けていたことは確かです。
1585年 -「紀州征伐と改宗。そして刑部少輔に」
紀州征伐
この年の吉継は、まずは秀吉の紀州征伐に従軍。同僚である増田長盛と共に2000人の兵を率いて参戦し、最後まで抵抗を続けた紀州の勢力の一人、杉本荒法師を槍で討ち取るという手柄を上げています。
また、この頃になると吉継は、秀吉配下の武将の中でもそれなりの地位を持つようになってきたらしく、「大谷紀之介」という名義での文書の発給が、度々みられるようになります。
他にも、秀吉が伊勢長嶋への転居祝いのために、織田信雄(おだのぶかつ)のもとを訪れた際にも同行していたことが記録され、秀吉から信頼されていたことが伺えます。
キリスト教への改宗
吉継ファンにもあまり知られてはいませんが、この時期に吉継は一度、キリスト教に改宗しています。
後のバテレン追放令の際に咎められた旨の記録が無い事から、あくまで一時的な信仰であったようですが、少なくともこの時期に、キリスト教の宣教師と懇意にしていたことは確かなようです。
そのためか、宣教師のガスパール・コエリョが秀吉を訪問した際には、同じくキリシタンであり、宣教師の接待役を務めた安威了佐(あいりょうさ)と共に、ガスパールに対して果物と干し柿を贈っていたとの記録が残っています。
従五位下刑部少輔への叙任
7月には、秀吉が歴史上初めての武家関白に就任。
就任と同時に秀吉は諸大夫12人を置き、吉継はその中の従五位下刑部少輔に任じられることになりました。刑部少輔は、現在で言う法務大臣のような職掌であり、これによって吉継の通称「大谷刑部」が生まれることになります。
また、刑部少輔に任じられたのと時を同じくして、吉継は家紋を「違い鷹の羽」の家紋から「対い蝶」の家紋に変更しています。変更の理由については記録に残っていませんが、武家的で力強い「鷹の羽家紋」よりも、優雅で貴族的な「対い蝶家紋」の方が、自身の職性に合っていると判断したのかもしれません。
また、刑部少輔に任じられた2か月後の9月には、秀吉の有馬温泉湯治にも同行。吉継の秀吉の側近としての地位は、このあたりで固まってきたと言えそうです。
1586年 -「九州征伐に従軍し、文官として活躍」
九州征伐
この年に起こった島津氏と秀吉の戦、九州征伐において、吉継は兵站奉行に任じられた三成の下について活躍しました。
また、この年に三成が堺奉行に任じられた際も、吉継は三成の下で実務を担当。有能な文官として、三成を大いに助けたことが伝わっています。
大阪城下辻斬り事件
この年になると、大阪城下では辻斬りが頻発。「百人斬り」とすら恐れられたその辻斬りに関して、“ある噂”が流されたことで、吉継はたいそう悩まされることとなります。
その噂と言うのは、「大谷が自身の治療のために、辻斬りを起こしている」というもの。当時の価値観において、吉継が患っていたとされる業病(ハンセン病の事)は、「自身の患部と同じ部位を食べることで治療できる」と信じられていたために、このような噂が流されたのでしょう。もしかすると、病身でありながら秀吉から目を掛けられ、強い信頼を受ける吉継に対する嫉妬もあったのかもしれません。
吉継が病を患ったのが明確にいつなのかは記録に残っていませんが、この事件があったことを考えると、少なくとも1586年よりも前の段階で、吉継が病を患っていたことが分かります。
1587年 -「大阪城の茶会にて、石田三成と友情を結ぶ」
大阪城の茶会
この年に秀吉が主催した、大阪城での茶会は、吉継の運命に対する重要な転機となりました。このエピソードが無ければ、吉継の運命は180度変わっていたかもしれません。
当時の茶会では、一つの湯呑に一杯の茶を淹れ、それを参加者全員で回し呑むスタイルが一般的でした。この時の茶会でも、このスタイルが取られたのですが、吉継が茶を飲む番になって、ある事件が起こってしまいます。
病身の吉継がお茶を飲もうとした際に、彼の鼻から膿が一滴、お茶の中に落ちてしまったのです。現在は感染性が無いと結論付けられているハンセン病ですが、当時は感染性のある病だと信じられていたために、場は一瞬で凍り付いてしまいます。
吉継自身もどうしていいか分からず、次の列席者に湯呑を回すこともできないまま固まっていると、ある一人の人物がおもむろに立ち上がり、吉継から湯呑を奪い取って一息に飲み干してしまったのです。
誰もが唖然とする中、石田三成は、何事もなかったようにこう言ってのけました。
「余りに喉が渇いていたので、一口だけのつもりが全て飲み干してしまった。すまないが、代わりの茶をもう一杯お願いしたい」
そう言ってのけ、恩に着せる様子もなく話しかけてくる三成に、吉継はいたく感激し、彼に対する強い友情を感じたと伝えられています。
この時の三成との友情こそが、コアなファンを持つ吉継の人気の秘訣、そして吉継と三成の関ケ原の逸話へと繋がっていくのです。