趙姫を取り巻く人間関係と相関図
趙姫を取り巻く環境は、まるでそのままドラマのような展開です。そんな歴史を彩る、良くも悪くも濃い人物たちを紹介します。
子:嬴政
秦の公主であった子楚と、呂不韋の愛人で後、子楚の妻となった趙姫の間に生まれました。しかし実の父は呂不韋だったという噂もあります。父の子楚が王位についたことから、父の死後即位しました。
王となった嬴政は、弟は母の愛人、父を引き立てた呂不韋を次々と排除していき、独裁権を敷きました。そして隣国を次々と併合していき、紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げています。
また都市伝説的な話ではあるものの、「女性不信」だったといわれています。その要因は、母の奔放な愛人関係が原因と考えられているそうです。始皇帝は母のトラウマからか、息子12人娘10人と子供も多く授かり妃も沢山いましたが、皇后と呼ばれる女性はいませんでした。
真相は歴史の闇に消えてしまいましたが、確かに自分の母が記録を改ざんされた愛人と密通し、父親が違う弟までいたなどの複雑な家庭環境は、トラウマになっても仕方がないのかもしれません。
最終的に中国を統一し「皇帝」となった嬴政は、絶対的な権力を握り巨大な国家事業など大きな足跡を残しました。しかし晩年は不老不死を望み、不老不死の薬と信じて飲んでいた水銀により死去したといわれています。
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夫:子楚・荘襄王(そうじょうおう)
中国戦国時代・秦の5代目の王であり、趙姫の夫です。太子の安国君の子として生まれますが、母の夏姫が父に気に入られていなかったために、趙国に捨て駒のように人質に取られみすぼらしい様子だったといわれています。
しかし邯鄲市で呂不韋に見出され、呂不韋の後見で趙国の社交界にデビュー。その後呂不韋の策略で、安国君の寵妃・華陽夫人の養子にしてもらい、安国君の跡継ぎに指名してもらうことに成功しました。
そしてこの頃、呂不韋が連れていた趙姫を気に入り、もらい受けています。
紀元前252年に父・安国君が王となり、子楚は太子となりました。その後1年で父が死去したため、子楚は王として即位。呂不韋が丞相、趙姫は王后、嬴政は太子となっています。そして在位5年で死去しました。
愛人:呂不韋
商人の子として生まれ、全国を渡り歩き商売をしていました。そして趙国で人質となっている異人を見出し、最終的に異人を王にすることに成功させました。また趙姫の愛人でしたが、子楚に気に入られたために、惜しみつつも差し出しています。
紀元前252年に子楚が王となると、丞相となり権力もほしいままにしました。そして子楚が死去し嬴政が王となると、仲父(叔父の意味)という称号が与えられ、ますます権力を強めたといわれています。
しかし同時にかつての愛人・趙姫と密通していましたが、自分の保身のために趙姫に愛人・嫪毐をあてがっています。その後呂不韋の思惑通り、趙姫は嫪毐に夢中となりましたが、嫪毐が反乱を起こしたために連座して罰せられています。
本来ならば処刑でしたが、今までの功績を考慮され蟄居に減刑されました。しかし再度謀反の疑いをかけられ、蜀地域への流刑が追加されてしまいます。そのため自らの末路に絶望し、服毒自殺してしまいました。
愛人:嫪毐
趙姫の愛人で、余興で自らの性器を軸に馬車の車輪を回せた人物といわれています。その巨根と精力から趙姫に気に入られ、権力を持ったといわれています。
後宮は宦官しか入れないために、髭を抜いたりして宦官の格好をし宮刑に処されたという記録をでっちあげたそうです。趙姫に寵愛を受けた嫪毐は、趙姫との間に2人の子供が生まれました。そして趙姫の影響で、長信侯と名乗り呂不韋に続く権力を持つようになります。
しかし急激な出世は評判が悪く、密告により嬴政に密通が露見。そのため反乱を企てるものの、楚の公子である昌平君と昌文君により返り討ちにあってしまいました。そして嫪毐は車裂きの刑に処され、趙姫との間の2人の子供も処刑されています。