石田三成や徳川家康との関係
大谷吉継と石田三成の関係は?
先述した通り、吉継と三成は同僚として、共に豊臣家に仕えました。しかし、ただのビジネスライクな同僚関係ではなく、共に近江出身(吉継に関しては異説あり)の秀吉旗下の武将であり、かつ共に政治経済の分野に長けた頭脳派の官僚であったことも手伝って、彼らの間には深い友情があったようです。
吉継と三成の友情を示すエピソードとしては、やはり彼らの友情の始まり、“茶会”のエピソードが最も有名でしょう。
1587年、大阪城で茶会が開かれました。当時の茶会は、一つの湯呑の茶を回し飲みするスタイルが一般的であり、出席していた者たちはその作法に従って茶を楽しんでいました。しかし、吉継に茶が回ったその時、事件が起こってしまいます。病に罹患していた吉継の顔から膿が垂れ、茶の中に落ちてしまったのです。集まっていた諸将は皆一様に嫌な顔をし、吉継はどうしていいのか分からず、湯呑を持ったまま固まってしまいます。
しかし、そんな中で立ち上がったのが三成でした。三成はふと立ち上がると、吉継から湯呑を奪いとり、一息に膿ごと中身を飲み干してからこう言ったのです。
喉が渇いていたので、全て飲み干してしまった。代わりの茶をもう一杯お願いしたい
そう言って、そのことを恩に着せるでも無く話しかけてくる三成に、吉継はいたく感激し、彼に対する強い友情を感じたと言われています。
吉継と三成はそのエピソードを機に、互いに言い合いができる親友となったらしく、1600年、打倒徳川のための挙兵を持ち掛けてきた三成に対し、吉継は「お前は横柄で人気がないから、挙兵するなら別の人物を大将にしろ」と率直に進言しています。
ともすれば大喧嘩にすらなりかねない、率直すぎる一言ですが、三成はそれを受け入れて、西軍の大将を毛利輝元に譲るなど、吉継の言葉に素直に従っています。また、吉継も西軍に勝ち目が無い事を理解しつつ、それでも西軍として関ケ原に参戦しています。吉継と家康も悪くない関係であったため、吉継は悩んだ末に、三成との友情を取ったのでしょう。
謀略渦巻く戦国末期の情勢の中での、この友情を示すエピソードは、現在でも多くのコアなファンを持つ吉継の人気を支えるエピソードとして有名です。
大谷吉継と石田三成の関係は想像以上に濃かった?熱きエピソードを紹介
大谷吉継と徳川家康の関係は?
関ケ原の戦いでこそ、西軍として家康と戦って、戦場で壮絶な討死を遂げた吉継ですが、徳川家康との関係も、さほど悪いものではなかったことが伝わっています。
親友の三成は家康を何かと目の敵にしていましたが、吉継は逆に家康のことを「天下人としての器量を持つ人物」「信用するに足る御方」と高く評価していたようです。特に関ケ原の挙兵に際しては、それを持ち掛けてきた三成に対して「石高や兵力、武力や経験、人徳の差など、全てにおいてお前が徳川殿に勝てる要素がない」とまで言って三成を諌めた、と言う逸話も存在しています。
家康の方も、自信が天下を治めるにあたって、まずは秀吉子飼いの諸将の内、吉継を家臣として囲い込もうとするなど、吉継のことを大いに買っていたことを示すエピソードも残っています。
もしも吉継が、家康の誘いに乗って東軍として参戦していたとしたら……。吉継の性格上あり得ない仮定ではありますが、想像してみるのも面白いかもしれません。
大谷吉継にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1 「大谷吉継の最期の言葉」
先述の通り、関ケ原で壮絶な討死を遂げ、その生涯に幕を下ろした大谷吉継ですが、その最期の言葉も中々に壮絶なものであったと伝えられています。
辞世の句を詠み、腹を切った吉継は、介錯されるまでのほんの少しの間に小早川秀秋の陣を睨みつけ、「三年の間に必ずや祟ってやる」と怒りを露にしたと伝わっています。
その言葉を受けた小早川秀秋は、関ケ原の戦いから2年後の12月に突如として死亡。21歳と言う若さでの急死であったうえ、晩年の秀秋は気が触れてしまっていたという説がある事も手伝って、その早逝が吉継の祟りであるという説は、現在でもまことしやかに囁かれるほどに信ぴょう性が高いものとなっています。
都市伝説・武勇伝2 「大谷吉継と真田幸村の関係」
並みいる戦国武将の中でも、特に人気の高い武将の一人である真田幸村。そんな彼と吉継には、実は中々に深い関係があることをご存じでしょうか?
