ベルベル人の歴史年表
紀元前112年-共和政ローマ帝国に服属
先史時代よりベルベル人たちはヌミディアと呼ばれるアルジェリア北東部に住んでいましたが、紀元前112年から共和政ローマ帝国の侵攻を受けることになります。この戦いはユグルタ戦争と呼ばれ、敗北したヌミディアはローマ帝国の属国となりました。
そして、ラテン語が公用語となり、キリスト教も流れたことからベルベル人のキリスト教化が進みました。
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435年-ヴァンダル王国に服属
やがてローマ帝国の衰退が進むと、フン族の侵攻によってヴァンダル人が南下。ベルベル人が住んでいた領域も征服したヴァンダル人は、その地にヴァンダル王国を樹立。ベルベル人はヴァンダル王国の公用語だったゲルマン語とラテン語を話すようになりました。
534年-東ローマ帝国に服属
534年にヴァンダル王国が東ローマ帝国に滅ぼされると、ベルベル人が住んでいた場所は東ローマ帝国が所有することになります。ギリシャ化が進んでいた東ローマ帝国での公用語はギリシャ語となり、ベルベル人も必然とギリシャ語を話しました。
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705年-イスラム帝国に服属
7世紀になると、アラブ人がベルベル人の住む領域へ侵攻。ベルベル人はアラブ人との戦いを繰り広げますが、705年にイスラム帝国に服従します。
イスラム帝国により、北アフリカにはアラブ遊牧民が入ったことにより、ベルベル人のイスラム化が起こりました。また、公用語が大きく変わり、アラビア語を公用語として話しました。
983年~1236年-ベルベル人が興した王朝が乱立する
ベルベル人は、983年にイスラム王朝だったファーティマ朝から独立し、ズィール朝を興すと、1015年にハンマード朝・1056年にムラービト朝・1130年にムワッヒド朝・1196年にマリーン朝・1229年にハフス朝・1236年にザイヤーン朝と、約250年の間で数多くの王朝を興しました。
しかし、すべての王朝がベルベル人同士で友好関係を築いたわけではなく、前の王朝衰退時に征服や滅亡を行ったことで、新たに興した王朝や独立して興した王朝ばかりでした。
1550年-オスマン帝国の支配下に置かれる
ベルベル人最後の王朝・ザイヤーン朝が1550年にオスマン帝国によって滅ぼされると、ベルベル人はオスマン帝国に服属。オスマン帝国支配下ではアラブ化が徐々に進んでいきました。
1830年以降-フランスに植民地支配される
19世紀に欧米列強が力をつけてくると、ベルベル人のいたマグリブ地域はフランスに植民地化されました。フランスの植民地となったことで公用語はアラビア語からフランス語に変わります。しかし、中には植民地化に納得しないベルベル人とアラブ人が、同じイスラム教徒であることから、一体性を持ち始めました。
1920年-第三次リーフ戦争が起こる
1920年には1859年から起きたスペイン・モロッコ戦争の一部で、最も大規模な反乱・第3次リーフ戦争が起きます。この戦争の中でアブド・アルカリームは1921年にモロッコ北部のリーフ地区でリーフ共和国を建国しました。
1926年-リーフ共和国崩壊
リーフ共和国が建国されたことで戦争が長期化します。そのため、スペイン側は戦車や航空機などの最新鋭の乗り物に加え、毒ガス攻撃を実施し、せん滅を図りました。
さらにはフランスがスペインの支援を行ったことが決定打となり、1926年に第3次リーフ戦争は終結。それにあたって、リーフ共和国も崩壊しました。
1989年-マグリブ連合の結成
1956年にフランスから独立したマグリブ地域は、1989年にヨーロッパ連合にならって、同じ文化を共有した背景からマグリブ地域の経済促進や団結を目指すマグリブ連合を結成しました。しかし、アルジェリア内部が不安定なことが足かせとなり、目立った活動はしておりません。
ベルベル人に関するまとめ
今回は、ベルベル人について解説しました。
ベルベル人は紀元前より他国や他民族の侵攻を受け、征服されることを多く経験した族種です。しかし、イスラムの文化やイスラム教を信仰したことにより、大きく発展しベルベル人による様々な王朝ができたことも事実。
そして、美男美女が多いことでも有名であるため、一度はマグリブ地域へ足を運んでみたいものです。我々日本人のことを自分たちがさらに理解することも大事ですが、ベルベル人のような世界の人々に目を向けてみると、新たな発見や日本とは違った文化を学べることがわかりました
この記事を通して、ベルベル人について興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。