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版籍奉還をわかりやすく解説!目的や廃藩置県との違いも簡単に紹介

版籍奉還は、明治政府が明治2年(1869)に実行した有名な政治改革です。これまで藩主が治めていた領地と領民を天皇に返したことで、天皇を中心とした中央集権国家をつくる礎となりました。

版籍奉還を主導した大久保利通
出典:Wikipedia

そんな版籍奉還ですが、

「どんな改革だったの?」
「版籍奉還と廃藩置県の違いがわからない…」
「版籍奉還で何が変わったの?」

など、疑問や悩みを抱えている方も多いはず。

この記事では明治時代の歴史に詳しい筆者が、版籍奉還の目的から廃藩置県との違い、与えた影響までわかりやすく解説します。

この記事を読み、版籍奉還を理解すれば、幕末から明治初期にかけた時代の流れを読み解けるようになりますよ。

版籍奉還とは

版籍奉還によって全て天皇に返上された
出典:Wikipedia

版籍奉還とは版(土地)と籍(人)を天皇に奉還(返上)する政治改革です。当時の日本は県と府と藩という3つの行政に分かれており、県と府は明治政府が管理していましたが、藩は依然として藩主に管理を任せていました。ちなみに県は、旧幕府領と旗本領のことを指し、藩は江戸町奉行の支配地と遠国奉行が治めていた土地のことを指します。

きっかけは藩主たちの権威喪失

近代兵器によって藩主たちの権威が下がった

版籍奉還を行った背景には、藩主たちの権威喪失が大きく響きました。戊辰戦争では、近代兵器を用いた戦いに藩主の指導力は必要なくなり、もはや肩書だけの存在に。特に主戦場となった関東と東北では農民たちの一揆が頻発し、年貢の徴収ができない状況でした。

また、江戸幕府の滅亡で、幕府が最高機関で藩は藩主が統治する旧来の支配体制である幕藩体制は崩壊します。これにより、幕府という後ろ盾がいなくなった藩主たちは藩を持つ法的根拠を失ってしまいました。そのため、天皇に領地と領民を返すことで、土地の所有権を認めてもらう目的もあり、版籍奉還が実行に移されました。

版籍奉還と廃藩置県の違い

廃藩置県の様子
出典:Wikipedia

版籍奉還とセットとして扱われることの多い廃藩置県との違いは、「藩」の支配体制の違いにあります。版籍奉還では藩がいまだに藩主が統治している状態であり、明治政府が思い描く中央集権国家の完成には少し遠い状態でした。

そして、明治4年(1871)に実行された廃藩置県により、藩が県に変わったことで、これまで藩だった土地は明治政府の支配下に置かれます。これによって明治政府の思い描いた中央集権国家が完成となりました。

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版籍奉還の語呂合わせ・覚え方

版籍奉還を主導した木戸孝允
出典:Wikipedia

明治政府が行った政治改革は多くあり、なかなか覚えにくいです。版籍奉還もその1つなので、ここでは覚えやすいよう語呂合わせをご用意しました。

「いや(18)、無垢(69)に受け入れた版籍奉還」

このように覚えるのがおすすめです。

版籍奉還を行った目的

中央集権国家の礎を作りたかった

欧米列強と太刀打ちするには中央集権国家が必要だった

明治政府はアジアに進出してきた欧米列強の植民地にならないことを第一に政治改革を行います。欧米列強に負けない国を作るためには、各地方が領民を支配する地方分権制では立ちいかないことを理解していました。

そのため、天皇を中心とした中央集権国家を作ることを念頭に置き、その第一段階として版籍奉還が実行されました。

廃藩置県の下準備

廃藩置県を行うには版籍奉還が必要だった

明治政府は中央集権国家の完成を成功させるために藩を無くすことを考えていました。しかし、いきなり藩を廃止すると行き場を失った藩主や家臣たちが明治政府に抵抗するリスクがありました。

