「頼朝と義経はなぜ仲が悪かったの?」
「最終的に討たれてしまった理由は??」
源頼朝と源義経は平安末期の武将であり、両者は平家打倒の兵を挙げ、平家を滅亡させた人物です。兄である頼朝が鎌倉で指示し、弟の義経が華々しい活躍で平家を打倒、勝利へ導きました。
しかし二人は仲が悪く、最終的に義経は頼朝に討たれ死去してしまいます。なぜそのような事になったのか?この記事では、そもそも二人の関係性はどのようなものだったのか、討たれるまでの背景や対立した理由を掘り下げて解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
源頼朝と義経の関係性を家系図付きでおさらい
まずは頼朝と義経の関係を簡単におさらいしていきます。頼朝と義経は源義朝の息子であり、血縁上は異母兄弟にあたります。二人はそれぞれ離れて生活していましたが、1160年に平治の乱が勃発。父義朝が敗れ、頼朝は伊豆に流され、義経は鞍馬寺に預けられ生き別れとなりました。
そして1180年に治承・寿永の乱が起こると、頼朝が挙兵。源氏の棟梁となると、義経は兄の幕下に入ることを望み、頼朝のもとに駆けつけています。再会を果たした二人は、頼朝が鎌倉で東国の経営に専念、義経は遠征軍の指揮を執り、平家と戦を繰り広げていきました。
次第に頼朝と義経の関係は悪化していくものの、義経の活躍で平家は滅亡します。しかし二人の関係はこの頃には決定的に亀裂が生じており、最終的に義経が頼朝に対して挙兵しました。されど義経に味方するものは少なく、1189年に頼朝の圧力を受けた藤原泰衡によって殺害されてしまいます。そして頼朝は奥州藤原氏も攻め滅ぼし、1192年に征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が成立しました。
頼朝と義経はいつから仲が悪かったのか?
頼朝と義経の仲は、お互いに対する発言は記録にあまり残っていないものの、エピソードなどから客観的に見ても「仲が悪い」ようです。しかし兄弟は幼い頃から離れて暮らしており、再会したのは大人になってからです。そんな僅かな期間にどうして仲が悪くなってしまったのか?その原因から最終的に討たれてしまうまでの流れを解説します。
そもそも頼朝と義経の出会いはいつ?
頼朝と義経が対面したのは、1180年に頼朝が挙兵し平家と対戦した「富士川の戦い」の後だったといいます。実は頼朝と義経は初対面でした。
富士川の戦いで頼朝が勝利した翌日、20名程度の若い武者たちが頼朝との面会を名乗り出てきます。頼朝は部下に年恰好やどこから来たのかを尋ねさせ、聞いた情報から頼朝は、
「その者の年の頃を聞くと、陸奥にいる九郎であろう」
といい、お互いに手を取り合う「涙の対面」を果たしたと伝わっています。
そして1083年の「後三年の役」で先祖の源義家が苦戦した時、弟の源義光が朝廷警固の官職を辞して助けに来たことを引き合いに出し、
「今日ここへ来たのは、この先祖の霊に匹敵するものだ」
とし、大変喜んだそうです。ただし再会の経緯は物語や資料によってばらつきがあったりと、どこまでが本当なのかは分かっていません。頼朝と義経の間に兄弟の情があったのかは今となってはわかりませんが、源平合戦の時期に二人は対面を果たしたのです。
平家滅亡時期から頼朝は義経を嫌い始める
頼朝と義経の仲はすぐすれ違い始めていたようですが、明らかに義経を嫌った行動が増えるのは、平家滅亡が近い頃からです。特に平家滅亡後から、露骨に義経を毛嫌いする行動が見受けられるようになっていきます。
1181年に鎌倉鶴岡八幡宮で式典があった時、頼朝は義経に自らの馬を引くように命じています。すると義経が、
「しかしここには馬の下手(右側に立って引きこと)を引くものがおりませんが」
と答えたそうです。義経としては源氏のNO.2としての自負もあったのではないでしょうか。これを聞いた頼朝は、
「もしやお前はこの役は卑しい役だと考え、現を左右にして渋っているのではないか」
と返答し義経は恐怖し、頼朝の家臣とともに馬の下手を引いたという記録が残っています。これは頼朝が義経に対して他の家臣と同等に扱い、特別扱いをしないということを示したエピソードです。
最終的に頼朝に討たれる義経
また1185年に平家討伐が終わり、義経は平家の捕虜を連れて鎌倉に向かいますが、平家の捕虜だけ受け入れられ義経は鎌倉入りを許されませんでした。鎌倉郊外の腰越(現:鎌倉市)でとどめ置かれた義経は、「腰越状」と呼ばれる書状を書いています。
それでも義経の鎌倉入りは許されず、逆に連れてきた平家の捕虜を帰洛させることを命じられています。この待遇に義経は怒り、「関東において恨みを持つものがいたら、義経につくべきだ」と言い放ったそうです。これに頼朝は激怒し、所領を没収しています。
そして1189年に義経が討たれ、首を酒に浸して鎌倉に送られてきますが、首実検は腰越で行われました。首実検は御家人が行っており頼朝は見ておらず、義経は死してなお鎌倉に入れませんでした。首は白原神社に祀られたといわれていますが、一説には腰越の海に打ち捨てられたともいわれています。真実はわかりませんが、頼朝の憎悪が今も伝わってくるようなエピソードです。
なぜ源頼朝と源義経はこれほど対立したのか?