その関係と言うのは、なんと義理の親子。吉継の娘である竹林院は、幸村の正室となっている人物なのです。
竹林院と幸村の結婚は、真田家を豊臣勢力に引き込みたい秀吉の意向による政略結婚だったようですが、幸村と竹林院の夫婦仲は、それほど悪くなかったと記録されています。
吉継の娘である竹林院は、幸村のエピソードの中でも有名な、九度山への幽閉に際しても同行して共に幽閉されており、彼女は幸村と共に苦しい生活を経験しつつ、九度山で二人の息子を生んでいます。また、現在でも長野県の名産品として知られる“真田紐”を考案したのは、他でもない竹林院であるという説も存在しています。
また、病身の吉継も、度々草津の温泉地に出向いて湯治をしていたと記録されています。そして何を隠そう、吉継が湯治に訪れていたころの草津を治めていたのは真田家。そのような関係性があったからこそ、吉継は安心して療養できる湯治場として、度々草津を訪れていたのかもしれません。
ドラマやゲームでは、あまりメイン所を張ることが無い吉継ですが、石田三成や真田幸村など、多くの人気武将の影に控えるエピソードが残っています。それらのエピソードを知ってからドラマやゲームに触れると、また違った見え方があるかもしれません。
大谷吉継の年表を簡単にまとめると?
生年や父親に関しては不明点が多いですが、1559年もしくは1565年に誕生しました。生地についても、近江説と豊後説が存在し、現在も研究による解明が待たれています。
1573年ごろに織田家に仕官し、出世頭であった羽柴秀吉の小姓として仕えることになります。同じころには石田三成や福島正則も秀吉に仕え始めており、この頃の面々が後の豊臣政権を支えるオールスターとなるのです。
中国攻めにおいて、秀吉の馬廻り衆(現在で言う親衛隊)として、福島正則らと共に従軍。この時の記録では、「大谷平馬」として記録されており、この「平馬」が吉継であると言われています。馬廻り衆は、武芸に秀でたものが選抜されるエリートだったこともあり、秀吉が吉継に対して期待をかけていたことが分かります。
中国攻めの総仕上げである備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻めにも、吉継は秀吉の馬廻り衆として従軍。しかし本能寺の変が起き、主家である織田家が滅亡。吉継は以降も秀吉に仕え、彼の天下取りのために尽くします。
秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)の間に、賤ケ岳の戦いが勃発。実質的な信長の跡目争いでしたが、吉継は秀吉陣営として参戦。長浜城主である柴田勝豊(しばたかつとよ)を調略する戦果を挙げました。
紀州征伐では、増田長盛と共に2000人の兵を率いて参戦。抵抗を続ける杉本荒法師(すごもとあらほうし)を討ち取る武功を上げたことが記録されています。
また、この時期より個人で発給する文書も出てき始め、「大谷紀之介」名義の文書が発給されています。
さらに、この時期にはキリスト教に改宗していたようで、宣教師のガスパール・コエリョに対して、果物と干し柿を贈っていることが記録に残されています。
秀吉の関白就任に伴い、吉継も従五位下刑部少輔に叙任を受けることとなります。これによって彼の通称として「大谷刑部」が用いられるようになります。
また、この時期の吉継は自身の家紋を「違い鷹の羽」の家紋から、「対い蝶」の家紋に変更していますが、その理由については分かっていません。
更に9月ごろには、秀吉の有馬温泉湯治に、石田三成らとともに同行。秀吉の側近としての地位は、このあたりで固まってきたと言えそうです。
九州征伐では、兵站奉行に任ぜられた石田三成の指揮下で、主に文官として活躍しました。同じ年に三成が堺奉行に任じられた際も、その下で実務を担当しています。
また、この時期には大阪城下で辻斬りが発生。「大谷が自身の治療のために行っているのでは?」という噂が立っていたことが明らかになっているため、吉継の発病はこれよりも前の事だったと考えることができそうです。
この年の大阪城の茶会において、吉継と三成の友情を決定づける事件が起こります。吉継の顔から滲んだ膿が茶の中に落ちてしまい、誰もが凍り付いてその茶に口を付けようとしない中、三成が一息にその茶を飲み干した、という有名なエピソードです。
