小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

大谷吉継とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や死因、逸話も紹介】

大谷吉継の年表を具体的にまとめると?

1559or1565年 -「大谷吉継、誕生」

後の義将、大谷吉継の誕生

大谷吉継の出生については謎が多い

1559年、もしくは1565年に、大谷吉継は誕生したとされています。現在は1565年生まれという説が有力となっていますが、確定的な証拠は見つかっていません。

彼の前半生はほとんど記録に残っておらず、母が高台院(秀吉の正室・ねね)の取次役である、東殿と言う女性であるということ以外は、ほとんど何も情報がないのが現状です。

父親については、近江国の六角氏の旧臣である大谷義房であるという説が現在の通説となっていますが、豊後の国の大友氏の家臣である大谷盛治であるという説や、青蓮院門跡坊官である大谷泰珍であるという説も根強く残っているため、現在でも確定的なことはわかっていない状態となっています。そのため、吉継の生地についても、近江説と豊後説が混在しており、現在でも議論の対象となっています。

幼名に関しては「紀之介」とする説が多いですが、記録そのものに幼名は残っておらず、「大谷紀之介」の名義は吉継が後に公的な文書で使用した名前でもあるため、幼名と考えるには不自然さも残っています。

ともかく、吉継の前半生についての記録は全くと言っていい程残っておらず、彼の幼年期が謎に包まれていることは確かです。吉継の名が広く知られるきっかけとなるのは、織田家の出世頭である、羽柴秀吉に仕官した後の事。それにはまだ、長い時間が必要でした。

1573年頃 -「織田家に仕官。羽柴秀吉の小姓として使える」

織田家に仕官。羽柴秀吉の小姓に

長浜城
秀吉がこの城にいる頃に大谷吉継は家臣となった

1573年(天正元年)頃に、吉継は秀吉の小姓として取り立てられたと言われています。明確な年に関しては分かっていませんが、歴史書に「秀吉公が長浜城に在城されている頃に見出された」と記載されているため、1573年~1575年ごろに仕官したとする説が有力です。

吉継の仕官については、同郷の近江出身であり、一足早く秀吉に仕えていた石田三成からの推薦があったとも言われていますが、真相は定かではありません。三成が秀吉に仕え始めた正確な年もわかっていないため、吉継と三成の友情エピソードから生じた、作り話の可能性が高いでしょう。

この時期の秀吉の下には、前述の石田三成を筆頭に、数多の武勲で名を残す福島正則、加藤清正と言った優秀な若武者たちが揃っていました。彼らは皆、秀吉肝いりの家臣たちとして、後の豊臣政権を支えるオールスターとなっていくのです。

1577年 -「秀吉の中国攻めに従軍」

中国攻めに馬廻り衆として従軍

この年、秀吉は中国攻めの総指揮官に任ぜられ、姫路城を拠点に中国制圧に乗り出しました。

吉継はこの時、秀吉の近くに控え、伝令や事務的な業務、決戦時の兵力を担当する馬廻り衆の一人として参戦。「大谷平馬」の名前で、歴史書に記載が残っています。これによって初めて、吉継は歴史上に名を表しました。

吉継以外の馬廻り衆は、先述の福島正則と加藤清正や、その二人同様、後に「賤ケ岳の七本槍」と称される脇坂安治(わきざかやすはる)などが名を連ねており、秀吉旗下の武将たちにとって、この頃の馬廻り衆が、いわば登竜門であったことがわかります。

馬廻り衆の一人・脇坂安治

そもそも馬廻り衆という役職自体が、文武に優れたものでなければ務まらない役職であったこともあり、秀吉が馬廻り衆の若手たち、ひいては吉継にも、大きく期待をかけていたことが伝わります。

1582年 -「備中高松城攻めと、本能寺の変」

備中高松城攻め

備中高松城

この年には中国攻めが佳境に入り、大一番である備中高松城攻めが勃発。吉継はこの時も、秀吉の馬廻り衆として参戦していました。

この頃の吉継に与えられた禄については諸説がありますが、150石か250石という説が有力です。しかし、明確に石高が記載された資料は存在しておらず、吉継がどの程度の石高を得ていたのかについては、詳しくは分かっていません。

