徳川秀忠の生涯年表
1579年 – 1歳「徳川秀忠が家康の三男として誕生」
側室の子として生まれる
秀忠を出産したのは、西郷局(於愛之方)と呼ばれる家康の側室です。当時家康には築山御前という正室がいました。今川家に所縁のある女性だったため、家康が今川義元を討った織田信長に味方して以降、夫婦仲には溝が生まれたと言われています。
家康は多くの側室がいたことで知られていますが、西郷局は築山御前との関係がうまくいっていない頃に家康から寵愛された女性です。家康が苦労していた浜松城主時代を支えていましたが、1589年に若くして亡くなりました。
大姥局に育てられる
秀忠には大姥局という乳母がつき、育てられました。2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では加賀まりこが演じていましたね。江に世継ぎを産めと圧力をかける姿が大迫力で話題になっていました。
大姥局は、秀忠の乳母だからといって奢らない、何事にも弁えた女性として知られています。亡くなる直前、見舞いに来た秀忠に、「流罪になっている私の子供を、私のためにと思って赦したりしないように」と言い残したそう。
こういう乳母に育てられたことで、秀忠の謙虚な性格が培われたのかもしれません。
秀忠の兄であった信康が切腹
側室の子であり、なおかつ三男として生まれた秀忠は、本来であれば家康の跡継ぎとなるはずのない立場でした。しかし秀忠が生まれたその年に、事態は大きく変わります。
家康の嫡男であった信康は、築山御前の子です。この時点で21歳。初陣も済ませ、織田信長の娘徳姫を妻に迎えていました。
当時家康は信長と同盟を結んでいました。その信長から、信康と築山御前を殺すよう命が下ったのです。
それは徳姫が、日頃の不満を父信長に訴えたことが発端でした。信康の側室に対する嫉妬や、姑にあたる築山御前に対する文句、そして築山御前と信康が武田勝頼に内通しているのではないかという疑いもあったようで、内容は十二カ条に及んだと言われています。
このほかに、信康が武将として立派に成長しているため、徳川家がこれ以上力をつけるのは恐ろしいと信長が思い、徳川の力を削ぐために信康を抹殺しようとしたという話もあります。
真相は定かではありません。しかし家康はこの信長の命令を断れるような力を持っていなかったこと、今後とも信長の庇護を受ける必要があったことから、妻と息子を諦める以外に道はなかったのです。
結果的に築山御前は殺され、信康も9月15日に切腹させられました。2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」で、この時の家康の苦悩を阿部サダヲが見事に演じていましたね。その表情や仕草を見ているだけで、胸が苦しくなりました。
1583年 – 4歳「正月の年始の挨拶に父家康と同席」
家康は秀忠を跡継ぎに考え始める
正月になると家臣たちは主君の元へ年始の挨拶に行きます。1583年の正月、家康は秀忠を並んで座らせ、共に家臣の挨拶を受けたのです。
これは家康の心中を勘繰りたくなる事態。当時、家康には1574年生まれの次男で側室お万の方の子である秀康がいました。秀忠と同じ側室の子で条件は変わらず、年齢的に言えば秀康こそ家康の跡継ぎ筆頭に挙げられるべきです。
この背景には、お万の方と家康との確執があったと考えられます。
お万の方はもともと築山御前の侍女で、家康の側室ではありませんでした。家康がお万の方に目をつけて関係を持ち、妊娠出産したことで側室となります。そういった事情から、家康はお万の方が産んだ子供が自分の本当の子供なのか怪しんでいたようなのです。
築山御前も、お万の方にいい感情を抱くはずがありません。嫉妬に狂った築山御前を見て、家臣が身籠っていたお万の方を城外に連れ出したとか、お万の方が家康の意にそぐわないことをしたために城外に出されたという史料もあります。
結局秀康は浜松城内ではなく、家臣の手引きにより別の場所で生まれました。こういった一連の出来事から、秀忠は兄秀康を飛び越し、家康の跡継ぎ候補になっていくのです。
