「日露戦争ってどんな戦争なのかな?」
「歴史で習うけど詳しいことは知らない…」
日露戦争は1904年から1905年にかけて日本とロシアが戦った戦争です。満州南部や遼東半島を中心に、日本近海でも大規模な戦闘が繰り返されています。結果的に日本に大きな影響を与えた日露戦争ですが、「太平洋戦争」ほど詳しく戦争内容が知られていないのが現状です。
戦争全般が日本人にとって「深い傷」となり、あまり知られていない日露戦争ですが、なぜ起こったのかや原因などを知ることによって、私たちが今に活かせることはたくさんあります。この記事では安定しない世界情勢で、日本がロシアという大国と戦争をした経緯などを、できるだけわかりやすく解説します。そう遠くない歴史で起こった事実を、一人でも多く知って頂けたら幸いです。
日露戦争とはどんな戦争なのか?
日露戦争 | ||
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年月日 | 1904年2月6日~1905年9月5日 | |
場所 | 遼東半島・満州南部・黄海・日本海 | |
交戦国 | 大日本帝国 | ロシア帝国 |
結果 | 日本の勝利、ポーツマス条約締結 | |
戦力 | 約30万人 | 約50万人 |
損害 | 戦没:88,429名 うち 戦死傷者:55,655名 病死:27,192名 負傷者:153,584名 捕虜:1,800名 | 戦没:81,210名 うち 戦死傷者:52,623名 病死:20,000名 負傷者:164,032名 捕虜:79,000名 |
日露戦争を簡単にいうと?
日露戦争とは、朝鮮・満州の支配権をめぐって日本とロシアの間で行われた帝国主義的な戦争です。1904年に日本が旅順のロシア艦隊を攻撃したことから開戦し、翌年に日本は奉天を占領に成功。そして日本海海戦でも劇的な勝利を収め、軍事的な勝利を収めました。
そして1905年9月にアメリカのポーツマスで条約が結ばれ、日本が勝利しました。この戦いで日本は韓国の保護権が承認され、ロシアから南樺太、南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権を獲得したのです。
日露戦争が起きた背景
日露戦争は日本にとって、とても重大な戦争でした。なぜならば、日本にとって世界に名が知れた最初の戦争だったからです。
19世紀の世界は欧米列強が、各地に植民地を獲得していく帝国主義政策をとっていました。代表的なのは、
- 大英帝国(イギリス)
- ロシア帝国
- フランス
- ドイツ帝国
- オーストリア帝国
の5か国ではないでしょうか。そしてこの5国に加えて独立して間もないものの、急速に発展していったアメリカが加わっていきました。そして列強諸国はアジアにも目をつけ、領土拡大を狙っていました。特に19世紀になると、中国の国家「清」はほとんど実質割譲状態であり、日本もこのままだと国を占領されてしまうという恐怖にさらされている状態だったのです。
日本の勝因は「やる気の温度差」
日本は最終的にロシアとの戦争で、快勝とはいかないものの有利な状況で戦争を終わらせることが出来ました。どうして日本は大国ロシアに勝てたのか?それは大きく分けると2つのことが挙げられます。
一つは日本軍とロシア軍の「やる気の温度差」です。そして多分に「運」も関係しています。日本は極端に言うと、「ロシアに勝たないと国が滅びる」くらいのプレッシャーで戦いをしていました。ロシアがもしアジアに勢力を伸ばしていけば、日本もいつ攻められるかわかりません。その危機感は多くの作戦を生み出し、主要な戦いで勝利を収めることが出来たのでした。
それに対してロシア軍は、「日本を完全に見くびっていた」たために、皇帝をはじめ兵士の戦意も低かったのです。そして国内での不安定な政治情勢も影響しており、国内で「厭戦ムード」が漂っていました。そのため必死に戦いを挑んでくる日本兵の攻撃に押されてしまい、長い戦線を構えることができませんでした。
そしてもう一つは、イギリスとの同盟が良く働いた点が挙げられます。イギリスから日本は資金の調達やロシアの燃料調達の妨害を行ったりしています。そしてイギリスと同盟を結んでいた縁で、アメリカに仲介してもらい、終戦の条約を結ぶことが出来たのです。
日露戦争のきっかけや原因は?