本能寺の変が勃発

本能寺の変

中国攻めが佳境に入る中、京都・本能寺にて突如として明智光秀が謀反。吉継にとっては主君よりも上の人物でもある、天下取りの第一勢力だった織田信長が討ち取られてしまいます。

これによって宙に浮いた信長の後継者の座を、秀吉は光秀を討った功績や、清須会議の結果によって得ることに。これにより秀吉は、名実ともに織田の後継者として台頭し始めます。

本能寺の変に際しての吉継の様子は資料には残っていませんが、吉継はこれ以降も秀吉に仕え続けています。

1583年 -「賤ケ岳の戦い」

羽柴秀吉VS柴田勝家、勃発

柴田勝家

織田家の主導権を秀吉が握ることを快く思わない、信長の重臣だった猛将・柴田勝家は、この頃になると秀吉との対立を決定的なものに。

秀吉と勝家の対立は、ついに賤ケ岳の戦いへと発展してしまいます。

賤ケ岳の戦いの際の吉継は、主に調略の方面で活躍。長浜城を治める柴田勝豊を調略し、秀吉の勢力に引き入れるという戦果を挙げています。

「賤ケ岳の三振りの太刀」

賤ケ岳の戦い

吉継は賤ケ岳の戦いの際、槍働きでも多くの功績をあげ、石田三成と共に、「賤ケ岳の七本槍」と並び称される「賤ケ岳の三振りの太刀」と讃えられたとも言われています。しかし現在では、その信ぴょう性は疑問視されています。

歴史書に残る「賤ケ岳の三振りの太刀」は、石河兵助、伊木半七、桜井佐吉の3名。このうちの桜井佐吉の“佐吉”と言う名前が、石田三成の幼名と一致していたことから、三成が「三振りの太刀」であると歴史研究家たちが誤認。そこから、三成と仲の良かった吉継も合わせて、勘違いとして「三成と吉継が三振りの太刀に数えられた」という誤解が広まっていったようです。

とは言え、この2年後には「七本槍」の面々と並んで、従五位下刑部少輔に任命されていることから、吉継がこの数年の間に大きな功績をあげ、秀吉から高い評価を受けていたことは確かです。

1585年 -「紀州征伐と改宗。そして刑部少輔に」

紀州征伐

紀州征伐

この年の吉継は、まずは秀吉の紀州征伐に従軍。同僚である増田長盛と共に2000人の兵を率いて参戦し、最後まで抵抗を続けた紀州の勢力の一人、杉本荒法師を槍で討ち取るという手柄を上げています。

また、この頃になると吉継は、秀吉配下の武将の中でもそれなりの地位を持つようになってきたらしく、「大谷紀之介」という名義での文書の発給が、度々みられるようになります。

他にも、秀吉が伊勢長嶋への転居祝いのために、織田信雄(おだのぶかつ)のもとを訪れた際にも同行していたことが記録され、秀吉から信頼されていたことが伺えます。

キリスト教への改宗

大谷吉継はキリスト教に改宗していた

吉継ファンにもあまり知られてはいませんが、この時期に吉継は一度、キリスト教に改宗しています。

後のバテレン追放令の際に咎められた旨の記録が無い事から、あくまで一時的な信仰であったようですが、少なくともこの時期に、キリスト教の宣教師と懇意にしていたことは確かなようです。

そのためか、宣教師のガスパール・コエリョが秀吉を訪問した際には、同じくキリシタンであり、宣教師の接待役を務めた安威了佐(あいりょうさ)と共に、ガスパールに対して果物と干し柿を贈っていたとの記録が残っています。

従五位下刑部少輔への叙任

7月には、秀吉が歴史上初めての武家関白に就任。

就任と同時に秀吉は諸大夫12人を置き、吉継はその中の従五位下刑部少輔に任じられることになりました。刑部少輔は、現在で言う法務大臣のような職掌であり、これによって吉継の通称「大谷刑部」が生まれることになります。

