「始皇帝の母ってどんな人なんだろう?」
「ドラマを見て詳しくどんな人か知りたくなった」
始皇帝は中国全土を支配し、中国史上初めて「皇帝」となった人物ですが、始皇帝の母は名を趙姫(ちょうき)といい、実は子供に負けず劣らず波乱万丈な人生を送った人物です。
非常に性欲が強く愛人がいたエピソードや、王后となってから権力を持ったために、中国歴史史上でも屈指の「悪女」といわれる人物でもあります。世界的に見てもかなりの濃い人生を送った趙姫という女性。女性ということを最大限に押し出したような彼女の人生を、この記事では様々なエピソードを踏まえつつ掘り下げて解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
始皇帝の母(趙姫)はどんな人?
中国史上初の皇帝になった息子を持つ趙姫ですが、最初から人生が順風満帆だったわけではなく、王后になった後も、多くの問題行動を起こした人物でした。そんな趙姫とはどんな人物か、人生や性格などを紹介します。
趙姫の生涯をダイジェスト
趙姫の生涯は不明な点も多く、謎に包まれています。しかしわかっている範囲で、生涯をダイジェストします。
- 紀元前280年:中国の趙国に誕生する(姓および名は不明)
- 紀元前260年代頃?:商人である呂不韋の愛人となる
- 紀元前260年:呂不韋により、秦の公子・子楚に差し出される
- 紀元前259年:政(始皇帝)を出産
- 紀元前249年:子楚が王となり王后となる
- 紀元前246年:政が秦王となり王太后となる
- 紀元前240年代頃?:愛人の嫪毐(ろうあい)と密通し子供を二人出産
- 紀元前238年:嫪毐がクーデターを起こすが失敗し、二人の子供は処刑される
- 紀元前228年:王城で死去
淫乱な女性といわれていた
史記によると、趙姫は非常に「性欲旺盛な女性」だったといいます。有名なエピソードとして、王太后になってからもあまりに性欲が強いため、嫪毐(ろうあい)という巨根の男性をあてがってもらい、関係にふけっていたそうです。
嫪毐は余興で、「自らの性器を軸に馬車の車輪をまわす」ほどの巨根の持ち主でした。趙姫は嫪毐を寵愛し、性行為に没頭し2人の子供に恵まれたといわれています。このエピソードは誇張もあるのではと考えられていますが、長らく「趙姫」というと性欲が強い女性の代名詞的な存在となっていました。
晩年は反乱に失敗し幽閉された
愛人と関係を続けていた趙姫ですが、息子の政(始皇帝)の内偵により密通が露見してしまいます。すると愛人の嫪毐が、皇帝と太后の印鑑を盗み出し反乱を画策。しかし皇帝軍に返り討ちにあい、嫪毐と二人の子供は殺害されてしまいます。
その後、趙姫は雍城(ようじょう)に幽閉されてしまいますが、後に許され王城に戻っています。その後寂しい晩年を過ごし、死因は不明ですが、紀元前228年に53歳で死去しました。
趙姫が始皇帝を産むまでの経緯
趙国の一豪族の娘だった趙姫が、どうやって秦国の王子に近づき「政」を産むことになったのか?そこには驚くようなドラマがありました。そんな趙姫が始皇帝を産むまでの経緯を紹介します。
当初、呂不韋の愛人だった
趙姫は当初、呂不韋という各国を渡り歩いて富を築いていた商人の愛人でした。そして呂不韋の戦略の駒として利用された経緯があります。
呂不韋が趙国に来ている時、趙姫はとても美しい踊り子だったといい、呂不韋の愛人となっていました。そんな時、呂不韋はたまたま趙に人質として来ていた秦国の公子・異人(後に子楚と改名)を目撃し、
「これは思いがけない品だ、仕入れておくべきだ」
と目をつけ、将来のために異人に投資することを決めたそうです。当時、異人は秦王の孫ではあったものの、兄弟は20名以上いました。その上母も寵愛を失っていたために、王位継承の可能性は限りなく低い人物だったのです。しかもこの時、秦と趙の関係が悪化。異人はその日の生活費にも困るほどだったといいます。
しかし呂不韋は彼を秦王にしようと画策。異人を売り込むために秦に赴き、異人の父・安国君の寵妃である華陽夫人に取り入り、財宝を贈り異人を養子にるすように働きかけます。結果的に成功し、異人は呂不韋を後見人として華陽夫人の養子となり、夫人の出身国「楚」に因んで「子楚」と名乗ることとなりました。