そのため、明治4年(1871)に実行する廃藩置県に向けて、制度として緩い版籍奉還を実行することで藩主たちからの反感を買うことを防ぎます。つまり、版籍奉還は廃藩置県の下準備にあたると言っても過言ではありませんでした。

版籍奉還が与えた3つの影響

影響1:知藩事の設置

長州藩主・毛利敬親を知藩事に認めた書状
出典:おもしろきことなき世をおもぶろぐ

版籍奉還によって藩主たちは領地と領民を返すことになります。返上した藩はどうなったのかというと、天皇が藩主たちを新たに知藩事と任命し、統治しました。

藩主たちは自身が統治していた領地と領民を天皇に返したついでに、知藩事の任命と公家たちと同等の地位・華族を与えられたことで、版籍奉還に反対する藩主はいませんでした。

影響2:主従関係の崩壊

版籍奉還で全ての人民は天皇のものとなった

版籍奉還で藩主や家臣、民衆を含んだすべての人を天皇に返したことで、藩主と家臣から成る主従関係が崩壊しました。これにより、明治政府が藩内に欲しい人材がいた場合は、知藩事に申し入れなく引き抜きが行われるようになります。

影響3:給料支払い方法の変更

版籍奉還で藩主たちの収入が大きく減ることになった

版籍奉還以前の藩主たちは地方知行(じがたちぎょう)で収入を得ていましたが、版籍奉還の実行により、地方知行は廃止。その代わりに蔵米知行で収入を得る形を取りました。

さらに収入も各藩の全体収入の10分の1に定められます。また戊辰戦争で悪化した藩財政の改善を明治政府から命じられていたので、収入が多かった武士たちは大幅に減らされました。

版籍奉還を主導した人達

大久保利通

大久保利通(1830~1878)
出典:Wikipedia

大久保利通は江戸時代の幕末から明治時代にかけて活躍した武士、政治家です。文政13年(1830)に生まれた利通は元々胃が弱い体質で武芸は得意ではなく、その代わりに学問に秀でていました。そのため、弘化13年(1846)には薩摩藩の記録所書役助に任命されます。

しかし、嘉永3年(1850)に起きたお由羅騒動に巻き込まれ謹慎処分となり、貧しい生活を余儀なくされますが、島津斉彬が藩主になったことにより、謹慎が解除。再び記録所書役助に戻りました。そして、藩主が島津茂久に変わると、利通は茂久の父・島津久光に接近。

文久2年(1862)に久光を擁して京都に上り、岩倉具視と公武合体樹立に向けて力を注ぎました。ところが、慶応3年(1867)の四候会議を経て、利通は武力で幕府を倒すことを目標としました。

そして、大政奉還と王政復古の大号令により新たに明治政府が誕生し、参議に就任します。利通は明治2年(1869)に手始めに版籍奉還を実行し、参議として中央集権国家確立に向けて政治改革を起こしました。

木戸孝允(きど-たかよし)

木戸孝允(1833~1877)
出典:Wikipedia

木戸孝允は長州藩出身の武士であり政治家です。孝允と大久保利通、西郷隆盛の3人は倒幕から明治維新にかけて大きな活躍をしたことから維新の三傑と呼ばれています。

孝允は幕末だった弘化3年(1846)、13歳にして神道無念流の免許皆伝を果たした天才的な剣豪でした。しかし、元治元年(1864)に起きた禁門の変を機に孝允は潜伏生活を余儀なくされます。

その後、薩長同盟や第二次長州征伐を経て、明治政府を樹立した際、孝允は総裁局顧問として明治政府の舵取りを任されました。特に孝允は主君と家臣の主従関係から成る体制から脱却し、近代化と中央集権国家完成を目指すための主導者的立場としての役割を果たしました。