大谷吉継は「鷹の羽家紋」から「対い蝶家紋」に変更した

また、刑部少輔に任じられたのと時を同じくして、吉継は家紋を「違い鷹の羽」の家紋から「対い蝶」の家紋に変更しています。変更の理由については記録に残っていませんが、武家的で力強い「鷹の羽家紋」よりも、優雅で貴族的な「対い蝶家紋」の方が、自身の職性に合っていると判断したのかもしれません。

また、刑部少輔に任じられた2か月後の9月には、秀吉の有馬温泉湯治にも同行。吉継の秀吉の側近としての地位は、このあたりで固まってきたと言えそうです。

1586年 -「九州征伐に従軍し、文官として活躍」

九州征伐

この年に起こった島津氏と秀吉の戦、九州征伐において、吉継は兵站奉行に任じられた三成の下について活躍しました。

また、この年に三成が堺奉行に任じられた際も、吉継は三成の下で実務を担当。有能な文官として、三成を大いに助けたことが伝わっています。

大阪城下辻斬り事件

大阪城下辻斬り事件で大谷吉継に関わる噂が流れた

この年になると、大阪城下では辻斬りが頻発。「百人斬り」とすら恐れられたその辻斬りに関して、“ある噂”が流されたことで、吉継はたいそう悩まされることとなります。

その噂と言うのは、「大谷が自身の治療のために、辻斬りを起こしている」というもの。当時の価値観において、吉継が患っていたとされる業病(ハンセン病の事)は、「自身の患部と同じ部位を食べることで治療できる」と信じられていたために、このような噂が流されたのでしょう。もしかすると、病身でありながら秀吉から目を掛けられ、強い信頼を受ける吉継に対する嫉妬もあったのかもしれません。

吉継が病を患ったのが明確にいつなのかは記録に残っていませんが、この事件があったことを考えると、少なくとも1586年よりも前の段階で、吉継が病を患っていたことが分かります。

1587年 -「大阪城の茶会にて、石田三成と友情を結ぶ」

大阪城の茶会

大阪城での茶会での石田三成の行動に感激した

この年に秀吉が主催した、大阪城での茶会は、吉継の運命に対する重要な転機となりました。このエピソードが無ければ、吉継の運命は180度変わっていたかもしれません。

当時の茶会では、一つの湯呑に一杯の茶を淹れ、それを参加者全員で回し呑むスタイルが一般的でした。この時の茶会でも、このスタイルが取られたのですが、吉継が茶を飲む番になって、ある事件が起こってしまいます。

病身の吉継がお茶を飲もうとした際に、彼の鼻から膿が一滴、お茶の中に落ちてしまったのです。現在は感染性が無いと結論付けられているハンセン病ですが、当時は感染性のある病だと信じられていたために、場は一瞬で凍り付いてしまいます。

吉継自身もどうしていいか分からず、次の列席者に湯呑を回すこともできないまま固まっていると、ある一人の人物がおもむろに立ち上がり、吉継から湯呑を奪い取って一息に飲み干してしまったのです。

誰もが唖然とする中、石田三成は、何事もなかったようにこう言ってのけました。

「余りに喉が渇いていたので、一口だけのつもりが全て飲み干してしまった。すまないが、代わりの茶をもう一杯お願いしたい」

そう言ってのけ、恩に着せる様子もなく話しかけてくる三成に、吉継はいたく感激し、彼に対する強い友情を感じたと伝えられています。

この時の三成との友情こそが、コアなファンを持つ吉継の人気の秘訣、そして吉継と三成の関ケ原の逸話へと繋がっていくのです。

1588年 -「奉行格へ名を連ねていたことが記録される」

毛利輝元による記録

毛利輝元

この年、後に西軍の総大将となる毛利輝元が上洛。輝元は上洛にあたって、世話になったりあいさつ回りをしたりした、豊臣恩顧の武将や大名たちの名前や、彼らに対するお礼の品々についてを詳細に記録しており、その中には吉継の名前もありました。

その記録の中で吉継は、当時の時点で奉行に名を連ねていた三成と同列に名が記載されていました。そのため、吉継はこの時点で、三成と同列である奉行レベルの職掌についていたことがわかっています。

