武田信玄の名言
負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於いては天命とは思わず、みな仕様の悪しきが故と思うなり
上記の名言は、人は予想しなかった悪いことが起こると運命のせいにするが、それはやり方が悪いだけで日頃からやり方が良ければ悪いことは起きない、と言う意味です。
法の制定や治水事業など、日常に関わることに力を入れていた信玄らしい言葉ですね。
成せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ
こちらの名言は、努力すればできることであっても、最初から無理だといってやりもしないで諦めてしまうところが人の弱さだ、と言っています。自分が今やっていることよりも難しい課題を出されると、こんなのできないと諦めてしまうことがあります。
しかし、行動しなければ実際のところはわかりません。やってみたら案外できた、ということもあります。難しい課題であってもとりあえず挑戦してみると、自分の可能性が広がるかもしれません。
信頼してこそ、人は尽くしてくれるものだ
人が本当に力を発揮できるのは、信頼されているときです。人は石垣、という名言からわかる通り、信玄は信頼できる人間の集まりこそが城に匹敵する守りになると考えていました。
信玄はその人物にあった仕事を与え、こまめにコミュニケーションをとって信頼関係を築いていました。どんな仕事も、信頼されていると思うと人は意欲的にがんばれます。信頼とは、なににも勝る価値を持った財産なのかもしれませんね。
武田信玄の子孫は今も存在する?
結論から言うと、武田信玄の子孫は今も存在します。
信玄の直系は、海野家・武田家・仁科家の3家が残っています。特に海野家を継いだ子孫は公式に武田の直系と認められており、現在の当主は16代目の武田邦信氏です。なぜ、公式に直系と認められることになったのでしょうか。
話は1915年のことです。当時の天皇が、武田信玄の治水事業に対して従三位を贈ろうとしたのですが、「私こそが武田信玄の直系だ!」と名乗る家が複数でてきてしまいました。
適当に選んで従三位を送るわけにもいかないため、信玄ゆかりの地である山梨県が十数年かけて調査をしました。結果、海野家(当時の性は武田)が正統であると認め、14代目当主武田信保が従三位を受け取ったのです。
武田信玄にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「武田信玄はトイレを改良した」
武田信玄はトイレ空間が好きで、居城である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に自分専用の水洗トイレを設置したとされています。
躑躅ヶ崎館の裏から流れている水を利用したシステムで、信玄が合図を送ると、上流にいる家臣から順に水を流していくといったものでした。
また、武田家のトイレは広かったそうです。用を足している間に敵の襲撃にあうと身動きが取れずに反撃できないためでした。トイレにこもるのが好きな信玄は、そこで戦術を練ったり書状を書いたりするために、トイレ空間に机や硯を設置していたそうです。
都市伝説・武勇伝2「武田信玄は忍者を使っていた?」
武田信玄が優れた戦略を練り、先手を打って数々の合戦を勝利した理由は、彼が持つ情報量の多さだったと言われています。
一国の領主が他国のことについて、どうしてそこまで詳しく知っていたのかは、忍者を使っていたからだとされています。
武田信玄が抱えていた隠密組織は「三ツ者」と呼ばれ(武田家について詳しく書かれた史料『甲陽軍鑑』では「素破」とも書かれています)、身寄りのない子どもたちを鍛えて忍びの術を仕込み、表面上では巫女として変装させて全国に送って情報収集していたそうです。
忍者というのは漫画やアニメの世界ではなく、本当に使われていたということです。
都市伝説・武勇伝3「少年との浮気を疑われた武田信玄」
実は、武田信玄には、特別かわいがっていた少年がいました。信玄はその美少年の気をひこうとしていたのですが、ある日、弥七郎という別の少年との浮気を疑われてしまいます。
そのさい、信玄は弁明の手紙をかわいがっていた少年に送っています。
弥七郎にたびたび言い寄りましたが、お腹が痛いと言われ、なにもありませんでした。うそではありません。
弥七郎を一緒に寝かせたことはありません。以前はもちろん、昼夜続けてなんて事実無根です。特に、今夜なんて持ってのほかです。
わたしはあなたと深い仲になりたいと、いろいろ手を尽くしているのに、あなたはかえって疑います。もう、どうしたらよいのかわかりません。
最後には神に誓って真実だ、といった内容が書かれています。
信玄には多くの妻がいたため、女性が好きだったことは間違いありません。しかし、同時に浮気を疑われて必死に弁明をするほど好意を寄せた少年もいたようです。
実際にはどうだったかわかりませんが、浮気を疑われて慌てる信玄の姿は人間臭さがあって、より身近に感じますね。
武田信玄の略歴年表
母は大井氏の娘・大井夫人で、幼名は太郎と名付けられました。教育係についての記録は残されていませんが、『甲陽軍鑑』では、武田家重臣の板垣信方だったとされています。
室町幕府第12代目将軍・足利義晴から「晴」の字をもらって晴信と名乗るようになりました。
この年には、公家の三条公頼の娘・三条夫人を妻として迎えたり、信濃国佐久郡の侵攻で初陣を飾ったりして、武家の男子としての役割を立派に果たしていきます。
父・武田信虎は甲斐国をまとめあげましたが、度重なる軍事的行動によって国内の民は疲れ切っていました。自分の民を犠牲にする父の傍若無人さを理由として、家臣たちと結託して父を追放したという説です。
これを機に、信玄は第19代当主として武田家の家督を継ぎました。
家督を継いだ翌年から、信玄は隣国の信濃を侵攻し始めました。信濃諏訪領を治めていた諏訪頼重や大井貞隆、高遠頼継を短時間で打ち倒し、さらに強固な同盟関係を得るために、北条氏や今川氏と和睦します。(後の甲相駿三国同盟につながります)
途中、信濃北部を治めている村上義清に大敗を喫するという挫折はありましたが、11年かけて信濃の国を着実に平定していったのです。
信玄の信濃平定により、追い詰められた村上義清らが越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を頼み、信玄と謙信は川中島で戦うことになります。川中島の戦いは5回に分かれて繰り広げられるほど勝負がつかず、これこそ武田信玄と上杉謙信が絶好のライバルだとされている理由です。
中でも第4次川中島の戦いが最も大規模なもので、ここで信玄は弟の武田信繁や軍師の山本勘助といった重要な家臣たちを失います。
織田信長の台頭により、各国の外交情勢にも変化が訪れます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り、信玄との友好関係を持ちかけたことによって、武田家と今川氏との同盟関係に亀裂が入りました。
この流れに乗じて、信玄は今川領の分割を約束した三河の徳川家康と駿河に侵攻しました。分割の件で徳川家康とは対立し、その後家康は今川氏と和睦を結びました。
将軍・足利義昭が織田信長を討伐するように各国の武将に命令を出し、信長の勢いを良しとしなかった信玄はその呼びかけに応じます。まずは信長と同盟を結んでいる徳川家康を狙って、遠江に出兵しました。
その中で有名なのは、家康が大敗した三方ヶ原の戦い。家康は恐怖のあまり脱糞し、その屈辱を忘れないために着替えずに、しかめっ面のまま絵を描かせたと言われています。
織田信長の討伐のために出兵したあたりから、信玄はたびたび吐血するようになります。もともとの持病が悪化したため、療養のために甲斐に戻ろうとします。しかし、故郷に着く前の4月12日に道中で亡くなりました。
学校の自由研究で武田信玄をテーマにしていて、歴史を全然知らない私にはとっても役立ちました!!ありがとうございます。