新井白石の功績
功績1「 大規模な貨幣改鋳を断行した」
徳川家宣が江戸幕府6代将軍に就任したころは、前将軍・徳川綱吉時に活躍した勘定奉行・荻原重秀(おぎわら-しげひで)が継続して勘定奉行を担っていました。重秀は幕府の財政難を変えるために金銀含有量の低い元禄金銀と宝永金銀を発行します。
これにより幕府の財政は潤いますが、物価が上昇し続けるインフレーションを招き、庶民の生活は苦しくなってしまいます。そんな中で重秀は商人から賄賂を受け取り、私腹を肥やしていました。
新井白石は重秀のやり方に怒りを覚え、重秀を極悪人と称し、政治の世界から引きずり下ろそうと画策。しまいには、重秀を暗殺してまで政界から下ろそうとしました。
白石の努力の甲斐あって、正徳2年(1712)に重秀は政界を後にします。そして、正徳4年(1714)には元禄・宝永金銀の前に発行された慶長金銀と同程度の金銀含有量のある正徳金銀を発行しました。しかし、結果的には物価が下落し続けるデフレーションを招きました。
功績2「金銀の大量流出と輸入品の国産化に努めた」
新井白石は長崎で中国とオランダとの貿易の際、大量の金銀が輸出に使われていることを指摘。このまま貿易を続けていくと、いずれ日本の金銀が底をつくと懸念した白石は徳川家宣に貿易制限を提案し、正徳15年(1715)に貿易額を制限する海舶互市新例を制定しました。
海舶互市新例によって、中国船は年間30隻と交易額は銀6000貫まで、オランダは年間2隻と交易額は3000貫にまで制限しました。加えて、生糸や絹織物などの輸入品の国産化を推し進めました。
功績3「数多くの著作物を残した」
新井白石は政界を退いた後は著作活動に精を出しました。主な著作としては白石の祖父母や両親のことや自身の人生について振り返った『折たく柴の木』、キリスト教布教のために来日した宣教師・シドッチから聞いた諸外国の歴史や地理のことをまとめた『西洋紀聞(せいようきぶん)』や日本最初の世界地理書『采覧異言(さいらんいげん)』を著しました。
また、古代史最大の謎となっている邪馬台国の位置を、大和国であることを主張した『古史通或問(こしつうわくもん)』では、日本で初めてそのようなことを本格的に論じた著書として有名です。白石は紹介した4冊の他に12冊著しており、合計で16冊の本を著作したことになります。
新井白石の人物相関図と関わりの深い人物
新井白石の主君「徳川家宣(とくがわ-いえのぶ)」
徳川家宣は江戸幕府6代将軍です。家宣は徳川綱重の長男として寛文2年(1662)に生まれますが、母の身分が低かったため、生まれて間もなく家臣の養子となります。
しかし、綱重に男子が恵まれなかったことで世継ぎに認められ、17歳で甲府藩の藩主となりました。43歳となる宝永元年(1704)には叔父で江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の世継ぎとして正式に決まり、綱吉の養子となりました。
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そして、宝永6年(1709)には綱吉の死を契機に、48歳で6代将軍となります。しかし、その3年後の正徳2年(1712)に当時流行していたインフルエンザによって51歳で病死しました。
家宣は勉強熱心な性格で白石指導のもと、徳川家康から徳川家光が行った功績を学びました。また、綱吉の養子となり、下心を持った大名が賄賂に近い祝い品を持ってきた時はすべて受け取らなかった逸話もあることから次期将軍としての自覚を持った生真面目な性格だったことがうかがえます。
新井白石の師匠「木下順庵(きのした-じゅんあん)」
木下順庵は新井白石の儒学の師匠にあたる人物です。元和7(1621)に生まれた順庵は幼少のころより神童と呼ばれ、南光坊天海が弟子に欲しがるほどでした。しかし、松永尺五の弟子となり、儒学の勉強に時間を費やしました。
天和2年(1682)には徳川綱吉の侍講をつとめます。また、順庵は教育に力を入れ、白石や室鳩巣、雨森芳洲といった弟子たちは順庵の教育によって、木門十哲と呼ばれる優秀な人材を育てました。
新井白石と政治を行った「間部詮房(まなべ-あきふさ)」
間部詮房は徳川家宣の側用人で新井白石と正徳の治を主導した幕臣です。詮房は寛文6年(1666)に生まれ、猿楽師の弟子でしたが、貞享元年(1684)に家宣の小姓となります。その後は家宣の寵愛を受け、宝永3年(1706)には若年寄となり、相模国1万石の大名にもなりました。
宝永6年(1709)に家宣が江戸幕府6代将軍となると、征夷大将軍の側近で、命令を老中らに伝える側用人として絶大な権限を持ちました。しかし、徳川吉宗が将軍になると詮房は失脚。転封先の越後国村上で病没しました。
詮房は猿楽師出身でありながら、大名になった唯一の人物でもあります。また、家宣の次の将軍・徳川家継が幼かったため、詮房が発言権を持っていました。
そのため、家継の時は詮房が実質的な最高指導者でした。これは日本史上詮房しか芸能出身者でこのような地位になったことがありません。それくらい稀なことでした。
詮房は義理堅い性格だったことから白石から信頼されていました。また、詮房も徳川家宣の死により政治の意欲を失いかけていた白石を支え、能力を引き出すことに力を尽くしたことがあり、2人は持ちつ持たれつの関係だったことがわかります。