1599年 – 20歳「家康と石田三成の対立が表面化」
前田利家の死
秀吉亡き後、一番の実力者が家康というのは周知の事実であったと思います。それを生前の秀吉はもちろん、他にも恐れていた人は多かったでしょう。そのため秀吉は、家康は伏見城で政務を行い、利家は大坂城にて秀頼の後見をするように遺言していたのです。
しかし前田利家は死去。家康だけが突出した力を持つ状態になってしまったのです。
前田利家の死は、石田三成にも大きな影響を及ぼしました。朝鮮出兵の際の作戦や論功行賞のことで、出陣していた武将たちと軍監(目付)との間で対立が起きていました。その怒りの矛先が石田三成に向けられていたのです。それを押さえていたのが前田利家でした。
一般に、豊臣七将による三成襲撃事件と呼ばれる騒ぎは、前田利家の死去によって起こったのです。家康は、この和議を進めたことで、更に権力を握るようになりました。
珠姫誕生
この年、小督は秀忠の次女となる珠姫を出産します。珠姫は、わずか3歳で加賀藩主前田利常の正室となりました。これは前田家が徳川方につくという証の結婚でした。
珠姫は24歳という若さで亡くなりますが、驚くことに14歳の初産以来、8人もの子を利常との間にもうけています。政略結婚でしたが、夫婦仲が良かったようです。徳川家と前田家の架け橋として短い人生を駆け抜けた珠姫は、現在でも金沢の人々に愛されています。
1600年 – 21歳「関ヶ原の戦い」
上杉景勝が謀反の疑い
関ヶ原の戦いの直接の火種は、上杉景勝でした。景勝は、会津への転封間もないのを理由に1599年に会津に戻ります。会津では領内にある城の修復とともに、兵糧や武器の調達などを行っていて、それは周辺の領主たちにも知れ渡るほどでした。
この景勝の動きに対し、家康は謀反の疑いがあるとして上洛するように伝えますが、景勝は拒絶。俗に言う「直江状」で上洛をしない理由を述べるのです。
「直江状」は、景勝の家宰であった直江兼続がしたためたものです。兼続が「度々上洛しろというけれども、じゃあ領国の仕置はいつ行えばいいんですか?」といった調子で、嫌味たっぷりに、長々と書いているため、これを読んだ家康は怒り狂ったと言われています。
直江兼続といえば、2009年NHK大河ドラマ「天地人」の主人公ですね。秀吉亡き後、直江兼続が石田三成と未来を語るシーンが秀逸でした。
兼続役の妻夫木聡と、石田三成役の小栗旬が、タイミングを計って家康を討とうという算段をしているのですが、二人は心が通じ合っている友と過ごせる一瞬の幸せをかみしめているようで、結末を知っている者としては切なくなるような表情をしていました。
この後、直江状を書くシーンもありましたが、兼続が、三成を思いつつ筆を進めたであろうことがよくわかります。兼続と三成が密談したシーンはドラマの脚色であったにしても、直江状をしたためることになる兼続の心情がとてもよく理解できる展開でした。
会津討伐決定
景勝が上洛する意思がないことを確認した家康は、6月6日、諸大名を大阪城に集め、会津討伐を決めます。家康は、自分が会津討伐に行けば、きっと三成が挙兵するだろうと踏んでいたのです。それこそ家康が望んでいた決戦でした。
この時、秀忠は江戸城にいます。家康の意を受けて、出陣の準備を進めていました。武具の支度以外に、会津領への出入りを禁じる書状を北関東の武将へ送る役目も秀忠がしていました。これは戦の前の準備として必要な措置で、進軍中の家康に代わって秀忠が行っていたのです。
会津討伐へ出陣
6月18日、家康は伏見城を出発。7月2日、秀忠は品川で家康を出迎え、江戸城に入ります。7月7日、軍令が発せられ、翌8日に先鋒隊として榊原康政隊が出陣します。
徳川軍は前軍と後軍の二手に分かれていました。前軍は秀忠、後軍(本軍)は家康が司令です。榊原隊は秀忠の前軍に属しているので、まずは前軍の一部が出陣したのです。
