「遣隋使ってそもそも何?」
「遣隋使の目的や中止になった理由は?」
「聖徳太子や小野妹子は遣隋使とどんな関りがあったの?」
この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?遣隋使とは日本から隋(ずい)という王朝に派遣されていた使節団の名称です。遣隋使は7世紀の初頭に派遣され、隋から最先端の文化が日本に持ち込まれたのです。
この記事では、そんな遣隋使の目的や船の種類、中止された理由、聖徳太子、小野妹子と遣隋使の関わりなど、全てを分かりやすくについて解説します。
よく分かりづらいとされる、遣唐使との違いについても解説するのでぜひ参考にしてください。
遣隋使とは?
「遣隋使」とは、7世紀初頭(西暦600年~ 618年)の約18年間、日本が隋(ずい)へ派遣していた外交使節の名称です。「隋」とは現在の中国のあたりにあった王朝で、当時の東アジア諸国に大きな影響力を持つ強大な国家でした。
ところで、なぜ日本は隋に対して外交を行う必要があったのでしょうか?順を追って見て行きましょう。
遣隋使の目的
遣隋使の目的は、隋から最先端の文化や制度、あるいは仏教などを学び、日本を隋に負けない先進国に押し上げるためでした。
隋は広大な領土を持ち、当時のアジア地域に大きな影響力を持った先進国です。そんな大きな国である隋が海を挟んで日本の隣に存在していました。もし日本と隋の関係が悪化し隋に攻め込まれたら、日本は隋に飲み込まれてしまいます。日本は隋と対等に渡り合える強い国づくりを目指し、隋から最先端の文化や制度を吸収し国の独立を守ろうとしたのです。
また、日本は朝鮮半島に対しても影響力を持っていたため、半島での影響力をより強固にしておきたいといった思惑もありました。
行われた期間と回数
遣隋使が派遣された期間は前述の通り7世紀の初頭です。回数に関しては諸説あるものの、計3回から5回とされるのが一般的で、西暦600年に第一回の遣隋使が派遣されました。
しかし、隋の文化水準の高さや制度を当時の日本はあまり理解しておらず、第一回目の遣隋使では当時の隋の皇帝だった文帝(ぶんてい)に軽くあしらわれてしまったと言われています。一回目の遣隋使で大恥をかいてしまった日本は、より先端の文化や制度を学ぶ必要を感じたのです。
どんな船が使われていたの?
遣隋使を派遣する時には「遣隋使船」といった船が使用されていました。
遣隋使船に関してはわかっていない部分も多いのですが、遣隋使の後に派遣されていた遣唐使で使われていた「遣唐使船」とさほど変わらなかったと見られています。初期の遣唐使船は1隻に120人ほど乗って、1隻か2隻の帆船で渡海していました。
しかし、遣隋使が派遣されていたのは今から1000年以上前であり、現代と違って航海技術や造船技術が未発達な時代です。船が難破したり沈没したりするのは当たり前で、まさに命がけの渡海だったのです。
遣隋使と遣唐使の違い
遣隋使と似たような使節として「遣唐使」がありますが、遣隋使と遣唐使では派遣先の王朝や、派遣されていた年代が違っています。
遣隋使が「隋」へ使節を派遣していたのに対し、遣唐使は「唐(とう)」という王朝に使節を派遣していました。西暦618年に隋が滅ぼされて新たに唐が建国されたため、名称が遣隋使から遣唐使に変化したのです。つまり「遣隋使が終了した後に派遣されたのが遣唐使」といった認識で問題ありません。
なお、遣隋使が約18年間しか派遣されていなかったのに対し、遣唐使は約250年間もの長きにわたり派遣され続けました。
遣唐使とは?廃止された理由や使われた船、遣隋使との違いも解説
遣隋使を派遣した聖徳太子
遣隋使を派遣した人物は聖徳太子(しょうとくたいし)です。聖徳太子は第33代 推古天皇の政治を代行・補佐する役目に就いていたので、当時の日本の政治を任されていた人物なのです。聖徳太子は、日本を隋に負けない立派な国にするため遣隋使を派遣していました。
隋との対等外交を目指す
聖徳太子は遣隋使を派遣するにあたり「隋との対等な関係」を重視していました。
