武田信玄の生涯具体年表
1521年 – 1歳「甲斐統一の最中に命を授かる」
甲斐国守護、武田信虎の息子として誕生する
甲斐では15世紀初めから有力な戦国武将が乱立していましたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌の時代からは徐々に国内統一が進み、父である武田信虎が1519年には統一を果たしました。
母親は甲斐西部の有力な領主であった大井氏の娘・大井夫人です。誕生した信玄は、太郎という幼名を与えられます。
家族構成は以下の通りです。
- 父:武田信虎
- 母:大井夫人
- 兄:竹松
- 弟:犬千代、信繁、信基(信友?)、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
- 姉妹:定恵院、南松院殿(穴山信友正室)、禰々、花光院(浦野氏室)、亀御料人(大井信為正室)、下条信氏正室、禰津神平(元直の長男)室、葛山氏室、菊御料人(菊亭晴季室)
※女姉妹についての資料が少なく、信玄との順番関係が残されていないので、姉妹としてまとめました。(定恵院だけは唯一、信玄の姉だったと記録があります)
信玄が長男だったとされることが多くありますが、兄である竹松が1523年に7歳で亡くなったことによって、信玄が嫡男になりました。
1533年 – 13歳「上杉の方を正室に迎える」
扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主の上杉朝興の娘と政略結婚
1520年代に父の信虎は扇谷上杉氏と結び、同盟関係を強化させるために扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の紹介で、山内上杉氏の上杉憲房の後室を側室に迎えました。また、さらなる同盟の強化に向けて、信玄も上杉朝興の娘である上杉の方と政略結婚しました。
政略結婚ではありましたが、2人の夫婦関係は良好だったとされています。結婚して1年で上杉の方は妊娠しました。しかし、難産だったことから、上杉の方も赤ん坊もどちらも亡くなってしまいます。
信玄は一度に2人の家族を亡くしてしまったのでした。
1536年 – 16歳「元服して名を晴信とする」
元服して名前を武田晴信にする
室町幕府の第12代将軍である足利義晴から「晴」の字をいただいて、信玄は「武田晴信」と名前を改めます。そして継室(後妻)として、左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えました。左大臣とは、朝廷の最高機関である太政官の役職の1つです。
新田次郎の歴史小説『武田信玄』やドラマの影響で、三条夫人は悪妻というイメージが植え付けられていますが、円光院の葬儀記録には、「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくて穏やかなお人柄で、信玄様との夫婦仲もむつまじいご様子でした」といった、快川和尚による記録が残っています。
また、元服した信玄の初陣は信濃国佐久郡の海ノ口城主・平賀源心攻めであったとされています。『甲陽軍鑑』では、信玄が城を一夜にして落城させたという伝承を記述していますが、英雄的な脚色ではないかと疑問視されています。
年1541 – 21歳「家臣たちと共謀して父を追放し、家督を継ぐ」
父である武田信虎を甲斐国から追放する
元服し、初陣もおさめた信玄は父の武田信虎の信濃攻めに従軍していました。しかし、6月に信濃から凱旋してきた信虎が娘婿である今川義元のところへ向かおうとした時に、板垣信方や甘利虎泰といった武田家の重臣たちの支持を受けた晴信は国境を封鎖し、父を強制隠居させようとしました。
信虎はそのまま駿河に追放され、信玄は第19代目当主となります。
父を追放した理由としては、諸説あります。1つ目は、信玄の弟である信繁のことを父が大変可愛がり、信玄のことを蔑ろにするようになったという親子不仲説。
2つ目は、今川義元との共謀説があります。どちらにせよ、武田家の重臣たちが信玄に加担したことから、信虎と信玄、家臣団との関係は悪かったとされています。
また、『勝山記』といった文献によれば、信虎は度重なる軍事行動による財源の確保で、農民などに重い負担を課していたことから、民からも信虎は疎まれていたという推察もあります。
1542年 – 22歳「【信濃国平定①】桑原城の戦い」
桑原城の戦いで諏訪領を掌握
信玄は諏訪氏の分家である伊奈の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を始めます。
諏訪頼重は武田氏へ断りを入れることなく、単独で上杉氏と講和を行い、領地の割譲を行いました。信玄はこれを盟約違反と見なし、諏訪領への侵攻を行ったと考えられています。
桑原城の戦いで諏訪家当主である諏訪頼重は、圧倒的な戦力の差を目の前にして和睦を申し入れました。和睦の条件は頼重の命を保証することでしたが、晴信はこの条件を破って頼重とその実弟の頼高を切腹させました。これにより、諏訪氏は事実上滅亡しました。
1547年 – 27歳「甲州法度之次第(信玄家法)を定める」
分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めて領国秩序の維持を明文化
信濃攻めのかたわらで、信玄は内政にも力を入れていました。「甲州法度之次第」は、当初は55ヶ条の基本法からなる分国法です。(1554年に2ヶ条追加されて、合計57ヶ条になりました)
甲州法度は上下2巻から構成されています。上巻は主に法律規定についての項目で、領国内の階級秩序や掟、国人や地頭の土地所有や年貢収取を制限し、家臣としての臣従を強制しています。また、債権や土地所有に関する条項も多く見られます。
下巻は論語・孟子など中国の古典をたくさん引用して、日常行為の規範とするべき道徳論的な家訓集となっています。
