大谷吉継とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や死因、逸話も紹介】

1588年 -「奉行格へ名を連ねていたことが記録される」

毛利輝元による記録

毛利輝元

この年、後に西軍の総大将となる毛利輝元が上洛。輝元は上洛にあたって、世話になったりあいさつ回りをしたりした、豊臣恩顧の武将や大名たちの名前や、彼らに対するお礼の品々についてを詳細に記録しており、その中には吉継の名前もありました。

その記録の中で吉継は、当時の時点で奉行に名を連ねていた三成と同列に名が記載されていました。そのため、吉継はこの時点で、三成と同列である奉行レベルの職掌についていたことがわかっています。

1589年 -「敦賀城主として、2万石を与えられる」

敦賀城主として、2万石の大名に

この年に、これまでの働きが認められたのか、吉継は越前国敦賀群の敦賀城を与えられ、大名に名を連ねることとなります。

敦賀城

元々文官として優秀な人物であった吉継は、統治政策にも才能を発揮。混み合っていた町割りを、川を境界線とした「川西、川中、川東」の3つにわけることを皮切りに、様々な統治政策を行いました。

敦賀は北方からくる荷物の集積地であったことから、吉継は敦賀の海運業者を支配体制に取り込み、敦賀の海運や港を自身の支配下に。自身が陣頭指揮を執って海運業の効率化をはかった他、港を利用した大谷水軍を結成し、北方の勢力に対するけん制の役割も果たしました。

また、敦賀の刀鍛冶一族に対して免税を行うなど、地場産業の育成に取り組んだことや、寺社や仏閣への寄進を積極的に行っていたことも記録されています。

そんな吉継の敦賀統治は、領民からの評判もとても良かったようで、「義理深く、慈悲深い殿様」「命を懸けてこのご恩に報いたいと思う」など、吉継の統治政策や人柄に対する賞賛の文書が残っています。また、大谷家は家中の統制も取れていたようで、「よく訓練され、北方へのけん制の意を果たすことが日常のようにできている」と絶賛されている記録が残っています。

1590年 -「小田原攻め、奥州仕置き、そして大規模な加増」

小田原攻めに参戦。三成らと共に忍城攻略に当たる

小田原城

この年の吉継は、これまでと比べて大規模に動き回ることとなりました。

この年にまず起こったのは、事実上秀吉の天下を決する決戦となった小田原攻め。吉継はこの時、石田三成、長束正家(なつかまさいえ)、真田昌幸(さなだまさゆき)らと組んで、小田原城の支城、忍城(おしじょう)の攻略に当たりました。

彼らは忍城に対して水攻めを行いましたが、結局忍城を陥落させることができず、先に小田原城が落ちたことで終戦。

三成の戦下手を示すエピソードとして語られることも多い忍城攻めですが、これは三成や吉継ら、豊臣方の諸将が悪いというよりも、忍城自体が堅牢な城であったことに原因があると見るべきでしょう。

この忍城攻めについては、和田竜氏の小説作品『のぼうの城』で詳しく、かつ面白く描かれています。

奥州仕置きに従軍。出羽国の検地に当たる

上杉景勝とともに一揆を鎮圧した

小田原征伐から間を置かず、吉継は奥州仕置きにも同行。吉継はこの時、出羽国(現在の山形県、秋田県)の検地を担当しています。検地の際に、抵抗した農民を代官が切り殺したことがきっかけとなり、一揆が発生する事件も起こりましたが、吉継はこの一揆を、上杉景勝(うえすぎかげかつ)から支援を受けて鎮圧しています。

検地の他にも、奥州の勢力である安東氏の家臣、蠣崎慶広から相談を受け、蠣崎氏の独立の承認と、それに伴う秀吉への臣従の執り成しを行いました。蠣崎氏は後に蝦夷地のアイヌとの交渉を担当することになり、現在の北海道が日本に併合されるきっかけを作ることとなります。

「敦賀5万石」への大規模な加増

小田原と奥州での大仕事を終え、敦賀へと帰還した吉継は、秀吉から大規模な加増を受けることになります。

加増された石高は2万6千石ほどと、前年度と比べて倍以上に上昇。いわゆる敦賀5万石の領主となった吉継は、以降も優れた統治政策を行い、領民たちから親しまれたようです。

