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新井白石とはどんな人?生涯・年表まとめ【政治改革や著書、子孫も紹介】

新井白石は江戸時代に活躍した政治家であり朱子学者です。彼が行った政治改革は「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれ、徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に就任するまで続きました。

新井白石
出典:Wikipedia

しかし、新井白石が江戸幕府に大きく寄与した人物である一方、

「新井白石ってどんな人だったの?」
「具体的にどんな功績を残したの?」
「正徳の治ってどんな政策だったの?」

と彼の人柄や功績が曖昧な方も多いはず。

そこで今回は新井白石の著書を読んで感銘を受けた筆者が、白石の生涯を功績や逸話、子孫の有無なども交えて解説します。

この記事を読み新井白石への理解が深まれば、江戸時代への見方も一層深くなりますよ。

新井白石とはどんな人物か

名前新井白石
役職旗本、将軍侍講
誕生日明暦3年(1657)2月
没日享保10年(1725)5月
生地江戸
没地江戸の千駄ヶ谷
配偶者朝倉万右衛門の娘
埋葬場所東京都中野区高徳寺

新井白石の生涯をハイライト

新井白石像
出典:仏像1万2千体Ⅱ
  • 明暦3年(1657):新井正済の子として誕生
  • 延宝2年(1674):儒学の勉強を始める
  • 延宝5年(1676):主家・土屋家から追放される
  • 天和3年(1683):大老・堀田正俊に仕える
  • 貞享3年(1686):木下順庵(じゅんあん)に弟子入り
  • 元禄6年(1693):甲府徳川家に仕官
  • 宝永6年(1710):将軍侍講として正徳の治を行う
  • 享保元年(1716):徳川吉宗によって失脚
  • 享保10年(1725):病気による病死

旗本にして将軍侍講(政治顧問)を務める

一介の旗本が政治に関わることは稀なことだった

新井白石は明暦3年(1657)に生まれました。幼少より聡明だった白石は、久留里藩(現在の千葉県君津市久留里)の藩主の土屋家、大老・堀田正俊を転々した後に甲府徳川家に仕えます。

やがて、甲府徳川家の当主だった徳川家宣が江戸幕府6代将軍に就任すると、側近として重宝されました。この時白石は旗本に加えられますが、500石の役職なしの旗本止まりでした。

そのため、家宣が白石から意見を求める際は、側用人の間部詮房(まなべ-あきふさ)が白石のもとを訪ね、そこで回答を貰えるといった形式を用います。このように役職なしの旗本が将軍侍講(政治顧問)として幕府の政治に深く関わったことは異例中の異例でした。

正徳の治と呼ばれる政治改革を行う

新井白石に反発した雨森芳洲
出典:Wikipedia

新井白石が敷いた政治は、正徳年間に行ったことから「正徳の治」と呼ばれています。白石は正徳の治の中で、正徳金銀の発行・海舶互市新例(かいはくごししんれい)の制定・朝鮮通信使の待遇変更・閑院宮家の創設・武家諸法度改定といった様々な箇所に政策を施しました。

しかし、急激な政治改革は民衆を疲弊させ、徳川家康が定めた法を変更しようとしたことから、幕閣との間に溝ができ始めます。特に朝鮮通信使の待遇変更では、白石と木下順庵のもとで学んだ対馬藩の儒学者・雨森芳洲(あめのもり-ほうしゅう)が猛反発したことにより、一時は白石が将軍侍講を辞職するまで追い込まれました。

徳川吉宗から嫌われていた?

新井白石を失脚させた徳川吉宗
出典:Wikipedia

徳川家宣が病死し、その次の江戸幕府7代将軍徳川家継が幼くして亡くなり、江戸幕府8代将軍に徳川吉宗が就任すると事態が一変します。吉宗は新井白石を将軍侍講の職から下ろし、失脚に追い込みました。

また、吉宗は白石が行った正徳の治における政策をほとんど廃止。これは白石が行った政治を否定する意味もありました。しかし、正徳の治の政策で制定した海舶互市新例と貨幣改鋳は廃止されることなく吉宗の治世でも活かされます。

吉宗のこの考えには幕臣たちも理解できず、吉宗は白石のことを嫌いと思っていました。ところが、吉宗は白石の著書を廃棄した一説があるので、白石を嫌いつつも正徳の治で行った政策は認めていたと考えられます。

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新井白石の子孫

新田氏の家紋
出典:Wikipedia

新井白石の子孫は残念ながら、いませんでした。しかし、白石の先祖は新田氏であることが判明しています。

白石は鎌倉時代の武将・新田義房の次男荒井覚義(あらい-さだよし)を祖とする新田氏傍流の血が流れています。ところが、生前の白石は覚義の兄・新田政義から成る新田氏嫡流の血が流れていると主張しました。

ちなみに白石の祖父の代で荒井から新井へ改姓しています。

新井白石の功績

功績1「 大規模な貨幣改鋳を断行した」

貨幣改鋳で使用された正徳小判
出典:古銭価値情報

徳川家宣が江戸幕府6代将軍に就任したころは、前将軍・徳川綱吉時に活躍した勘定奉行・荻原重秀(おぎわら-しげひで)が継続して勘定奉行を担っていました。重秀は幕府の財政難を変えるために金銀含有量の低い元禄金銀と宝永金銀を発行します。