版籍奉還を実行するために孝允は長州藩の藩主・毛利敬親を説得し同意を得ます。そして、大久保利通と協力し薩摩藩からの同意を得ると、孝允は土佐藩からも同意を得ます。その後は肥前藩も同意したことにより、薩長土肥の4藩が版籍奉還を行ったことにより、多くの藩が版籍奉還に従いました。

木戸孝允とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言や子孫、死因まで紹介】

板垣退助

板垣退助(1837~1919)
出典:Wikipedia

板垣退助は土佐藩出身の武士であり政治家です。退助は土佐藩において武力で倒幕を目指した人物で、薩摩藩と薩土討幕の密約を結んでいました。

しかし、藩内では武力での討幕よりも大政奉還による倒幕を望む声が多くあり、結果的に失脚。退助は脱藩覚悟で倒幕を実行しようとしたところ、土佐藩に助けられ迅衝隊を指揮して幕府と戦いました。

退助は東北戦争で二本松藩や仙台藩、会津藩を攻略する戦果を残しました。明治政府樹立後は、大久保利通・長州藩の広沢真臣と京都円山端寮で版籍奉還について会合を行います。これにより、3藩は版籍奉還に合意、肥前藩も合意したことで明治2年(1869)に版籍奉還が実行されました。

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寺島宗則(てらしま-むねのり)

寺島宗則(1832~1893)
出典:Wikipedia

寺島宗則は薩摩藩出身の政治家で、電気通信の父と呼ばれています。天保3年(1832)に生まれた宗則は5歳になると蘭方医の養子となりました。長崎と江戸で蘭学を学んだ後、安政3年(1856)には島津久光の侍医となります。

また、英語を学んでいたことにより、文久2年(1862)に文久遣欧使節団、慶応元年(1865)の薩摩藩遣英使節団に参加。明治維新後には外交官となり、慶応3年(1867)に宗則は版籍奉還の建白書(自分の意見を伝える文書)を藩主の島津忠義に提出しました。

ちなみに、上記4名の他にも

  • 森有礼(もり-ありのり)
  • 広沢真臣(ひろさわ-さねおみ)
  • 伊藤博文
  • 吉井友実(よしい-ともざね)

などの人物も版籍奉還に関わりました。

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版籍奉還から廃藩置県までの簡単年表

慶応4年(1868)
府藩県三治制の開始
明治政府は掲げた政体書に則り、江戸幕府が直轄地としていた場所を県、江戸町奉行や遠国奉行が統治していた場所を府、藩主が統治していた場所を藩と定めました。
明治2年(1869)1月
4藩が版籍奉還に合意する
明治2年(1869)に行われた会合によって薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の4藩が版籍奉還に合意しました。ちなみにこの4藩は頭の漢字を取って薩長土肥と呼ばれています。
明治2年(1869)6月
262の藩が版籍奉還に合意する
同年1月に4藩が版籍奉還に合意したのを火きりに、262の藩が版籍奉還に合意しました。
明治3年(1870)8月
すべての藩が版籍奉還に合意する
版籍奉還が実行されてから1年後に274のすべての藩が版籍奉還に合意しました。
明治4年(1871)
廃藩置県の実施
明治政府は明治4年(1871)に東京にいる知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じます。これにより藩は県に変わり、知藩事たちは職を失い、東京への移住を命じられました。

版籍奉還に関するまとめ

今回は版籍奉還について解説しました。

江戸幕府の崩壊に伴って明治政府は欧米列強に負けない国づくりのために中央集権国家完成を目指します。その第一としての作業が版籍奉還でした。

しかし、版籍奉還では明治政府が目指す中央集権国家を作れなかったことは事実。いきなり藩主たちから土地を奪うことは、大きな反感を買ってしまうことを恐れたため、版籍奉還で緩やかに藩主と土地を離れさせていきました。そして、その地道な作業が中央集権国家完成の総仕上げとなる廃藩置県に繋がっていくのでした。

この記事を通して、版籍奉還について興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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