1589年 -「敦賀城主として、2万石を与えられる」

敦賀城主として、2万石の大名に

この年に、これまでの働きが認められたのか、吉継は越前国敦賀群の敦賀城を与えられ、大名に名を連ねることとなります。

敦賀城

元々文官として優秀な人物であった吉継は、統治政策にも才能を発揮。混み合っていた町割りを、川を境界線とした「川西、川中、川東」の3つにわけることを皮切りに、様々な統治政策を行いました。

敦賀は北方からくる荷物の集積地であったことから、吉継は敦賀の海運業者を支配体制に取り込み、敦賀の海運や港を自身の支配下に。自身が陣頭指揮を執って海運業の効率化をはかった他、港を利用した大谷水軍を結成し、北方の勢力に対するけん制の役割も果たしました。

また、敦賀の刀鍛冶一族に対して免税を行うなど、地場産業の育成に取り組んだことや、寺社や仏閣への寄進を積極的に行っていたことも記録されています。

そんな吉継の敦賀統治は、領民からの評判もとても良かったようで、「義理深く、慈悲深い殿様」「命を懸けてこのご恩に報いたいと思う」など、吉継の統治政策や人柄に対する賞賛の文書が残っています。また、大谷家は家中の統制も取れていたようで、「よく訓練され、北方へのけん制の意を果たすことが日常のようにできている」と絶賛されている記録が残っています。

1590年 -「小田原攻め、奥州仕置き、そして大規模な加増」

小田原攻めに参戦。三成らと共に忍城攻略に当たる

小田原城

この年の吉継は、これまでと比べて大規模に動き回ることとなりました。

この年にまず起こったのは、事実上秀吉の天下を決する決戦となった小田原攻め。吉継はこの時、石田三成、長束正家(なつかまさいえ)、真田昌幸(さなだまさゆき)らと組んで、小田原城の支城、忍城(おしじょう)の攻略に当たりました。

彼らは忍城に対して水攻めを行いましたが、結局忍城を陥落させることができず、先に小田原城が落ちたことで終戦。

三成の戦下手を示すエピソードとして語られることも多い忍城攻めですが、これは三成や吉継ら、豊臣方の諸将が悪いというよりも、忍城自体が堅牢な城であったことに原因があると見るべきでしょう。

この忍城攻めについては、和田竜氏の小説作品『のぼうの城』で詳しく、かつ面白く描かれています。

奥州仕置きに従軍。出羽国の検地に当たる

上杉景勝とともに一揆を鎮圧した

小田原征伐から間を置かず、吉継は奥州仕置きにも同行。吉継はこの時、出羽国(現在の山形県、秋田県)の検地を担当しています。検地の際に、抵抗した農民を代官が切り殺したことがきっかけとなり、一揆が発生する事件も起こりましたが、吉継はこの一揆を、上杉景勝(うえすぎかげかつ)から支援を受けて鎮圧しています。

検地の他にも、奥州の勢力である安東氏の家臣、蠣崎慶広から相談を受け、蠣崎氏の独立の承認と、それに伴う秀吉への臣従の執り成しを行いました。蠣崎氏は後に蝦夷地のアイヌとの交渉を担当することになり、現在の北海道が日本に併合されるきっかけを作ることとなります。

「敦賀5万石」への大規模な加増

小田原と奥州での大仕事を終え、敦賀へと帰還した吉継は、秀吉から大規模な加増を受けることになります。

加増された石高は2万6千石ほどと、前年度と比べて倍以上に上昇。いわゆる敦賀5万石の領主となった吉継は、以降も優れた統治政策を行い、領民たちから親しまれたようです。

1592年 -「船奉行として朝鮮出兵に貢献」

文禄の役

文禄・慶長の役

この年の4月ごろに、秀吉の朝鮮出兵の第一陣である文禄の役が勃発。吉継は船奉行に任じられ、出兵のための船舶の調達や、物資の手配、物資輸送の経路作成などの裏方業務で活躍しました。

また、この年の6月には三成や増田長盛らと共に、吉継自身も朝鮮に渡り、朝鮮で戦に当たる諸将に対する指導や、現地での報告を取りまとめる業務に当たっていたことが記録されています。