喧嘩両成敗の条項が有名ですが、これは成人の場合に限られています。13歳未満の場合、人を殺しても罪に問われることはありませんでした。山伏に関するものや、百姓や下人、奴婢に関する項目もあり、年貢の未納や郷村逃亡などを禁止していました。
1548年 – 28歳「【信濃国平定②】上田原の戦い」
上田原の戦いで村上義清に破れ、多くの重臣を失う
2月、信玄は信濃の北部を治めている葛尾城主の村上義清と上田原で激突します。当時の村上義清は猛将として有名であり、家督を相続して以来、信濃平定で連勝を続けていた信玄は、ここで初めて大敗を喫します。
敗因としては、信玄が度重なる連勝で驕っていたからとされています。
戦の最中だというのに、今回も勝ちだと踏んで油断し、武田家に長く仕えていた板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの家臣を失いました。信玄自身も負傷したので、甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたといわれています。
1550年 – 30歳「【信濃国平定②】砥石崩れ」
砥石城で村上義清に2度目の敗北
信玄は信濃中信地方の守護である小笠原長時を、塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で破ります。小笠原長時は戦意を喪失して城を放棄して、村上義清のもとに逃げ込みます。
勢いに乗った信玄は村上義清の砥石城を攻めようとしますが、ここで「砥石崩れ」と歴史に名を残すほどの敗北を経験します。砥石城は、東西は崖に囲まれ、攻めることができる場所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城でした。
崖を登ってくる武田兵に、砥石城の兵は石を落としたり煮え湯を浴びせたりして応戦していました。砥石城攻めの際の武田軍の兵力は7000人、対する砥石城の兵は500名ほどしかいませんでした。しかし、上田原の戦いで一度武田軍を退けたことによって、村上の軍勢の士気は非常に高かったとされています。
村上義清はその間に対立していた高梨氏と和睦を結び、2000人の本隊を率いて葛尾城から救援に駆けつけたため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される形になりました。
不利だと判断した信玄は撤退しようとしますが、村上軍の激しい追撃により、武田軍は1000人近い死傷者を出し、信玄自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまでいわれています。
翌年、家臣の真田幸隆の謀略によって砥石城は陥落し、村上義清は越後国主の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げ込み、信玄の信濃平定は達成されました。
1553年 – 33歳「【龍虎対決①】第1次川中島の戦い」
上杉謙信と川中島で初めて対決する
9月、武田信玄による信濃侵攻で被害をこうむった村上義清や信濃北信の豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は、本格的な信濃出兵を始めます。
この時は、景虎の軍勢に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破されます。景虎は武田領内に深く侵攻しようとしましたが、信玄は決戦を避けました。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退します。
景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼を申し上げるために上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得ました。これにより、景虎と敵対する者は賊軍ということになり、武田氏との戦いの大義名分を得ます。
1559年 – 39歳「出家して名前を「徳栄軒信玄」と改める」
2月に長禅寺の住職である岐秀元伯を導師として出家し、「徳栄軒信玄」と名前を改めました。出家の理由としては、以下が考えられています。
- 信濃国をほぼ平定したタイミングであること
- 信濃守護に補任されたことが契機であること
また、同年に相模後北条氏で「永禄の大飢饉」を背景に当主氏康が家督を嫡男の氏政に譲って徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が高いと考えられています。
信玄が信濃守護に任命されたのは、1557年に室町幕府の将軍である足利義輝に、甲越和睦の御内書が下されたことがきっかけでした。越後の上杉謙信と和睦せよという命令です。これを受諾した景虎に対し、信玄は受託の条件として信濃守護職を要求したのでした。
1561年 – 41歳「【龍虎対決②】第4次川中島の戦い」
第4次川中島の戦いで重臣たちを失う
5回にもわたったとされる川中島の戦いのうち、1561年の4回目が最大規模だったといわれています。2回目、3回目は長尾景虎の上洛による謀略もあって、そこまで大きな合戦になることはありませんでした。
合戦に至った背景としては、上杉家と北条家が長く対立していたことがきっかけとされます。
長尾景虎(上杉謙信)の養父である上杉憲政は1552年に北条氏康に破れて越後国に逃げ込みました。上洛の際に長尾景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許されます。
その大義名分を掲げ、北条氏康を討伐しようとします(小田原城の戦い)が、危機を感じた北条氏康は同盟者である武田信玄に援助を要請します。これによって、信玄と景虎の対決がまた始まったのです。
第4次川中島の戦いでは両軍とも多数の死者を出し、信玄も長く軍師として仕えてくれた山本勘助や実弟である武田信繁を失いました。
学校の自由研究で武田信玄をテーマにしていて、歴史を全然知らない私にはとっても役立ちました!!ありがとうございます。