秀忠率いる前軍は7月19日、江戸城を発ちました。総勢六万九千人余りの大軍勢で、徳川譜代の武将、井伊直政や本多忠勝、石川康長に加え、外様武将である真田昌幸や信幸、幸村、そして徳川一門の結城秀康、松平忠吉(秀忠の弟)、下野国内の領主たちが含まれます。
つまり、徳川の主要な武将はほとんど秀忠の指揮下にいたのです。
7月21日、家康が江戸城から出陣、武蔵鳩谷まで移動します。秀忠はこの日に下野小山まで進みました。家康は7月22日に岩槻城へ進み、23日に下総国古河に宿泊したところで、三成による西軍の伏見城攻撃が7月19日に始まったとの一報が入ります。
秀忠はすでに会津討伐のための前線基地とされていた宇都宮城に入っていましたが、7月24日に家康が下野小山に進んだところで、秀忠を小山に呼び戻しました。
この日、家康から伏見城からの使者(伏見城攻撃前日の7月18日、城を任されていた鳥居元忠が出した使者)が到着し、近日中の攻撃が予想されること、城は「死守」する覚悟であることを伝えます。
そして7月25日の小山評定を迎えるのです。
小山評定
小山評定は、三成率いる西軍の蜂起を受けて、このまま会津攻めを続けるか、もしくは三成討伐のために西に向かうかについて、家康が武将たちから意見を聞くものでした。
一番の問題は、大坂から従軍してきた秀吉に恩顧のある武将たちの態度にありました。そこで事前に黒田長政が、三成と戦うのであって、豊臣家には危害を加えるわけではないと豊臣系武将たちを説得しておきました。
それにより、評定の場で福島正則らが家康に味方する旨を率先して表明、軍は一気に三成方の西軍撃つべしの方向へ傾いたという話は有名ですが、史実かどうかはわかりません。
また、この場で山内一豊が、居城遠江掛川城を家康に差し出すことを申し出たことで、東海道筋にあった城が家康の手に渡り、城を守る兵も全て戦に投入できるようになります。
小山評定は、数々の大河ドラマで登場しました。
2000年の大河ドラマ「葵 徳川三代」では、評定を秀忠が仕切るも、父家康と豊臣恩顧の武将との駆け引きを呆然と見守る姿を、秀忠役の西田敏行がコミカルなほどに多彩な表情で物語っていました。
「軍師官兵衛」では、官兵衛の息子、黒田長政の活躍が描かれていましたね。官兵衛があまりに偉大すぎたために陰に隠れがちな長政ですが、ここでは家康のために大活躍し、成長した姿を松坂桃李が堂々と演じていました。
2006年の大河ドラマ「功名が辻」は山内一豊と妻千代が主人公でした。かつて命を救ってもらった家康への思いと、主君豊臣家への忠誠心とで揺れ動きつつも徳川に味方すると決断します。一豊にとって小山評定は大きな転機でした。上川隆也が一豊の覚悟を見事に表現していました。
2016年の大河ドラマ「真田丸」では、真田兄弟が敵と味方に分かれると決断した、いわゆる「犬伏の別れ」の後に小山評定が描かれました。
犬伏の別れがあまりにも辛かった(ドラマとしては屈指の名シーンでした)だけに、真田信幸が家康に味方すると伝える場面は、見ていて胸が張り裂けそうになる視聴者が多かったのではないでしょうか。信幸役の大泉洋が、役者としての力量を見せてくれた場面でしたね。
秀忠は中山道を西へ進軍
小山評定にて、会津方面への備えを残しつつ、上方への進行軍は二手に分け、家康と秀忠がそれぞれ率いることになりました。軍勢は人数的にほぼ二分する形でしたが、その内訳は大きく違っていました。
家康が率いていたのは名だたる武将よりも旗本が中心で、いわば防御的な部隊です。一方秀忠軍は、会津討伐の際に組んだ徳川の主力となる武将たちがそのまま参加している、戦闘能力の高い部隊でした。
7月26日には諸将を陣払いさせましたが、家康は小山にて上杉の押さえを監督したのち、8月5日に江戸へ戻りました。