詳しくは、「大谷吉継と石田三成の関係は?」の項や、後述する具体年表をご覧下さい。
この年に、毛利輝元(もうりてるもと)が上洛。輝元は上洛の際に、世話になったりあいさつ回りをした武将について、細かく記録していましたが、その中に石田三成、増田長盛と同列で、大谷吉継の名前が見られます。二人と同列に名が並べられていたため、この時点で吉継も、奉行に名を連ねていたことが分かります。
この年、吉継は越前国(現在の福井と岐阜)の敦賀城(つるがじょう)を与えられ、城主となります。寺社への寄進や、地場産業の育成に積極的に取り組んだことが記録されており、領民からも「義理堅く、慈悲深い殿様」「命を賭してその恩に報いたいと思う」と、高く評価されていたことが伝わっています。
秀吉の天下を決定づける大戦、小田原征伐や、その後の奥州仕置にも従軍。小田原城では忍城(おしじょう)攻略に参加し、忍城攻略の総大将を務めた三成の補佐に当たっています。
奥州仕置の際には、出羽国の検地を行った他、奥州の勢力、安東氏の家臣である蠣崎慶広(かきざきよしひろ)から相談を受け、蠣崎氏の独立と、豊臣家への臣従の執り成しを行ったことが記録されています。
また、奥州の検地からの帰還後には、大幅な加増を受け、いわゆる「敦賀5万石」の城主となりました。
朝鮮出兵(文禄の役)の際には、吉継は船奉行、軍監として秀吉に貢献。主に船舶の調達や物資輸送を手配する官僚として手腕を発揮し、手柄を上げています。
6月には、三成や増田長盛と共に自身も海を渡り、出兵した諸将の指導や報告のとりまとめ業務に当たった他、和平交渉のための使節と秀吉の面会を取り付けることも成功させました。
前年に朝鮮出兵(文禄の役)がとん挫したこの年。吉継の病状は悪化し、娘である竹林院が嫁いだ真田家が治める、草津へと湯治に赴いています。
この頃の吉継は殆ど失明しかけていたようで、直江兼続に宛てた書状には、当時一般的だった花押による署名ではなく、印判で署名をすることに対する詫びと断わりの一文を見ることができます。
この年の8月に、主君である秀吉が死去。秀吉の死に際して、吉継は五大老の筆頭格だった家康に接近。家康と同じ五大老である前田利家(まえだとしいえ)と家康が険悪になり、徳川邸への襲撃が噂された際には、福島正則らと共に家康の警護に当たっています。
吉継はこの年、神道家である神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)と共に女能を見物していたと記録されています。そのため、この時期は病状が好転しており、少なくとも失明は免れていたようです。
この頃、家康は会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いがあるとし、上杉討伐のために挙兵。
吉継もその挙兵に参加し、その道中で、三成が蟄居させられている佐和山城へ立ち寄ります。三成と家康を仲裁するため、三成の子を自軍に引き入れることを進言する吉継ですが、三成は吉継に対し、打倒家康のための挙兵を持ち掛けます。
「勝ち目がない」と反論する吉継でしたが、三成の固い決意に押される形で挙兵を承諾。以降大谷家は一族を上げて、西軍として行動を開始します。
天下分け目の大戦である関ケ原の戦いが勃発。
西軍として参戦した吉継は、関ケ原の西南部に位置する山中村の藤川台に布陣し、後方指揮官として軍の指揮に当たりました。
午前中は藤堂高虎(とうどうたかとら)、京極高知(きょうごくたかとも)の部隊と交戦し、奮戦。互いに一歩も引かない戦いを繰り広げました。
午前は西軍優勢だった関ケ原の戦いでしたが、午後、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変。初めから小早川の裏切りを警戒し、小早川軍と西軍本陣を隔てるように陣取っていた大谷軍は、小早川軍と、それに呼応して裏切った勢力の猛攻撃を受けることになってしまいます。
奮戦する大谷軍でしたが、四方から押し寄せる数の暴力には勝つことができず壊滅。吉継は家臣である湯浅五助に、自身の首を隠すように頼んで切腹。関ケ原の戦場に、その命を散らしたのでした。