ベルベル人が興した王朝
ズィール朝(983年~1148年)
ズィール朝はイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興したベルベル人によるイスラム王朝です。ズィール朝はファーティマ朝に仕えるベルベル人の軍人・ブルッギーン・イブン=ズィーリーがイフリーキヤの統治された際に樹立しました。
983年にファーティマ朝から独立し、木材や鉄などの資源に恵まれていたことから艦隊の造船に着手します。しかし、1140年にシチリア王国に攻撃され、シチリア王国の属国となり、1148年に滅亡しました。その後ズィール朝が支配していた土地はムワッヒド朝に奪われました。
ハンマード朝(1015年~1152年)
ハンマード朝はズィール朝の王族だったハンマード・イブン=ブルッギーンが1015年にズィール朝から独立し、現在のアルジェリア北部に樹立した王朝です。アラブ遊牧民と友好関係となったハンマード朝は、他の王朝からの侵攻をアラブ遊牧民の支援によって防いでいました。
しかし、次第にアラブ遊牧民たちが力をつけてくると、ハンマード朝は衰退。1152年にムワッヒド朝に征服されて滅亡しました。
ムラービト朝(1056年~1147年)
ムラービト朝はモロッコとアルジェリア北部、イベリア半島南部を支配したベルベル系の砂漠遊牧民・サンハージャ族をもとにして樹立された王朝です。ムラービト朝はイスラム教を受け入れ、「城塞(ラバート)に拠る人々」の意味を持つムラービトゥーンと呼ばれたサンハージャ族とイスラム教徒・イブン・ヤーシーンの子孫ヤフヤー・イブン・ウマルが1056年に興しました。
ムラービト朝は1061年に在位したユースフ・イブン・ターシュフィーンの代で最盛期を迎え、領土が大幅に拡大しました。しかし、ユースフ死後に継いだアリー・イブン・ユースフが前王のように指導力がなかったことから一気に衰退。その情勢の中で反ムラービト運動が起こるようになります。そして、1147年にムワッヒド朝に滅亡されました。
ムワッヒド朝(1130年~1269年)
ムワッヒド朝はベルベル人のマスムーダ族出身のイブン・トゥーマルトが開始したイスラム改革運動が起因となって興った王朝です。1121年にイブン・トゥーマルトはムラービト朝に対する反乱を開始し、それに従う者たちは「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれました。イブン・トゥーマルトの死後、跡を継いだアブドゥルムウミンが1130年にムワッヒドの名を用いた王朝を樹立しました。
ムワッヒド朝はこれまで他のベルベル人が興した王朝、ズィール朝・ハンマード朝・ムラービト朝を滅ぼし、マグリブ地域のほとんどを支配下に治めます。さらにはアブドゥルムウミンの跡を継いだヤアクーブ・マンスールの時代には、リビア西部まで支配下にする最大勢力圏を築き上げました。
しかし、マンスールの跡継ぎだったムハンマド・ナースィルの時代に、ナバス・デ・トロサの戦いでアルフォンソ8世が率いる十字軍に敗れると、次第に衰退。そして、1269年に新しく興ったマリーン朝に滅ぼされました。
マリーン朝(1196年~1465年)
マリーン朝はベルベル人のマリーン族が興したイスラム王朝です。この王朝は1195年にイベリア半島で起きたアラルコスの戦いで略奪を目的とした軍事行動の成果として翌年の1196年に樹立しました。
マリーン朝は1331年に在位した「モロッコの黒いスルターン」と呼ばれた11代君主アブー・アルハサン・アリーとその子で12代君主アブー・イナーン・ファーリスの代で最盛期を迎えます。しかし、2人が亡くなるとマリーン朝は衰退。
さらに王朝内で内乱が起きたことで国力回復は困難を極めました。そして、1465年にワッタース家に取って代わるように滅亡しました。
ハフス朝(1229年~1574年)
ハフス朝はムワッヒド朝のイフリーキーヤ(現在のチュニジア)の総督になったアブー・ザカリーヤーが、ムワッヒド朝がキリスト教徒の傭兵たちを雇用したことが起因となり、独立して樹立した王朝です。1249年に在位したアブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィルの代でハフス朝は発展します。
アル=ムスタンスィル死後、ハフス朝は内紛により衰退。一度は再興されるもマリーン朝やキリスト教徒といった外部勢力により、次第に弱体化していきました。そして、1534年にはバルバリア海賊団の侵攻と1574年にオスマン帝国に包囲されたことによってハフス朝は滅亡しました。
ザイヤーン朝(1236年~1550年)
ザイヤーン朝はベルベル系遊牧民ザナータ族のザイヤーン家を主体として樹立した王朝です。ザイヤーン家自体は力の弱い家でしたが、ムワッヒド朝でトレムセン(アルジェリア北西部)総督を務めていたヤグムラーサン・イブン・ザイヤーンの時代にムワッヒド朝が衰退したことで独立。1236年に新たな王朝として樹立されます。
ザイヤーン朝は1299年と1307年に2度に渡り、マリーン朝の侵攻を受けました。一度国力を回復したものの、1335年に3度目の侵攻を受けます。さらに1352年にはアラブ遊牧民が侵攻したことにより、王朝は不安定な状態でした。
そして、1509年にはスペインの属国となったザイヤーン朝は1517年にバルバロス海賊団、新興王朝のサアド朝と次々に支配者が代わる状態となります。その後、オスマン帝国がサアド朝を退けたことにより、1550年オスマン帝国の支配下となり、ザイヤーン朝は滅亡しました。