一方、秀忠が宇都宮を発したのは8月24日です。中山道を通って西へ進軍する予定で、9月1日、軽井沢に到着しています。
家康は9月1日まで江戸に留まっていました。小山から江戸へ戻って一ヶ月あまり、家康は江戸不在中に常陸の佐竹氏などが背後から襲ってくることのないよう、入念な準備をしていたのです。
豊臣系武将たちに比べ、秀忠が宇都宮を出発した時期が遅かったのも、宇都宮城の修築など上杉に対する防衛をしっかり行うことが、三成と決戦に挑むために必要不可欠であったからだと考えられます。
家康との行き違いの不運
徳川秀忠を語る上で外せないのが「天下分け目の戦いへの遅参」でしょう。関ヶ原の戦いに間に合わなかった秀忠が、家康に怒られるというシーンは、ドラマでもよく描かれる場面です。その遅参の最大の理由が、真田昌幸、幸村親子との上田城の戦いでした。
秀忠が、西へ進軍する際に軽い気持ちで途中にあった上田城を攻め取ろうとした、とも言われますが、真田氏の居城、上田城を制圧することは当初からの目的であったという史料も残っています。家康も、それを承知していたというのです。
しかし江戸にいた家康は、福島正則や池田輝政らによって岐阜城が攻略された(8月23日)という報に接し、方針を変えます。秀忠に、江戸を9月1日に出立すること、速やかに西へ上ることを支持する使者を送ったのです。
ところがこの使者は、長雨による増水で川留めにあってしまいます。秀忠の元にたどり着いたのが9月9日でした。この日家康はすでに岡崎に到着していましたが、秀忠は上田城攻略に失敗し、小諸に滞陣していました。
上田合戦
数日遡って、9月の秀忠の動きを見てみます。9月1日に軽井沢を発した翌日、小諸に到着した秀忠は、上田城の真田昌幸に、徳川方の東軍に属すよう勧告しました。
真田昌幸は当初徳川方として会津討伐軍に加わっていましたが、下野国犬伏の地で三成から挙兵の知らせを受け、信幸だけは徳川方につき、真田昌幸と幸村は離反することを決意していました。
9月3日、講和交渉が行われます。しかしこれは昌幸の策でした。徳川軍の主力である秀忠軍を上田城に引きつけておくことが昌幸の目的であったので、元から講和する気などはなく、守備の増強に勤めています。
秀忠は榊原康政とともに、上田城攻撃をすぐに行うべきだと主張しましたが、本多正信が自重論を述べたことで取りやめになりました。
9月4日、秀忠は再度昌幸に使いを出します。ここに至って昌幸は態度を変え、開戦の姿勢を見せたので、5日、秀忠は上田城を包囲し、支城を攻略していきます。
9月6日、秀忠は上田城外の水田の稲を刈り取らせます。真田方の兵糧を奪う目的に加え、これによって上田城内の兵を挑発し、戦に持ち込もうという狙いでした。実際に刈田をしていた兵士と城内の一部の兵士が小競り合いを始めます。
それをきっかけに9月7日、秀忠軍の一部の部隊が上田城攻撃を始めました。しかし真田軍の見事な戦ぶりで秀忠軍は手酷い損害を被ります。
8日まで城攻めを続けるも、上田城は諦めて早く西へ進軍すべしという意見も出始めます。本多正信は、命令がないのに攻撃を始めた者たちに怒り、攻撃を中止させました。
9月9日、秀忠は小諸まで撤退します。軍監であった本多正信は、許可なく上田攻めを行った者たちを処分するために吟味を行っていました。この最中に家康が江戸から発した使者が到着したと言われています。使者の口上を聞き、血の気が引いた秀忠が目に浮かぶようです。
この上田合戦の責任は、もちろん大将たる秀忠にもあったでしょう。しかし、徳川四天王の一人である榊原康政をはじめ、大久保忠隣も秀忠の側にいました。軍監として本多正信もいたのです。真田の戦上手も知り抜いていたはずなのに、なぜ失敗してしまったのでしょう?