朝鮮での戦局が混沌とし、明との和平が求められるようになった際も、吉継は三成らと共に明からの和平交渉の使者を伴って一時帰国。翌年の5月に、秀吉と使者の面会を取り付けることに成功しています。

1594年 -「病状の悪化により、半ば失明の危機に」

病状の悪化により、草津へ湯治に出向く

草津温泉

前年に文禄の役がとん挫したこの年、吉継の患っていた病状は悪化。彼は娘が嫁いだ真田家が治める草津へと、湯治に出向いています。

この頃は特に目を患っていたようで、10月に直江兼続に宛てた「目を病んでしまったため、自筆ではなく印によって失礼いたします」と、自身の病状を書き記した書状が残っています。

また、この3年後に再び起こる朝鮮出兵、慶長の役の参加者にも吉継の名前はなく、吉継の病状が、最早戦に耐えられないほどに進行していたことが分かります。

慶長の役の頃には、吉継の病状を心配した秀吉から直々に訪問を受けていた記録や、祝い事の行事に吉継が病身をおして姿を見せると、秀吉は彼を大いに労い、菓子を与えていたことも記録されています。

秀吉から吉継に対する信頼は、たとえ吉継が病に侵されていようとも変わっていない事や、彼の病状を案じる秀吉の親心のようなものが感じられるエピソードです。

1598年 -「秀吉の死去に伴い、家康に接近」

秀吉の死去

大谷吉継の主君だった秀吉が死去

この年、天下の覇者であった秀吉が死去。これにより、豊臣政権内部は混沌とした様相を呈することとなっていきます。

この時の吉継は、秀吉存命時の政権の中でも、五大老として強い権力を握っていた徳川家康に接近。前田利家による家康暗殺計画の噂があがった際には、福島正則や加藤清正らと共に、家康の警護の任についています。

その後も吉継は、度々持ち上がる家康暗殺計画の噂に対する対応や、秀吉の死によって生じた宇喜田家中の紛争の調停などを担当。秀吉を失って混乱する政局を治めるべく、秀吉旗下の重臣として、各所を走り回ることとなりました。

1599年 -「病状が若干好転。失明を免れる」

神龍院梵舜と共に、女能を見物

吉継はこの年、神道家である神龍院梵舜と共に、女能を見物していたとの記録が残されています。

1594年ごろには、自筆で書状を書くことすら難しい状況だった吉継ですが、この時期は女能を見物することができるほどに、病状が好転していたことが分かります。

しかしこの年の政局としては、三成と家康の対立の激化や、それに伴う三成の蟄居。家康による豊臣恩顧の武将たちへの懐柔工作など、1年後に迫る決戦への動きが、各所で続々と見え始めていました。

1600年 -「関ケ原の戦い」

三成より挙兵を持ち掛けられる

関ケ原の戦い

7月、家康は「会津の上杉景勝に謀反の疑いがある」と布告。次の天下人が家康であると読んでいた吉継は、その布告に従って3000の兵を率い、敦賀を発ちました。

会津へと向かう道中、家康との政争に敗れた三成が蟄居させられている佐和山城を訪れた吉継は、三成の嫡男である石田重家(いしだしげいえ)を大谷軍に同行させることを持ち掛けます。三成の嫡男を家康の布告に従う大谷軍に同行させることで、家康と三成の仲を取り持とうとしたのでしょう。

しかし三成はその提案を拒否し、吉継に「打倒家康のために兵を挙げないか」と持ち掛けます。

当時の家康の権力は絶大であり、次期天下人は殆ど家康に決まったも同然の状況。吉継は「石高や兵力、武力や経験、人徳の差など、全てにおいてお前が徳川殿に勝てる要素がない」とまで言って、思いとどまるように三成を説得します。

しかし三成の決意は固く、吉継はそんな三成の熱意に打たれ、根負けする形で、打倒家康のための挙兵を承諾。三成に対しての率直な説得からも分かるように、敗戦を予測したうえで、それでも三成への義理を優先した選択でした。