1584〜1587年 – 5〜8歳「家康の跡継ぎとしての環境が整う」
兄秀康が豊臣秀吉の養子となる
1584年、信長の後継者争いで小牧長久手の戦いが起こります。織田信長の次男信雄と家康連合軍に対し、豊臣秀吉が争いました。この戦は講和に持ち込まれ、その証として家康は次男秀康を秀吉の養子に差し出すのです。
なぜ家康が次男の秀康を養子に出したのかはわかっていません。西郷局は1580年に四男になる忠吉も出産しており、秀康ではなく秀忠、忠吉を養子に出すことも可能だったはずです。
理由はどうあれ、養子に出された秀康は秀吉のもとで元服します。この一件で、家康が秀忠を跡継ぎに考え始めていると、周囲の者は考えるようになったでしょう。
朝日姫が義母となる
1586年、秀吉の妹、朝日姫が家康に嫁いできます。新郎新婦が40歳を過ぎているという形ばかりの結婚で、朝日姫はいわば徳川家への人質でした。秀吉は家康を臣下につけようと様々な形でアプローチしていました。この結婚もその一つです。
のちに書かれた史料では、この結婚の際、家康は秀忠を秀吉の人質として差し出さないといった約定を交わしていたとされています。ただしこれらの史料は信憑性が低く、真実はわかりません。
5月に行われたこの婚儀後も、家康は上洛して秀吉に臣下の礼をとらなかったので、秀吉は生母大政所まで人質として家康の元に送りました。家康は、これら一連の秀吉の攻勢に根負けし、上洛して臣従を示します。
秀忠が従五位下蔵人頭に叙される
1587年、家康が従二位権大納言に叙された際、秀忠も官位を賜っています。秀康も官位は授かっているものの、秀吉と養子縁組をしていて、すでに徳川家の人間ではありませんでした。
家康とともに秀忠が叙任したことは、秀忠が将来的に家康の跡継ぎという地位につくことを示唆したとも言えるでしょう。
1590年 – 11歳「秀忠、元服して徳川家の一武将になる」
秀吉の北条家討伐に対する家康の姿勢
1590年、秀吉は小田原城にいる北条氏の討伐を行います。
家康の娘、督姫が北条氏直に嫁いでいた関係もあり、家康は北条家に降伏するよう説得を続けていましたが、北条氏政、氏直親子はそれを撥ねつけます。結局、督姫は徳川家へ戻され、北条氏は秀吉に対し徹底抗戦の構えを見せました。
家康は、北条家とは縁を切ったと秀吉に言ってはいるものの、もともとは同盟関係にあったという事情を秀吉が気にするかもしれないと懸念したのかもしれません。思い切った一手を打ちました。秀忠を、人質として秀吉のもとに送ったのです。
秀忠の元服と婚約
1590年、年明けすぐに秀忠は京都の秀吉の元へ向かいました。そして秀吉の手で元服します。「秀忠」の「秀」の字は、この時に秀吉から贈られた一字と言われています。
また秀忠は、秀吉により織田信雄の娘小姫との婚約が決められました。しかし小田原攻め後、秀吉と織田信雄の不仲からこの婚約は破棄されています。
小田原攻めの際、家康が秀吉に味方するという確約のための秀忠の人質でしたが、秀吉は秀忠の元服、婚約を済ませるとすぐに家康の元へ秀忠を帰しています。
この辺りの駆け引きは、秀吉と家康の腹の探り合いのようで面白いですが、秀忠は二人にとっては将棋の駒のようなもので、いいように使われているようにも見えます。
秀忠の甲冑始めと初陣
駿府城に戻った秀忠は、家康とともに小田原攻めに参加します。初めて甲冑を身に付け、徳川家の一武将として参陣しました。
北条氏討伐は小田原城を包囲する戦でした。秀吉は大軍で城を取り囲みつつ、北条氏に味方しそうな周囲の城を次々に落とし、北条氏の戦意を喪失させ、降伏させます。
この時の秀吉側の使者が黒田官兵衛であったと言われており、2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でもその様子が描かれていますね。官兵衛役の岡田准一が、単身で刀も持たずに颯爽と小田原城を訪れるシーンは、ドラマとしても見所の一つでした。
酒井忠世が秀忠の補佐となる
