新井白石とはどんな人?生涯・年表まとめ【政治改革や著書、子孫も紹介】

新井白石にまつわる逸話

逸話1「気性の荒さから火の子と呼ばれていた」

新井白石は感情の高ぶりが激しかった

新井白石は幼少のころから気性の荒い性格で、怒り出すと眉間に火の字に似たしわがでました。そのため、久留里藩主の土屋利直からは「火の子」と呼ばれ、可愛がられました。

逸話2「お金持ちの娘との縁談を全て断った」

新井白石は目先の欲を優先せず、儒学を勉強した
出典:Wikipedia

新井白石は堀田正俊死後の堀田家を後にした時、浪人となりました。聡明だった白石は商人の角倉了仁や河村通顕から縁談を持ち込まれました。

白石は好意に感謝しつつも、幼蛇の傷が今は小さくても大蛇になると成長により大きくなる例えを伝えて、両方とも断ります。一度借りを作ってしまうと、時間が経つにつれて借りが大きくなることが理由でした。

逸話3「幕臣からは鬼と恐れられてた」

新井白石は鬼として政治を主導した

新井白石が行った正徳の治は急激に政治改革を断行する内容だったので、多くの幕臣たちから反感を買いました。白石はどんなに否定されても自分の意見を曲げることなく、最終的に徳川家宣の名を出し、意見を通します。

白石の将軍を使ってでも意見を押し通す意志は幕臣たちから恐れられ、やがて白石は「鬼」と呼ばれるようになりました。

新井白石の生涯年表

明暦3年(1657)年 – 1歳「江戸で誕生」

過酷な状況の中で新井白石は生まれた

明暦3年(1657)、新井白石は明暦の大火の翌日2月10日に焼け出された避難先で生まれました。白石は3歳で父の正済が読んでいた儒学書をそっくりそのまま写したことから、幼少より非凡な才能に恵まれていました。

延宝2年(1674)-17歳「儒学の勉強に目覚める」

『翁問答』の著者・中江藤樹
出典:Wikipedia

延宝2年(1674)には江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹が道徳哲学についてわかりやすく問答形式で説いた著書『翁問答(おきなもんどう)』を読みます。この書に感銘を受けた白石はこの時より儒学の勉強を始めました。

延宝5年(1677) -20歳「主家・土屋家を追放される」

新井白石は追放後、貧しい生活をした

新井白石の父正済が仕えていた久留里藩主・土屋利直が延宝3年(1675)に亡くなると、家督は利直の長男・土屋直樹に継承されます。しかし、正済は直樹のことを主君の器と認めず、一度も会いに行きませんでした。

それにより、延宝5年(1677)に土屋家を追放されました。また、奉公構と呼ばれる他家に仕官できない罰も与えられます。

奉公構によって浪人となってしまった新井親子は、貧困の中での生活を強いられました。それでも白石は、儒学の勉強を続けました。

天和3年(1683) -26歳「堀田正俊に仕える」

大老・堀田正俊
出典:温故知新

延宝7年(1679)に土屋直樹が改易されると、新井白石は自由の身となり、天和3年(1683)に大老の堀田正俊に仕えました。しかし、翌年の貞享元年(1684)に正俊が殿中で刺殺されると、相次ぐ国替により堀田家の財政悪化を招きます。

この状況を見て白石は、自ら堀田家を後にしました。そして、再び白石は浪人となりました。

貞享3年(1686)-29歳「木下順庵に弟子入りする」

新井白石と同門だった室鳩巣
出典:Wikipedia

しばらく浪人生活を続けてきた新井白石は貞享3年(1686)に木下順庵に弟子入りします。順庵は白石のことを気に入っており、入門にかかる入学金の免除や弟子ではなく客分として扱うといった好待遇で白石を迎えました。

順庵の弟子には雨森芳洲や室鳩巣(むろ-きゅうそう)もおり、ここでの経験や出会いは白石にとって有意義なものとなりました。

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