真田側が徳川方より一枚上手であったことも理由だと思います。真田昌幸と幸村の智謀が冴え渡った戦でした。
そして、本多正信は吏僚派の武将で、大久保たち武功派の武将とは相容れなかったことも理由にあるように考えられます。秀忠はまだ21歳です。戦の経験も浅く、このような老練の武将たちが出す意見を上手くまとめていくには若すぎたとも言えるのではないでしょうか。
この頃、家康が秀忠を跡継ぎに考えていたことは確かです。だからこそ秀忠に軍勢を任せ、責任を負わせたのでしょう。家康は父として、これをきっかけに息子の成長を望んだに違いありません。
しかし使者の到着が遅れた、真田が想像以上の力を発揮したなど、徳川にとっては予想外のことが重なりました。結果的に、父の期待に応えようとした秀忠の姿勢が空回りしてしまった感があります。
一般的に上田城の攻略失敗は秀忠の汚点として言われる出来事ですが、この一連の出来事を見てみると、全て秀忠の失態として考えるのは酷かもしれません。
急いで関ヶ原へ
家康が9月1日に江戸を発したことを知った秀忠は、直ちに西へ進軍することを決めます。一部の大名の兵は上田城対策で残し、9月10日に小諸を出発します。
西上するにあたり、上田城からの追撃の可能性があるため、中山道の本道である和田峠を避けて古道を進まねばならず、進軍が遅れます。また、雨が多かったことも秀忠軍の動きを阻みました。
9月14日、秀忠が藤堂高虎に宛てた手紙が残っています。夜中も行軍して急いで向かっているという内容ですが、秀忠がとても焦っている様子が文章に表れています。「お察しください」という文言が哀れなほどです。
秀忠軍は9月15日に馬籠に到着します。この日、秀忠軍の到着を待たず、関ヶ原で戦の火蓋が切られました。
苦悩する家康
秀忠軍が遅れていることを家康が知ったのは、9月11日、清洲城に到着する頃でした。この日の夜、藤堂高虎が家康と密議をした記録があるので、これを受けて高虎が秀忠に手紙を送り、秀忠がその返信を書いたのが9月14日だったと思われます。
家康は本多忠勝と井伊直政を呼び、今後の作戦を協議します。徳川の主力である秀忠軍を待って決戦に及ぶべきかということです。
家康の元で先陣が勤められる部隊は、井伊直政と松平忠吉が率いる六千あまりの軍勢のみでした。本多忠勝の軍勢は、息子忠政が率いて秀忠軍に属していたのです。
戦の機は熟していました。豊臣系武将たちは開戦を今や遅しと待っています。数々の戦を経験してきた家康は、戦のタイミングが勝敗を左右することをよく理解していたはずです。
一方、徳川の主力を欠いた状態で開戦すれば、東軍は豊臣系の武将たちばかりであるため、彼らから戦のあとに何か言われるかもしれないという危惧もあったでしょう。
家康は9月12日、風邪と称して清州に滞在しています。秀忠の到着をぎりぎりまで待ちたいという気持ちもあったと思います。家康がどれだけ悩み抜いたかがわかる「風邪」です。
関ヶ原の戦いの後の秀忠
関ヶ原の戦いは9月15日に行われました。そして、その日のうちに家康率いる東軍の勝利で幕を閉じました。
この戦の知らせを秀忠が受け取ったのは、9月17日、妻籠宿に到着した時でした。秀忠は、とにかく家康と合流するべく先を急ぎます。事情はともかく、大切な戦に遅れたのは事実なので、秀忠としては家康から何を言われるか、気が気でない日々だったでしょう。
秀忠は9月20日、大津城にいる家康にようやく追いつきます。すぐに面会を求める秀忠に、家康は気分がすぐれないからといって会おうとしませんでした。この辺りの事情については、史料によって内容がまちまちで、はっきりしたことがわかりません。
家康が本当に疲れていて体調が悪く、秀忠と会えなかっただけで、秀忠の遅参を怒ってたわけではないという説もあります。
一方、榊原康政や本多正純がとりなしたことで、秀忠が家康と面会できたという説もあります。
本多正純は本多正信の息子ですが、事の次第を聞き、今回の遅参は正信の科であって秀忠は悪くないと主張したというのです。榊原康政説は、家康が秀忠に、関ヶ原の戦いの日取りを知らせていなかったのが問題だと、家康を説得したというものです。
それ以外にも、戦いに間に合わなかったことではなく、とにかく家康に追いつこうと隊列もまばらに駆けつけた秀忠の軍の統率力の欠如に家康が怒ったという説もあります。
理由はいろいろあったにせよ、秀忠は天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いに遅れました。それが家康にとって痛手であったことは事実です。
しかしこの一件が秀忠の跡継ぎとしての地位に影響することはありませんでした。それが全てを物語っているように思います。家康は、秀忠に全面的に非があるとは思っていなかったのでしょう。
関ヶ原の戦いの後、家康が家臣たちに、後継者としてふさわしいのは誰かと尋ねたという逸話が残っています。これは、家康の性格からして、自分では秀忠を跡継ぎに考えているものの、皆の考えを聞いて決断したように見せるパフォーマンスだったと思われます。
家臣たちの意見を聞いた上で家康は、秀忠を跡継ぎにすると公言しました。家康が、武勇よりも自分の意思を受け継ぐ姿勢を大切にする者を跡継ぎに考えていること、そしてそれが秀忠であることを示したのです。