版籍奉還をわかりやすく解説!目的や廃藩置県との違いも簡単に紹介

板垣退助

板垣退助(1837~1919)
出典:Wikipedia

板垣退助は土佐藩出身の武士であり政治家です。退助は土佐藩において武力で倒幕を目指した人物で、薩摩藩と薩土討幕の密約を結んでいました。

しかし、藩内では武力での討幕よりも大政奉還による倒幕を望む声が多くあり、結果的に失脚。退助は脱藩覚悟で倒幕を実行しようとしたところ、土佐藩に助けられ迅衝隊を指揮して幕府と戦いました。

退助は東北戦争で二本松藩や仙台藩、会津藩を攻略する戦果を残しました。明治政府樹立後は、大久保利通・長州藩の広沢真臣と京都円山端寮で版籍奉還について会合を行います。これにより、3藩は版籍奉還に合意、肥前藩も合意したことで明治2年(1869)に版籍奉還が実行されました。

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寺島宗則(てらしま-むねのり)

寺島宗則(1832~1893)
出典:Wikipedia

寺島宗則は薩摩藩出身の政治家で、電気通信の父と呼ばれています。天保3年(1832)に生まれた宗則は5歳になると蘭方医の養子となりました。長崎と江戸で蘭学を学んだ後、安政3年(1856)には島津久光の侍医となります。

また、英語を学んでいたことにより、文久2年(1862)に文久遣欧使節団、慶応元年(1865)の薩摩藩遣英使節団に参加。明治維新後には外交官となり、慶応3年(1867)に宗則は版籍奉還の建白書(自分の意見を伝える文書)を藩主の島津忠義に提出しました。

ちなみに、上記4名の他にも

  • 森有礼(もり-ありのり)
  • 広沢真臣(ひろさわ-さねおみ)
  • 伊藤博文
  • 吉井友実(よしい-ともざね)

などの人物も版籍奉還に関わりました。

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版籍奉還から廃藩置県までの簡単年表


慶応4年(1868)
府藩県三治制の開始

明治政府は掲げた政体書に則り、江戸幕府が直轄地としていた場所を県、江戸町奉行や遠国奉行が統治していた場所を府、藩主が統治していた場所を藩と定めました。

明治2年(1869)1月
4藩が版籍奉還に合意する

明治2年(1869)に行われた会合によって薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の4藩が版籍奉還に合意しました。ちなみにこの4藩は頭の漢字を取って薩長土肥と呼ばれています。

明治2年(1869)6月
262の藩が版籍奉還に合意する

同年1月に4藩が版籍奉還に合意したのを火きりに、262の藩が版籍奉還に合意しました。

明治3年(1870)8月
すべての藩が版籍奉還に合意する

版籍奉還が実行されてから1年後に274のすべての藩が版籍奉還に合意しました。

明治4年(1871)
廃藩置県の実施

明治政府は明治4年(1871)に東京にいる知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じます。これにより藩は県に変わり、知藩事たちは職を失い、東京への移住を命じられました。

版籍奉還に関するまとめ

今回は版籍奉還について解説しました。

江戸幕府の崩壊に伴って明治政府は欧米列強に負けない国づくりのために中央集権国家完成を目指します。その第一としての作業が版籍奉還でした。

しかし、版籍奉還では明治政府が目指す中央集権国家を作れなかったことは事実。いきなり藩主たちから土地を奪うことは、大きな反感を買ってしまうことを恐れたため、版籍奉還で緩やかに藩主と土地を離れさせていきました。そして、その地道な作業が中央集権国家完成の総仕上げとなる廃藩置県に繋がっていくのでした。

この記事を通して、版籍奉還について興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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