源平合戦(治承・寿永の乱)をわかりやすく解説!年表や主な人物も紹介

1181年2月:平清盛死去

反平氏勢力だった奈良の興福寺を焼き討ちした
出典:Wikipedia

東国だけでなく畿内でも反平氏の勢力が活発となったために、清盛は遷都していた福原から京に戻り、軍事制圧に乗り出しました。1180年12月には、反平氏勢力だった興福寺を焼き討ちにしています。そして美濃源氏を撃破して、畿内制圧に成功。そして反平氏対策への人事を行っていきます。

しかし1181年1月に高倉上皇が崩御したために、再度後白河法皇の院政が復活。さらに2月に清盛が熱病により死去してしまい、平氏は強力な指導者を失うことになってしまいました。この頃平氏は東国への進軍を中止し、奥州藤原氏などと挟み撃ちする戦法を取ろうとしています。

日輪までも意のままにといわれた清盛も最後は熱病で壮絶な最後を遂げた
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そして清盛の死により、益々国内は乱れており、都では「養和」と元号を改めるも、頼朝など反平氏勢力は認めずに「治承」という元号を用いたりなど混乱が生じていました。この頃、平氏と源氏の和平も持ちあがるも実現せず、小競り合いを続ける状態となっています。

平清盛の死因はマラリア?インフルエンザ?有力説や最後の様子を紹介

1183年7月:木曽義仲、京へ上洛

倶利伽羅峠の合戦画
出典:Wikipedia

1183年に平氏は北陸の反乱勢力を討伐するために、平維盛・通盛が大軍を派遣します。しかし平氏軍は5月に倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗したために後退し、7月に義仲軍は延暦寺にまで到達しました。京都の防衛を断念した平宗盛は、安徳天皇や三種の神器を持ち出し西国へと都落ちしていくこととなります。

義仲軍は京に上洛しますが、期待されていた都の治安維持は上手く機能せず、大軍がいたために食糧難が起き市中で狼藉や略奪が横行しました。また、義仲は皇位継承権問題にも口出ししたために、後白河法皇の反感を買ってしまいます。

水島の戦いの舞台になった場所
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京での義仲の評判は悪く、頼朝に上洛を願う声が大きくなっていきました。9月に義仲は後白河法皇の命令で、平家追討に山陽道に向かいますが、10月に備中で起きた水島の戦いで大敗してしまいます。

1184年1月:木曽義仲死去

後白河法皇の宣旨が届き頼朝は反乱軍ではなくなった

義仲が不在の時に、後白河法皇は頼朝に使者を送っています。使者の要件は上洛を催促する内容で、この時に従五位下の位に復し流人の身分から脱しました。後白河法皇の宣旨により頼朝の東国支配は公認のものとなり、頼朝軍は反乱軍とみなされなくなったのです。

頼朝は代わりに義経を上洛に向かわせ、この情報を聞き平氏と戦闘していた義仲は京に引き返しています。11月に義経は近江まで来ていましたが、義仲は11月に後白河法皇を襲撃して幽閉してしまいました。そして法皇に迫り、頼朝討伐の宣旨を出させて、征夷大将軍に任命されたのです。

義仲の最期を描いた浮世絵
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形式として官軍となった義仲は、義経軍と宇治川で戦うも義経軍は防衛線を突破。そのまま京に入京し、法皇の身柄を確保、義仲は少数の兵を連れて逃れますが最後近江粟津で戦死しました。

1184年2月:一ノ谷の戦い

崖から降りる逆落としは伝説となった
出典:Wikipedia

義仲が滅亡するまでに平氏は体勢を立て直し、摂津福原まで戻ってきていました。この頃平氏は瀬戸内海を制して、中国・四国・九州を支配しています。そして京を奪回する計画を立てていましたが、同時期に頼朝に「三種の神器奪回と平家追討」の宣旨が出されました。

そして1184年2月に一ノ谷で、数が多く勝る平家軍に義経が奇襲をかけ勝利しています。勝因は義経が急な崖を馬で下り襲う奇襲攻撃によるものでした。そして沖合にいた平家の大将・宗盛は敗北を悟り、屋島へ向かっています。

一ノ谷の戦いとは?いつどこで起きた?戦いの経過もわかりやすく解説

1185年2月:屋島の戦い

屋島の戦いで那須与一が弓を射る画
出典:Wikipedia

一ノ谷の戦いが終わると平氏は、讃岐屋島に陣を敷き、内裏を置いていました。1184年には頼朝の弟・源範頼が攻めるも、分断と兵糧攻めにあい苦戦を強いられています。悶着を打破するために義経は、1185年元旦に後白河法皇より西国への出陣の許可を取り付け、同年2月に在地無事を味方につけて屋島を急襲。平家を追い落としました。