そうして三成に与することになった吉継は、会津への出兵を取りやめて敦賀近辺で暗躍。越前や加賀の諸大名を調略し、西軍に引き込むことに成功したほか、その吉継を押さえるべく挙兵した、東軍の前田利長に対して「西軍が優勢」「大谷の水軍が、加賀を落とすために海路を北上中」とフェイクの情報を流すことで撤退に追い込むなど、関ケ原本戦以前に多くの活躍を見せました。

「大谷吉隆」

この頃の吉継は、「大谷吉隆(おおたによしたか)」と名を改めたとも伝わっています。改名の理由については、「「吉継」であると、三好氏の滅亡の原因となった「三好義継」と名が続くため不吉である」と考えたから、という説が有力です。

しかし、現存する古文書において「大谷吉隆」名義で記された文書は存在しておらず、本当に改名をしたのかについては疑問視されています。

ただし、関ケ原に存在している吉継の墓所は、「大谷吉隆墓」として国の史跡に登録されているため、もし見学しに行くことがあれば注意が必要となっています。

関ケ原の戦い・前半戦

9月、天下分け目の戦いである関ケ原の本戦が始まりました。

吉継は関ケ原西南部に位置する、山中村の藤川台に布陣。兵力は5700人ほどであり、吉継は輿に乗って、後方での指揮を担当していたと伝えられています。

また、吉継が布陣した藤川台は、西軍の本陣と小早川軍の陣を隔てる地点に位置する場所であり、このことから、吉継は関ケ原の戦い当初より、小早川秀秋の裏切りを警戒していたと考えることができそうです。

関ケ原本戦が開戦すると、大谷軍はまず京極高知、藤堂高虎の軍と交戦。二部隊からの攻勢を受けた大谷軍でしたが、数の差がありながらも奮戦し、午前中は東軍相手に一歩も引かずに戦いを進めました。

藤堂高虎

また、この時に戦った藤堂高虎は、後に吉継とその家臣・湯浅五助の墓を建立しています。彼がその行動に至るのには、ある理由があるのですが、その理由については、次の項をご覧下さい。

小早川秀秋の裏切りにより、壮絶な最期を遂げる

関ケ原の戦いは、前半こそ西軍が優勢でしたが、後半に入ると同時に、状況を一変させる有名な出来事が起こります。

西軍の中でも一大勢力だった小早川秀秋の軍勢が、突如として東軍に寝返りを表明。更に小早川に触発されるように、大谷軍の周囲の武将たちが、続々と東軍へ寝返ってしまったのです。裏切った彼らは、次々に吉継の陣に攻めかかってきます。

小早川秀秋

小早川の裏切りを警戒していた大谷軍は奮戦し、一度は小早川軍を押し返すことに成功しますが、その追撃の最中に更なる裏切りにあって敗走。自陣へと引き返す最中に、前方からは東軍、背後からは小早川の軍勢、側面からは裏切った諸将の部隊によって追撃を受け、大谷軍はあえなく壊滅してしまいます。

部隊が壊滅した吉継は、自身の腹を切って自害。家臣の湯浅五助に「東軍の連中に首を発見されないよう、死んだ私の首を隠してほしい」と頼んでの切腹だったと言われています。また、腹を切る直前の吉継は小早川の陣を睨みつけ「三年の間に必ずや祟ってやる」と怒りを露わにしたとも言われています。

この吉継の自害がきっかけとなり、戦局は一気に東軍が優勢に。戦局が一気に傾く当たり、吉継が西軍の中で担っていた役目が、どれほど大きいものだったかが伝わるでしょう。

吉継の首の行方

湯浅五助

吉継から首を隠すよう頼まれた湯浅五助は、その首を関ケ原のどこかに倦めて隠したとされています。しかし五助は、首を埋めるその姿を、藤堂高虎の甥である藤堂高刑(とうどうたかのり)に見られてしまっていました。

高刑に対して、五助は懇願します。

「東軍に発見されないように首を隠してほしいというのは、殿の最期の頼みなのです。我が首を差し上げますので、どうかこのことは他言無用にしていただけませんか?」

高刑はその望みを承諾し、五助は自分を高刑に討たせることで、吉継の最後の望みを叶えることに成功したのでした。

高刑も義理堅く約束を守り、家康から「湯浅五助の首を取ったなら、吉継の首の在処も知っているはずだ」と詰問された際にも、「五助との約束があるため、それだけは家康様にも申し上げられません」と、口を割らなかったそうです。

その言葉に感激した家康は、逆に高刑に褒美を与え、高刑の叔父の高虎は、敵対した身でありながら、奮戦した吉継を大いに称えて、彼の墓を関ケ原の地に建立しました。

現在の関ケ原の地には、吉継の墓と五助の墓が、隣り合って建立されています。しかし一方で、吉継の首が埋められた正確な場所については、現在もわかっていないようです。

大谷吉継の関連作品は?