1592年 -「船奉行として朝鮮出兵に貢献」

文禄の役

文禄・慶長の役

この年の4月ごろに、秀吉の朝鮮出兵の第一陣である文禄の役が勃発。吉継は船奉行に任じられ、出兵のための船舶の調達や、物資の手配、物資輸送の経路作成などの裏方業務で活躍しました。

また、この年の6月には三成や増田長盛らと共に、吉継自身も朝鮮に渡り、朝鮮で戦に当たる諸将に対する指導や、現地での報告を取りまとめる業務に当たっていたことが記録されています。

朝鮮での戦局が混沌とし、明との和平が求められるようになった際も、吉継は三成らと共に明からの和平交渉の使者を伴って一時帰国。翌年の5月に、秀吉と使者の面会を取り付けることに成功しています。

1594年 -「病状の悪化により、半ば失明の危機に」

病状の悪化により、草津へ湯治に出向く

草津温泉

前年に文禄の役がとん挫したこの年、吉継の患っていた病状は悪化。彼は娘が嫁いだ真田家が治める草津へと、湯治に出向いています。

この頃は特に目を患っていたようで、10月に直江兼続に宛てた「目を病んでしまったため、自筆ではなく印によって失礼いたします」と、自身の病状を書き記した書状が残っています。

また、この3年後に再び起こる朝鮮出兵、慶長の役の参加者にも吉継の名前はなく、吉継の病状が、最早戦に耐えられないほどに進行していたことが分かります。

慶長の役の頃には、吉継の病状を心配した秀吉から直々に訪問を受けていた記録や、祝い事の行事に吉継が病身をおして姿を見せると、秀吉は彼を大いに労い、菓子を与えていたことも記録されています。

秀吉から吉継に対する信頼は、たとえ吉継が病に侵されていようとも変わっていない事や、彼の病状を案じる秀吉の親心のようなものが感じられるエピソードです。

1598年 -「秀吉の死去に伴い、家康に接近」

秀吉の死去

大谷吉継の主君だった秀吉が死去

この年、天下の覇者であった秀吉が死去。これにより、豊臣政権内部は混沌とした様相を呈することとなっていきます。

この時の吉継は、秀吉存命時の政権の中でも、五大老として強い権力を握っていた徳川家康に接近。前田利家による家康暗殺計画の噂があがった際には、福島正則や加藤清正らと共に、家康の警護の任についています。

その後も吉継は、度々持ち上がる家康暗殺計画の噂に対する対応や、秀吉の死によって生じた宇喜田家中の紛争の調停などを担当。秀吉を失って混乱する政局を治めるべく、秀吉旗下の重臣として、各所を走り回ることとなりました。

1599年 -「病状が若干好転。失明を免れる」

神龍院梵舜と共に、女能を見物

吉継はこの年、神道家である神龍院梵舜と共に、女能を見物していたとの記録が残されています。

1594年ごろには、自筆で書状を書くことすら難しい状況だった吉継ですが、この時期は女能を見物することができるほどに、病状が好転していたことが分かります。

しかしこの年の政局としては、三成と家康の対立の激化や、それに伴う三成の蟄居。家康による豊臣恩顧の武将たちへの懐柔工作など、1年後に迫る決戦への動きが、各所で続々と見え始めていました。

1600年 -「関ケ原の戦い」

三成より挙兵を持ち掛けられる

関ケ原の戦い

7月、家康は「会津の上杉景勝に謀反の疑いがある」と布告。次の天下人が家康であると読んでいた吉継は、その布告に従って3000の兵を率い、敦賀を発ちました。

会津へと向かう道中、家康との政争に敗れた三成が蟄居させられている佐和山城を訪れた吉継は、三成の嫡男である石田重家(いしだしげいえ)を大谷軍に同行させることを持ち掛けます。三成の嫡男を家康の布告に従う大谷軍に同行させることで、家康と三成の仲を取り持とうとしたのでしょう。

しかし三成はその提案を拒否し、吉継に「打倒家康のために兵を挙げないか」と持ち掛けます。

当時の家康の権力は絶大であり、次期天下人は殆ど家康に決まったも同然の状況。吉継は「石高や兵力、武力や経験、人徳の差など、全てにおいてお前が徳川殿に勝てる要素がない」とまで言って、思いとどまるように三成を説得します。