屋島の戦いでは、休戦時に竿の先の扇を射る余興が有名です。そこでは弓の名手と有名だった那須与一が挑戦し、見事命中させました。結局屋島の陥落により平氏は四国での拠点を失い、九州は既に源範頼に押さえられていたために彦島に孤立。義経は水軍を編制し、最後の決戦に挑むことになります。

屋島の戦いとは?いつ、どの場所で起きた?扇の的のエピソードもわかりやすく解説

1185年4月:壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦いを描いた画
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屋島の戦いの後に瀬戸内海の制海権を失った平氏は、長門に撤退します。中国地方の水軍の武士団も続々と義経に味方し、九州も範頼に制圧されたために平氏は四面楚歌に陥ってしまっていました。そんな中1185年4月に、壇ノ浦の戦いが起こります。

序盤は平氏が優勢でしたが、潮流が変わったことにより劣勢になっていきます。平氏に味方していた水軍の裏切りもあり敗色が濃くなると、平氏一門は次々と入水していきました。この時に安徳天皇は崩御、二位の尼も三種の神器とともに入水し、平家一門は滅亡したのです。

源平合戦の特徴や影響は?

多くの人が活躍し、また多くの犠牲を出した内乱となった

多くの人が犠牲となり、多くの血と涙を流した源平合戦ですが、日本の歴史を変える大きな節目となる内戦となりました。そんな源平合戦の特徴や影響はどういったものなのかを解説します。

日本最初の全国的な内乱だった

1183年時の勢力図
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源平合戦の大きな特徴は、日本で最初の全国規模の内乱となったことです。それまでの内乱は、京に近い中央地域を中心に、短期間に起こったものがほとんどでした。源平合戦では中立の立場をとった奥州藤原氏以外の全域での戦いであり、なお5年と長い戦いとなっています。

今までの朝廷は、近隣の海賊対策や僧兵対策といったものが多かったために、こういった大規模な内乱への対処ができる体制が出来ていませんでした。源平合戦で最終的に源氏方が勝利した理由には、平氏打倒のために傘下の武士に領地の安堵を保証したり、占領した土地を恩賞として与えることにより士気を高めて長期戦を乗り切ったと分析されています。

平氏は皇族や公家たちにとても気を使っていたらしい

それに対して平氏は、朝廷の有力者(皇族・公家・寺社)との兼ね合いから大胆な措置をとることは難しく、結果多くの武士が源氏に味方し平氏が苦戦することとなったのです。

鎌倉幕府が樹立し武士の天下のきっかけとなった

鎌倉殿の跡地
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大きな変化の一つが、鎌倉幕府を樹立し、武士の天下となったことです。鎌倉武士団は平家政権を排除する力を持っていることを示し、平家討伐を名目に自分たちの権利の担保を得て、中央集権から距離を置いた独立を果たすことに成功しました。

頼朝は1192年に征夷大将軍となった
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1190年に頼朝が上洛し、鎌倉幕府と朝廷の協調体制を確認。そして1192年に頼朝は征夷大将軍に就任。朝廷との協調路線を取りこととなりました。大きく歴史が動き、本格的に武士が政治を動かすようになるのは、30年後の承久の乱以降です。

源平合戦を扱った作品

超ビジュアル! 源平合戦人物大事典

ビジュアル系の絵で源平合戦を紹介してくれる本です。とても複雑で覚えにく人物たちもビジュアルを見ながら読めるので、楽しみながら覚えられます。学生にもおすすめの作品です。

人物でわかるオモシロ源平合戦 (角川ソフィア文庫)

平清盛がなぜ天下を取れなかったのか、味方だったはずの源氏と平氏が何故敵同士になったのかなどをわかりやすく説明してくれています。ひねった説はなく王道の通説を解説してくれているので、万人向けの本としてもおすすめです。

コーエー定番シリーズ 源平合戦

昔から源平合戦のゲームといえばこれ!というぐらい定番のゲームです。徴兵の上限が官位によって決めないといけなかったり、「無常」が高くなると出家してゲームからいなくなってしまうなど、源平合戦の時代が好きな人にはたまらない内容となっています。歴史好きには是非おすすめしたいゲームです!

イケメン源氏伝 あやかし恋えにし

筆者おすすめの頼朝や義経と恋愛ができる女性向けのゲームです。歴史の事実に沿いながらも、有名な武将と恋愛ができて、絵もきれいなので歴女にはたまらない作品となっています。

源平合戦に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?今回、源平合戦の執筆機会を頂いて改めて書いてみた感想は、とにかく多くの人物やドラマがある内乱だったということを感じています。この記事はあらすじのみで、詳しく解説するとかなり複雑になる内容です。

出来ればレキシルさんには多くの関連記事がありますので、そちらと併用して読むと、なお源平合戦がわかりやすくなるのではないかと思います。長い記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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