酒井忠世は若い頃から家康に仕えていた徳川譜代の家臣です。
秀忠には土井利勝や内藤清成、青山忠成など、傅役や小姓のような専属の家臣がいました。しかし家康はこの年、秀忠を成人男子として考え、酒井忠世を秀忠の政治的な面を補佐させるためにつけたのです。
家康が江戸城入城
北条氏討伐が終わると、その論功行賞で家康は北条氏の遺領である関東への転封となりました。江戸城の築城と江戸の町づくりが始まります。
兄秀康が結城氏の養子に入る
家康が秀吉に臣従する証として秀吉の養子となっていた秀忠の兄秀康ですが、この頃になると家康は秀吉に従う姿勢を見せており、人質としての役割はなくなっていました。
そこで茨城県結城城を拠点とする鎌倉時代以来の名門、結城家が秀吉に養子を願い出たため、秀康は秀吉の元から結城氏へ養子に出ることになりました。結城秀康の誕生です。
この一件は家康も了承の上で進められました。これによって、秀康が徳川家に戻ることはまずないと言える状況になります。
1593年 – 14歳「家康に代わって江戸を守る」
江戸の町づくりと江戸城築城を督励
1592〜1593年にかけて、秀吉は朝鮮出兵を指示しました。文禄の役と呼ばれるものです。
敵地に近い領地の大名から順に出兵するのが当時の通例であったので、主に西国大名が渡海して朝鮮半島へ軍を進めました。家康や前田利家など東国、北陸の諸大名は前線基地となる肥前名護屋に出向き、後詰の役割を果たします。
家康は1592年に肥前名護屋へ行き、そこで年越しをしました。そのため、1593年の江戸での年始挨拶は、秀忠が担当しています。
家康の江戸不在中、榊原康政や酒井重忠、本多康重が秀忠を支えつつ、江戸城築城と江戸の町づくりを進めます。秀忠は江戸の留守居役を務めるわけです。そして家康は重臣、大久保忠隣を秀忠付きの家臣に任命しました。
家康が数多くいる息子たちの中から秀忠を跡継ぎに選ぶことが、既定路線となりつつありました。
1595年 – 16歳「小督との婚儀」
秀吉の周旋による結婚
小督は織田信長の妹、お市の方と浅井長政との間に生まれました。秀吉の側室となった淀殿と、京極高次の正室である初は、小督の姉にあたります。
秀忠と小督との結婚には、秀吉の思惑がありました。秀吉としては、淀殿の産んだ我が子秀頼を守ることが一番の目的です。自らが亡き後も秀頼を多くの人が支える環境を整える必要がありました。
2011年大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では、小督を秀吉の養女として秀忠に嫁がせていましたが、この説を唱える人もいます。こうなると秀忠は立場上秀吉の女婿です。秀頼の強力な味方になり得ます。
実際はどうあれ、秀忠と小督との結婚では、徳川家と豊臣家のつながりを深くすることで、秀頼を守ろうとした秀吉の執念にも似た感情が垣間見られます。
1597年 – 18歳「長女千姫の誕生」
小督と間に最初の子供が生まれる
秀忠と小督の間には、十年の間に三男五女の子供が生まれました。その最初の子供が千姫です。千姫はのちに秀頼に嫁ぎます。このことで後に数奇な運命をたどる姫です。
1598年 – 19歳「豊臣秀吉が他界する」
秀吉が秀忠に託したこと
秀吉は、息をひきとる一ヶ月ほど前に、諸大名に宛てて遺言のような「覚」を残しています。第1条は徳川家康宛というように、一条ずつ有力大名の名前が入っているのですが、第2条が前田利家、そして第3条が秀忠に宛てられたものでした。
秀忠の後に、宇喜多秀家や上杉景勝、毛利輝元が続いています。これは秀吉が秀忠を、小督の夫として、まるで身内のように頼りにしていた証でもあるでしょう。まだ幼い秀頼の後ろ盾として期待していたからに他なりません。
秀吉は、自らの死を秘すように側近に命じて亡くなりましたが、石田三成は家康に密かにこの事実を伝えたと言われています。家康はこの報に接し、秀忠をすぐに江戸へ帰しました。
秀吉の死去によって混乱が生じることは予想がつくので、家康は徳川家の将来のためにも、秀忠を上方に止めるのは危険と考えたからでしょう。