【最強の軍師】武田信玄の生涯を年表付きで解説!上杉謙信との関係は?

1567年 – 47歳「義信事件が起きる」

嫡男である義信を廃嫡する

武田義信が幽閉された東光寺(山梨県甲府市)

1560年5月に桶狭間の戦いにおいて、駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗れました。これにより、情勢が一気に転換期を迎えます。今川家当主は今川氏真に交代したものの、今川領国では、三河で徳川家康が独立するなど動揺が見られました。

信玄は義元討死の後にも今川との同盟維持を確認していますが、この頃には織田信長が信玄との関係性を模索していえる時期でした。

武田家・織田家の同盟の印として、諏訪勝頼(後の武田勝頼)の正室として、信長の養女が迎えられています。川中島の合戦や桶狭間の戦いをきっかけとして、対外情勢が変化して武田と今川の同盟関係には緊張が生じました。

その証拠として、義信事件が起きます。義信事件の経緯は詳しく残っていませんが、義信の正室は今川氏真の妹で、武田家において義信は親今川派だったとされていたことが主たる原因とされています。

10月15日には義信の教育係だった飯富虎昌が処刑、10月19日には甲府東光寺に幽閉されていた義信が自害しています。義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられています。

1568年 – 48歳「駿河を平定する」

徳川家康と一緒に駿河攻めを始める

現在も薩埵峠(さったとうげ)からは美しい駿河湾と富士山を望むことができる

信玄は12月、遠江で今川領の分割を約束していた三河の徳川家康と一緒に駿河攻めを始めました。薩埵峠の戦いで今川軍を破り、今川氏の居住地であった今川館を一時占拠します。

信玄は駿河侵攻に際して相模の北条氏康にも協力を呼びかけましたが、氏康は今川方を救援するために出兵して甲相同盟が解消されることになります。

その後、北条氏は越後の上杉氏と越相同盟を結び、武田領国へ圧力を加えようとしました。また、徳川家康と信玄は遠江領有の件で対立し、翌1569年5月に、家康は今川氏と和睦し、駿河攻めから抜けました。

この間、上洛していた織田信長と一緒に、信玄は室町幕府第15代将軍に就いた足利義昭を通じて、越後の上杉氏との和睦を試み、1569年8月には上杉氏との和睦が成立しました。

さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国の佐竹氏や下総国の簗田氏など、北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、10月には小田原城を一時的に包囲します。撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退しました。そのままの勢いで、信玄は同年末には駿府を掌握しました。

1572年 – 52歳「織田信長を討伐するために出兵」

将軍足利義昭の信長討伐の命に従い、織田信長包囲戦に加担

1572年の三方ヶ原の戦いでは、徳川方を破った信玄だったが…

信玄は、三河や遠江の領地をめぐって信長の盟友である徳川家康とは対立していたのに、織田信長自身とは外交関係が始まって以来、親族の政略結婚を通じて友好的な関係が続いていました。

1570年の段階にも、足利義昭は信長の討伐を諸家に命令していましたが、信玄は応じていませんでした。

しかし、金ヶ崎の戦いで信長が妹婿である浅井長政によって敗北したことをきっかけに、各地の反信長勢力が結託し、第一次信長包囲網が作られます。この時も、まだ信玄に動きは見られませんでしたが、同年12月、信玄の義理の弟にあたり、信長包囲網の一角も担っていた顕如から援助の要請がきました。

1571年に信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたことも、仏教に篤かった信玄はこの行為を非難しました。それらの信長の傍若無人な振る舞いを牽制しようと、信玄は信長討伐に加担することにします。

まずはじめに、信長の同盟者である徳川家康を狙って遠江に侵攻し、各地の徳川の支城を次々と攻め落としました。これらの一連の動きによって、信玄と信長の友好関係は絶たれました。

1573年 – 53歳「三河攻めを断念して甲斐に帰る途中で病死」

徳川家康に対する侵攻の道半ばで病死

江戸時代の月岡芳年の作品・信玄の最期を描いたとされる

徳川軍に対する武田の軍勢の猛進はすさまじいものだったが、1573年2月に野田城を攻め落とした後から、信玄は吐血するようになります。一説によると、1572年月の三方ヶ原の戦いの首実検の段階から、吐血していたともいわれています。