遣隋使を始めたばかりの頃の日本と隋では国力に大きな差があり、日本は隋に歯が立ちません。大きな力を持っていた隋は、周辺国を臣下にする政策を行っており、国力の差で考えれば日本も隋への従属が必要な状況だったのです。
しかし、聖徳太子を始めとする当時の日本は、遣隋使は派遣するものの、隋とはあくまで対等な関係を目指していました。日本の天皇と隋の皇帝は対等な立場として「日本は天皇を頂点とする独立国家である」といった意思表示を明確に持っていたのです。
隋の皇帝を激怒させた聖徳太子の国書
隋との対等な関係を目指した聖徳太子の有名な国書があります。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや(ひいずるところのてんし、しょをひぼっするところのてんしにいたす。つつがなきや)」
の一文はとても有名で、当時の隋の皇帝 煬帝(ようだい)と激怒させたと言われています。
「天子」とは隋の皇帝を指す名称なのですが、国書では「日出ずる処の天子(日本の天皇)」、「日没する処の天子(隋の皇帝)」となっています。つまり、日本の天皇と隋の皇帝をともに「天子」として、対等な関係をアピールしたのです。
日本からの国書に対し隋の皇帝 煬帝は激怒したと伝わりますが、その後も遣隋使は続行され、結果日本は最後まで隋の臣下にはなりませんでした。
遣隋使として派遣された小野妹子
遣隋使として派遣された人物は複数いますが、中でも特に有名なのが小野妹子(おののいもこ)です。小野妹子は西暦607年に渡海した2回目の遣隋使として知られ、上でご紹介した「日出ずる処の天子~」の国書を持って派遣されたのも妹子だと言われています。
なお、名前が「妹子」なので女性と勘違いされる場合があるのですが、小野妹子は男性です。
隋からの国書を紛失
小野妹子は隋の皇帝 煬帝から日本の天皇にあてた国書を持って帰国しますが、なんと途中で盗まれて紛失してしまったと言われています。国家の意思を伝える国書の紛失は大きな失態です。しかし、妹子は罪に問われなかっただけでなく、608年に3回目の遣隋使として再び海を渡っています。
小野妹子がなぜ罪に問われなかったのかに関しては様々な憶測が飛び交っているのですが、一説には激怒した煬帝からの返事があまりに酷い内容だったので、聖徳太子らと事前に話し合って「盗まれたことにした」のではないかとも言われています。ですが真相は今も不明です。
遣隋使が中止された理由
遣隋使が中止された理由は、単純に「隋が滅びてしまったから」です。
西暦600年にスタートした遣隋使ですが614年~615年の派遣が最後になり、約4年後の618年に隋が滅亡し、新たに「唐(とう)」が建国されました。以降、遣隋使は「遣唐使」と名を変えて、目的はそのままに事業が引き継がれていったのです。
遣隋使の覚え方
遣隋使は第二回が派遣された「西暦607年」で覚えるのが一般的です。第二回は小野妹子が「日出ずる処の天子~」の国書を持って行った最も有名な遣隋使です。
隋の皇帝 煬帝を激怒させたので「無礼(60)な(7)手紙で遣隋使」と覚えるのが、国書のエピソードと絡めて理解しやすいですね。あるいは、何人もの人物が海を渡って隋へ行ったので「群れな(607)して随に行きます」といった語呂合わせで覚える場合もあります。
遣隋使に関するまとめ
当時の最先端の文化や制度を学ぶために派遣されていた遣隋使。隋は大きな国家だったうえに、日本としてはあくまで「隋から学ぶ」立場だったので、隋に媚を売るような姿勢になってもおかしくありませんでした。しかし、聖徳太子を始めとした当時の日本は隋の臣下になることなく、対等な関係を主張し続けました。当時の日本は、独立国家としてのあるべき姿勢を示したと言えるのではないでしょうか。
日本はいつの時代も大陸や朝鮮半島との難しい外交に直面してきました。そして今も状況は変わっていません。聖徳太子や当時の日本が隋に示した姿勢は、現代の外交でも大いに参考になる部分があるのではないかと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。