エピソードを見ていると、どうして頼朝と義経はこれほどまでに対立してしまったのだろうと感じてしまいますが、そこには育った環境や考え方の相違など色々な要因が絡み合っています。ここでは頼朝と義経が対立した理由を見ていきます。
頼朝と義経の出自が大きく違かったから
一つに、頼朝と義経の出自の違いが関係しているようです。そこで、二人の出自について見ていきます。
正室の子で鎌倉育ちの頼朝
頼朝は1147年に、源義朝の正室である熱田大宮司・藤原季憲の娘「由良御前」の長子として誕生しました。そのため早くから嫡子として育てられ、11歳の時には統子内親王の皇后宮権少進に就き、翌年には蔵人と他の兄弟よりも早く出世しています。これは母の身分が高いために、義朝の後継者とみなされていたからだと考えられています。
しかし平治の乱で父・義朝が逆賊として殺害されると、頼朝は死刑を免れたものの14歳で伊豆へ配流されてしまいます。伊豆では、常に平氏の監視付きの不遇な生活でした。つまり頼朝を一言で表すと、「嫡男だけれども田舎生活が長い人」だったのです。頼朝にはかなりの「京コンプレックス」があったと考えている研究者もいます。
後述しますが、義経は「側室の子だけれども京で比較的自由に過ごした人」でした。もしかしたら、嫡男である自分よりも都会育ちの弟が面白くない一面もあったのかもしれません。
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側室の子で京育ちの義経
義経は「常盤御前」という、源義朝の側室だった女性の子供です。常盤御前は宮中の雑仕女(召使い)という低い身分でしたが、都で一番とも言われた美貌から義朝の側室になった女性でした。義経が2歳の時に平治の乱が起こりますが、常盤御前が清盛の妾になる代わりに子供は命を助けられています。
命を助けられた義経は鞍馬寺に預けられ、16歳まで過ごしています。そのため義経は京の文化で育ち、都言葉を話していました。そして僧侶になることを嫌がり、母の再婚相手の遠縁である奥州藤原氏を頼って平泉にいきます。平泉も非常に栄えた都市であり、京風な文化が栄えていた都市でした。つまり義経は「側室の子だけれど貴族文化に長く馴染んでいた人物」だったのです。
貴族文化の生活が長かった義経は、鎌倉武士たちと折り合いが悪く、トラブルへと発展していきます。武士の基盤である鎌倉武士に馴染めなかったことも、頼朝と義経の不仲の原因と考えられています。
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義経の様々な行動が頼朝の逆鱗に触れたから
頼朝と義経は共通の「平家打倒」という目的があったために、源平合戦中は表面上あまり不仲が出ることはありませんでした。しかし平家打倒が成功すると、兄弟の仲は修復不可能になってしまっています。一方的に見える頼朝の義経に対する毛嫌いの理由は、大きく3つの理由が考えられています。
1.勝手に無断任官した
義経が頼朝を怒らせた決定的な理由の1つに、頼朝の許可なく後白河法皇から官位を貰ったことが挙げられます。頼朝は武家政権を確立するために、「朝廷から独立した人事権」を築こうとしていました。そんな頼朝の考えとは裏腹に、義経は院御厩司という院の側近がなる位を授かっています。
頼朝にとって法皇に取り入り、かつては平家が任官していた伝統的な地位に就く義経の行動は、到底許せることではありませんでした。そして警戒心の強い頼朝は、次第に義経を脅威と感じるようになったと考えられています。
2.頼朝の家臣に嫌われていた
次に義経が、頼朝の家臣から嫌われていたことが挙げられます。義経は坂東武士たちに活躍の場を与えず手柄を独り占めにしていたため、東国武士から嫌われていました。逆に朝廷と関係が良い西国武士とは良好な関係だったといい、東国武士の立場を脅かす程だったといいます。
そして頼朝の指示を仰ぐことをほとんどせずに、平家と合戦していました。頼朝にとって義経は、規律を破り命令に従わない問題児だったのです。
3.三種の神器にまつわるトラブル
決定的だったのが、義経が「三種の神器」を回収し損ねたことです。頼朝は義経たちに、三種の神器の回収を厳命していました。理由は三種の神器が揃って初めて皇位の正統性が認められており、神器なき即位をした後鳥羽天皇に対して、「取引の道具」として三種の神器を利用しようと考えていたといいます。
しかし結果として、義経は戦に夢中になるあまり神器回収がおろそかとなり、安徳天皇と共に「草薙剣」が壇ノ浦に沈んでしまいました。頼朝と義経が不仲になった一つに、こうした「義経の政治的な意図に対する欠如」があったと考えられています。義経は「戦に勝てば良い」と全て考えていた節があり、その行動が積み重なって頼朝から嫌悪されていきました。
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頼朝と義経に関するまとめ
今回頼朝と義経の関係性を解説しましたが、改めて複雑な関係性だったと感じています。育ちが違う二人には、私たちには計り知れない感情がきっと渦巻いていたのでしょう。そういったことを残ったエピソードから考えるのもまた、歴史のロマンのように感じます。