信玄の病状が芳しくなく、武田軍の進撃は突然停止することになりました。これにより、信玄は長篠城において療養していましたが、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決めます。しかし4月12日、甲斐に戻る三河街道の道中で病死します。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄は自身の死が敵陣に勢いをつけることを恐れ、遺言で「自分の死を3年間は隠すこと」や、嫡男の勝頼に対しては「信勝が継ぐまでの後見を務め、越後の上杉謙信を頼ること」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春らに後事を託したといいます。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を隠したとされています。

関連作品

武田信玄に関連するおすすめ書籍・本・漫画

武田信玄 風の巻(文春文庫)


「武田信玄」という人物を詳細に知りたいなら、まずはこの歴史小説は外せません。

山岳についての造詣が深い新田次郎氏が、甲斐国の地形や気候を細かく描写しながら描く武田信玄の人間味あふれた生涯を、読みやすい表現で描いています。

風林火山(新潮文庫)


2007年の大河ドラマになった歴史小説です。武田家の軍師・山本勘助が主人公ですが、家臣から見た主君としての信玄像が描かれています。

細かい心理描写がされてあるので、武田家に関わる人間たちが生き生きと表現されていて、名作として読み応えがあります。

武田信玄―伝説的英雄像からの脱却 (中公新書)


「戦国最強の武将」と呼ばれた武田信玄を、さまざまな史料から冷静に分析しようとしている本です。

英雄としてはなく、できる限り現実的な人物像を描くことを目標としているため、また違った武田信玄のイメージを学ぶことができます。

武田信玄に関するおすすめ書籍は以下の記事でさらに詳しく紹介しています。

【24年1月最新】武田信玄をよく知れるおすすめ本ランキングTOP13

武田信玄に関するおすすめ映画

風林火山


オススメの小説でも紹介した『風林火山』を映画化したものです。若き日の三船敏郎が主人公の山本勘助を、中村錦之介(後の萬屋金之助)が武田信玄を演じています。

勘助と出会った時の信玄は平凡な若造でしたが、戦や統治を経験する中で大きく成長していきます。立派な主君へと成長していく過程に、思わず感情移入してしまうこと間違いなしです。

影武者


武田信玄が死んだことを敵将に知られてはまずいと判断した重臣たちが、盗人を武田信玄の影武者にするというストーリー。

40年ほど前の古い映画ではありますが、映画界の巨匠・黒澤明監督の作品なので観る価値はあります。無関係な男が武田家に振り回されながらも、信玄という威光を守るために奮闘する姿に思わず心が震えます。

武田信玄に関するおすすめドラマ

武田信玄


1988年に放送されていた大河ドラマです。威厳と風格のある武田信玄を、中井貴一が見事に演じています。

放送から30年以上経っていますが、今でも人気があり、名作だったと評価されています。戦国時代の「合戦」の描写や、父・信虎との確執の様子を丁寧に描いていて、さまざまな感情や思惑が絡み合う人間ドラマが表現されています。

ストーリーを通して全体的に雰囲気が暗くはありますが、精度の高い時代考証のおかげで信玄の生涯を余すことなく味わうことができる作品です。

NHK 大河ドラマ 風林火山


こちらは2007年に大河ドラマとして放送していた作品です。主人公の山本勘助を内野聖陽、武田信玄を市川亀治郎が演じていました。

最初は信玄を敵視していた勘助が、徐々に主君として崇拝するほどの懐の深い人物として信玄は描かれています。2人の友情もとい主従関係は強く、互いに信頼しあっているのが言葉はなくとも伝わってくるほどの名演技でした。ライバルの上杉謙信を演じている、歌手のGacktも見ものです!

関連外部リンク

武田信玄についてのまとめ

武田信玄の53年間の生涯を振り返ってみると、猛将として家臣たちに慕われ、甲斐国を広く強いものにしていった指導者としての姿だけでなく、父を追放しなければならない葛藤や織田信長といった有名な武将たちとの関係に悩まされた人間としての姿が、イキイキと見えてくるのではないでしょうか。

大河ドラマや小説でも、疑いたくなるほど武田信玄は英雄として表現されていることが多いですが、群雄割拠する激動の戦国時代を生きた人物だからこそ、英雄のようなエピソードが生まれてくるのかもしれません。

武田信玄のことのみに限らず、武田家を取り囲む戦国時代の情勢変化について知りたい人は、この記事をぜひ参考にしてみてください。

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1 COMMENT

jukenn

学校の自由研究で武田信玄をテーマにしていて、歴史を全然知らない私にはとっても役立ちました!!ありがとうございます。

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