しかし三成の決意は固く、吉継はそんな三成の熱意に打たれ、根負けする形で、打倒家康のための挙兵を承諾。三成に対しての率直な説得からも分かるように、敗戦を予測したうえで、それでも三成への義理を優先した選択でした。

そうして三成に与することになった吉継は、会津への出兵を取りやめて敦賀近辺で暗躍。越前や加賀の諸大名を調略し、西軍に引き込むことに成功したほか、その吉継を押さえるべく挙兵した、東軍の前田利長に対して「西軍が優勢」「大谷の水軍が、加賀を落とすために海路を北上中」とフェイクの情報を流すことで撤退に追い込むなど、関ケ原本戦以前に多くの活躍を見せました。

「大谷吉隆」

この頃の吉継は、「大谷吉隆(おおたによしたか)」と名を改めたとも伝わっています。改名の理由については、「「吉継」であると、三好氏の滅亡の原因となった「三好義継」と名が続くため不吉である」と考えたから、という説が有力です。

しかし、現存する古文書において「大谷吉隆」名義で記された文書は存在しておらず、本当に改名をしたのかについては疑問視されています。

ただし、関ケ原に存在している吉継の墓所は、「大谷吉隆墓」として国の史跡に登録されているため、もし見学しに行くことがあれば注意が必要となっています。

関ケ原の戦い・前半戦

9月、天下分け目の戦いである関ケ原の本戦が始まりました。

吉継は関ケ原西南部に位置する、山中村の藤川台に布陣。兵力は5700人ほどであり、吉継は輿に乗って、後方での指揮を担当していたと伝えられています。

また、吉継が布陣した藤川台は、西軍の本陣と小早川軍の陣を隔てる地点に位置する場所であり、このことから、吉継は関ケ原の戦い当初より、小早川秀秋の裏切りを警戒していたと考えることができそうです。

関ケ原本戦が開戦すると、大谷軍はまず京極高知、藤堂高虎の軍と交戦。二部隊からの攻勢を受けた大谷軍でしたが、数の差がありながらも奮戦し、午前中は東軍相手に一歩も引かずに戦いを進めました。

藤堂高虎

また、この時に戦った藤堂高虎は、後に吉継とその家臣・湯浅五助の墓を建立しています。彼がその行動に至るのには、ある理由があるのですが、その理由については、次の項をご覧下さい。

小早川秀秋の裏切りにより、壮絶な最期を遂げる

関ケ原の戦いは、前半こそ西軍が優勢でしたが、後半に入ると同時に、状況を一変させる有名な出来事が起こります。

西軍の中でも一大勢力だった小早川秀秋の軍勢が、突如として東軍に寝返りを表明。更に小早川に触発されるように、大谷軍の周囲の武将たちが、続々と東軍へ寝返ってしまったのです。裏切った彼らは、次々に吉継の陣に攻めかかってきます。

小早川秀秋

小早川の裏切りを警戒していた大谷軍は奮戦し、一度は小早川軍を押し返すことに成功しますが、その追撃の最中に更なる裏切りにあって敗走。自陣へと引き返す最中に、前方からは東軍、背後からは小早川の軍勢、側面からは裏切った諸将の部隊によって追撃を受け、大谷軍はあえなく壊滅してしまいます。

部隊が壊滅した吉継は、自身の腹を切って自害。家臣の湯浅五助に「東軍の連中に首を発見されないよう、死んだ私の首を隠してほしい」と頼んでの切腹だったと言われています。また、腹を切る直前の吉継は小早川の陣を睨みつけ「三年の間に必ずや祟ってやる」と怒りを露わにしたとも言われています。

この吉継の自害がきっかけとなり、戦局は一気に東軍が優勢に。戦局が一気に傾く当たり、吉継が西軍の中で担っていた役目が、どれほど大きいものだったかが伝わるでしょう。

吉継の首の行方

湯浅五助

吉継から首を隠すよう頼まれた湯浅五助は、その首を関ケ原のどこかに倦めて隠したとされています。しかし五助は、首を埋めるその姿を、藤堂高虎の甥である藤堂高刑(とうどうたかのり)に見られてしまっていました。