どうして日露戦争が起こったのか?そこには、多くの事情が絡み合ってます。日露戦争の原因やきっかけをここでは紹介します。
ロシアが領土干渉してきたこと
まず日本にロシアが領土干渉してきたことが、戦争原因の1つです。1895年に日本は日清戦争で勝利し、日本は下関条約で「遼東半島(りょうとうはんとう)」を獲得しました。しかし東アジアに勢力を伸ばしたいロシアは、フランスとドイツと手を組み、遼東半島の返還要求という「三国干渉」をしてきました。
結局3国の圧力に負けて、日本は遼東半島を返還してしまいます。ロシアに遼東半島を奪われた日本では「反露」な意見が出てくるようになります。そのため「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」のスローガンの元に、対ロシアの戦争に向けて日本は軍事強化していくこととなりました。
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日露の領土交渉が決裂してしまったこと
1903年に日本とロシアは領土交渉を行っています。事の経緯を時系列に説明すると、1900年に清国が列強諸国に宣戦布告する「義和団事件」が起きました。この時にロシアは事件の鎮圧を名目に清に出兵。制圧後も満州に兵を置き続け、満州の占領を狙っていました。これに朝鮮を支配下に置きたかった日本と衝突することとなります。
1903年に日本とロシアは交渉をスタート。日本の基本方針は「ロシアの満州支配を認めるから、その代わりに日本の朝鮮支配を認めてもらえないか?」というものでした。しかしロシアの返答は、「否。朝鮮半島の南半分なら認めても良い」といったものだったのです。日本としてはこれ以上の譲歩は受け入れられず、交渉は決裂してしまいます。
日本側にとって、ロシア側の提案を飲むと実質はロシアの支配下に入るために、日本の独立も危ういと判断されました。そしてシベリア鉄道が開通すると、極東方面の兵の派遣が円滑になってしまう可能性もあり、日本の世論も完成前の開戦へと傾いていったのです。
「日英同盟」の後押しが決め手
ロシアのアジア進出を快く思っていない国が、日本以外にも1国ありました。それが大英帝国(イギリス)です。イギリスはロシアが勢力を伸ばしていることに危機感をもっていました。かつてイギリスは「栄光ある孤立」として、どこの国とも手を結んでいませんでした。
しかし20世紀に入ってからロシアが急速に勢力を伸ばし始め、イギリスだけでは東アジアに手が回らなくなっていたのです。そのため「共通の敵・ロシア」を持つ日本に接近しました。そして1902年に「日英同盟」を結んだのです。
日英同盟の条約には、「第三国が参戦してきたら、お互い参戦する」という内容が含まれていました。つまりロシアが日本と戦争するにしても、一対一で対戦すべし。もし他の国も参戦したら、イギリスは日本の味方になる」というものです。これは暗にロシアにも、「イギリスは日本の味方する」というけん制と、清国の参戦させない意味がありました。
この同盟で世界での日本への立ち位置も変わってきました。日本がイギリスと手を結ぶことは、列強諸国の仲間入りをしたような位置づけになり、日本は戦争する方向に傾いていきました。
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日本の奇襲攻撃により開戦
日本は2月6日に軍事行動を開始し、2月8日に旅順のロシア艦隊に奇襲攻撃をしかけたことにより日露戦争は開戦しました。まず2月6日に日本側は、外務省とロシア大使館でそれぞれ「国交断絶」を通知。同時に軍事行動を開始していきました。2月10日に正式に宣戦布告をしています。2月11日には大本営を設置、軍事参議院も設定され戦闘への準備を急速にすすめていました。
一方ロシアはいずれ日本と戦闘することになるとは思っていたものの、この時期に戦争すると想定しておらず、主要軍艦が旅順から離れていたりと万全の状態とはいえませんでした。また軍もヨーロッパ方面に多く在駐していたため、増援もすぐには到着する状態ではなかったのです。
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