これにより幕府の財政は潤いますが、物価が上昇し続けるインフレーションを招き、庶民の生活は苦しくなってしまいます。そんな中で重秀は商人から賄賂を受け取り、私腹を肥やしていました。

新井白石は重秀のやり方に怒りを覚え、重秀を極悪人と称し、政治の世界から引きずり下ろそうと画策。しまいには、重秀を暗殺してまで政界から下ろそうとしました。

白石の努力の甲斐あって、正徳2年(1712)に重秀は政界を後にします。そして、正徳4年(1714)には元禄・宝永金銀の前に発行された慶長金銀と同程度の金銀含有量のある正徳金銀を発行しました。しかし、結果的には物価が下落し続けるデフレーションを招きました。

功績2「金銀の大量流出と輸入品の国産化に努めた」

貿易制限で金銀流出を防いだ

新井白石は長崎で中国とオランダとの貿易の際、大量の金銀が輸出に使われていることを指摘。このまま貿易を続けていくと、いずれ日本の金銀が底をつくと懸念した白石は徳川家宣に貿易制限を提案し、正徳15年(1715)に貿易額を制限する海舶互市新例を制定しました。

海舶互市新例によって、中国船は年間30隻と交易額は銀6000貫まで、オランダは年間2隻と交易額は3000貫にまで制限しました。加えて、生糸や絹織物などの輸入品の国産化を推し進めました。

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功績3「数多くの著作物を残した」

新井白石が著した『折たく柴の木』
出典:コトバンク

新井白石は政界を退いた後は著作活動に精を出しました。主な著作としては白石の祖父母や両親のことや自身の人生について振り返った『折たく柴の木』、キリスト教布教のために来日した宣教師・シドッチから聞いた諸外国の歴史や地理のことをまとめた『西洋紀聞(せいようきぶん)』や日本最初の世界地理書『采覧異言(さいらんいげん)』を著しました。

また、古代史最大の謎となっている邪馬台国の位置を、大和国であることを主張した『古史通或問(こしつうわくもん)』では、日本で初めてそのようなことを本格的に論じた著書として有名です。白石は紹介した4冊の他に12冊著しており、合計で16冊の本を著作したことになります。

新井白石の人物相関図と関わりの深い人物

新井白石の人物相関図
出典:note

新井白石の主君「徳川家宣(とくがわ-いえのぶ)」

江戸幕府6代将軍・徳川家宣
出典:Wikipedia

徳川家宣は江戸幕府6代将軍です。家宣は徳川綱重の長男として寛文2年(1662)に生まれますが、母の身分が低かったため、生まれて間もなく家臣の養子となります。

しかし、綱重に男子が恵まれなかったことで世継ぎに認められ、17歳で甲府藩の藩主となりました。43歳となる宝永元年(1704)には叔父で江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の世継ぎとして正式に決まり、綱吉の養子となりました。

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そして、宝永6年(1709)には綱吉の死を契機に、48歳で6代将軍となります。しかし、その3年後の正徳2年(1712)に当時流行していたインフルエンザによって51歳で病死しました。

家宣は勉強熱心な性格で白石指導のもと、徳川家康から徳川家光が行った功績を学びました。また、綱吉の養子となり、下心を持った大名が賄賂に近い祝い品を持ってきた時はすべて受け取らなかった逸話もあることから次期将軍としての自覚を持った生真面目な性格だったことがうかがえます。

新井白石の師匠「木下順庵(きのした-じゅんあん)」

神童とも称された木下順庵
出典:Wikipedia

木下順庵は新井白石の儒学の師匠にあたる人物です。元和7(1621)に生まれた順庵は幼少のころより神童と呼ばれ、南光坊天海が弟子に欲しがるほどでした。しかし、松永尺五の弟子となり、儒学の勉強に時間を費やしました。

天和2年(1682)には徳川綱吉の侍講をつとめます。また、順庵は教育に力を入れ、白石や室鳩巣、雨森芳洲といった弟子たちは順庵の教育によって、木門十哲と呼ばれる優秀な人材を育てました。

新井白石と政治を行った「間部詮房(まなべ-あきふさ)」

側用人として徳川家宣を支えた間部詮房
出典:世界の歴史マップ

間部詮房は徳川家宣の側用人で新井白石と正徳の治を主導した幕臣です。詮房は寛文6年(1666)に生まれ、猿楽師の弟子でしたが、貞享元年(1684)に家宣の小姓となります。その後は家宣の寵愛を受け、宝永3年(1706)には若年寄となり、相模国1万石の大名にもなりました。

宝永6年(1709)に家宣が江戸幕府6代将軍となると、征夷大将軍の側近で、命令を老中らに伝える側用人として絶大な権限を持ちました。しかし、徳川吉宗が将軍になると詮房は失脚。転封先の越後国村上で病没しました。

詮房は猿楽師出身でありながら、大名になった唯一の人物でもあります。また、家宣の次の将軍・徳川家継が幼かったため、詮房が発言権を持っていました。

そのため、家継の時は詮房が実質的な最高指導者でした。これは日本史上詮房しか芸能出身者でこのような地位になったことがありません。それくらい稀なことでした。

詮房は義理堅い性格だったことから白石から信頼されていました。また、詮房も徳川家宣の死により政治の意欲を失いかけていた白石を支え、能力を引き出すことに力を尽くしたことがあり、2人は持ちつ持たれつの関係だったことがわかります。

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