高刑に対して、五助は懇願します。

「東軍に発見されないように首を隠してほしいというのは、殿の最期の頼みなのです。我が首を差し上げますので、どうかこのことは他言無用にしていただけませんか?」

高刑はその望みを承諾し、五助は自分を高刑に討たせることで、吉継の最後の望みを叶えることに成功したのでした。

高刑も義理堅く約束を守り、家康から「湯浅五助の首を取ったなら、吉継の首の在処も知っているはずだ」と詰問された際にも、「五助との約束があるため、それだけは家康様にも申し上げられません」と、口を割らなかったそうです。

その言葉に感激した家康は、逆に高刑に褒美を与え、高刑の叔父の高虎は、敵対した身でありながら、奮戦した吉継を大いに称えて、彼の墓を関ケ原の地に建立しました。

現在の関ケ原の地には、吉継の墓と五助の墓が、隣り合って建立されています。しかし一方で、吉継の首が埋められた正確な場所については、現在もわかっていないようです。

大谷吉継の関連作品は?

おすすめ書籍・本・漫画

戦国人物伝 大谷吉継 (コミック版日本の歴史)

歴史初学者向けの、いわゆる『漫画でわかる』シリーズの大谷吉継版です。

この記事のような長い文章を読むのが苦手、という方は、まずはこの本から入門するとよいだろうと思います。エンタメとしての物足りなさはありますが、大谷吉継の事が漫画でよくわかるため、入門にちょうどいい作品です。

白頭の人

歴史小説好きの間ではおなじみの『軍配者』シリーズの富樫倫太郎氏が、吉継を主役に据えて描いた作品です。

若干フィクションを付け足している部分がありますが、大谷吉継という人物を知りたければ、この作品を読めば大体は知ることができる作品になっています。歴史小説が苦手な方でも読める、平易な文章なのも嬉しいポイント。ただし、歴史小説をいくつも読んでいる方からすると、若干物足りなく感じる部分もあるかもしれません。

おすすめ映画

関ヶ原

吉継の親友、石田三成を主役として描いた作品です。2017年に公開された作品のため、まだ記憶に新しい方も多いかと思います。

吉継を演じるのは、大場泰正(おおばやすさま)さん。あまりドラマや映画への出演は多くない俳優さんですが、あまり多くはない出番の中で「吉継らしさ」を細かいところまで緻密に表現されています。

少々セリフ回しが早口で、歴史を知っていることが前提のシーンも多いため、少し吉継や三成について勉強してからの視聴をお勧めいたします。

のぼうの城

小田原攻めの際の忍城攻めを、忍城の主、成田長親(なりたながちか)の視点から描いた映画作品です。主役が長親のため、吉継や三成は敵役として登場します。

吉継を演じるのは、『勇者ヨシヒコシリーズ』などでおなじみのカメレオン俳優、山田孝之さん。理知的で義理堅く、どこか飄々とした吉継を見事に演じられています。

敵役としての登場ながら、切れ者でカッコいい吉継を見ることができる作品ですので、興味がある方は是非ともご覧ください。

おすすめドラマ

大河ドラマ 真田丸

最近の大河ドラマの中では、最もカッコいい吉継を見ることができる作品です。

吉継を演じるのは片岡愛之助さん。柔軟でクールな性格の吉継を演じ、作中での吉継死亡の際には「刑部ロス」がネット上で話題になったほど、カッコいい大谷吉継を演じてくれています。

他にも照会するほどではありませんが、『軍師官兵衛』にも大谷吉継は描かれていますので、興味があればそちらもご覧ください。

関連外部リンク

大谷吉継についてのまとめ

戦国時代と言うと、「剣と槍と謀略が渦巻く乱世」と言う印象を持つ方が多いとおもいます。筆者自身もそうだと思いますし、そんな時代だからこそ、織田信長や豊臣秀吉が高い評価を得たのだろうとも思います。

しかし、そんな謀略の時代の只中を生きながらも、その時代に染まりきることなく、親友との友情を貫き通した大谷吉継は、現代に生きる我々によってこそ、その心根が評価されるべき武将であると筆者は考えています。

吉継のように、親友や恩人のために、自身の利を捨てて戦うことができるか?現代だからこそ、我々全員が自らに問いかけるべき問題かもしれません。

頭の切れる知性的な人物でありながら、自らの利を捨てて親友のために戦い、戦場に散っていった仁将。正に“義”に殉じた男である、大谷吉継。

コアな歴史ファンにしか知られていなかったこの人物の魅力が、この記事によって少しでも伝わってくれたなら嬉しいです。

それでは、長い時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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