おすすめ書籍・本・漫画

戦国人物伝 大谷吉継 (コミック版日本の歴史)

歴史初学者向けの、いわゆる『漫画でわかる』シリーズの大谷吉継版です。

この記事のような長い文章を読むのが苦手、という方は、まずはこの本から入門するとよいだろうと思います。エンタメとしての物足りなさはありますが、大谷吉継の事が漫画でよくわかるため、入門にちょうどいい作品です。

白頭の人

歴史小説好きの間ではおなじみの『軍配者』シリーズの富樫倫太郎氏が、吉継を主役に据えて描いた作品です。

若干フィクションを付け足している部分がありますが、大谷吉継という人物を知りたければ、この作品を読めば大体は知ることができる作品になっています。歴史小説が苦手な方でも読める、平易な文章なのも嬉しいポイント。ただし、歴史小説をいくつも読んでいる方からすると、若干物足りなく感じる部分もあるかもしれません。

おすすめ映画

関ヶ原

吉継の親友、石田三成を主役として描いた作品です。2017年に公開された作品のため、まだ記憶に新しい方も多いかと思います。

吉継を演じるのは、大場泰正(おおばやすさま)さん。あまりドラマや映画への出演は多くない俳優さんですが、あまり多くはない出番の中で「吉継らしさ」を細かいところまで緻密に表現されています。

少々セリフ回しが早口で、歴史を知っていることが前提のシーンも多いため、少し吉継や三成について勉強してからの視聴をお勧めいたします。

のぼうの城

小田原攻めの際の忍城攻めを、忍城の主、成田長親(なりたながちか)の視点から描いた映画作品です。主役が長親のため、吉継や三成は敵役として登場します。

吉継を演じるのは、『勇者ヨシヒコシリーズ』などでおなじみのカメレオン俳優、山田孝之さん。理知的で義理堅く、どこか飄々とした吉継を見事に演じられています。

敵役としての登場ながら、切れ者でカッコいい吉継を見ることができる作品ですので、興味がある方は是非ともご覧ください。

おすすめドラマ

大河ドラマ 真田丸

最近の大河ドラマの中では、最もカッコいい吉継を見ることができる作品です。

吉継を演じるのは片岡愛之助さん。柔軟でクールな性格の吉継を演じ、作中での吉継死亡の際には「刑部ロス」がネット上で話題になったほど、カッコいい大谷吉継を演じてくれています。

他にも照会するほどではありませんが、『軍師官兵衛』にも大谷吉継は描かれていますので、興味があればそちらもご覧ください。

関連外部リンク

大谷吉継についてのまとめ

戦国時代と言うと、「剣と槍と謀略が渦巻く乱世」と言う印象を持つ方が多いとおもいます。筆者自身もそうだと思いますし、そんな時代だからこそ、織田信長や豊臣秀吉が高い評価を得たのだろうとも思います。

しかし、そんな謀略の時代の只中を生きながらも、その時代に染まりきることなく、親友との友情を貫き通した大谷吉継は、現代に生きる我々によってこそ、その心根が評価されるべき武将であると筆者は考えています。

吉継のように、親友や恩人のために、自身の利を捨てて戦うことができるか?現代だからこそ、我々全員が自らに問いかけるべき問題かもしれません。

頭の切れる知性的な人物でありながら、自らの利を捨てて親友のために戦い、戦場に散っていった仁将。正に“義”に殉じた男である、大谷吉継。

コアな歴史ファンにしか知られていなかったこの人物の魅力が、この記事によって少しでも伝わってくれたなら嬉しいです。

それでは、長い時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

1 2 3

コメントを残す