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徳川秀忠とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因も解説】

1601年 – 22歳「父親としての秀忠」

珠姫の輿入れ

前田利常

かねてより婚約が済んでいた前田利常と秀忠の次女珠姫との婚儀が行われました。珠姫は3歳で加賀へ輿入れします。まだ幼い姫を遠く離れた加賀へ行かせることに、秀忠も小督もかなり心を砕いたと思われます。

珠姫には300人ものお供が付き従います。彼らは加賀で江戸町を作り、住んでいました。珠姫亡き後、お供の者たちは江戸へ戻りましたが、その跡地に作られたのが日本三大名園の一つとなっている現在の兼六園です。

勝姫生まれる

秀忠の三女勝姫は10歳で結城秀康の嫡男、松平忠直に輿入れしました。福井藩主です。松平忠直は、大坂夏の陣で真田幸村を討ちとるという武功を上げるものの、所領の加増がなかったために幕府に不満を持ち、乱行狼藉が目立つようになります。

松平忠直

家臣の成敗のみならず、正室勝姫へ斬りかかり、とっさに庇った二人の女中が殺されるという事件も起こしています。

気の強い女性であったと言われる勝姫ですが、このような夫を支える妻は精神的にも強くないと務まらなかったでしょう。

なお、芥川賞、直木賞を作ったことでも知られる小説家、菊池寛の出世作とも言われる「忠直卿行状記」は、松平忠直が主人公です。

長丸の誕生

史料では、1601年もしくは1602年に秀忠の長男となる長丸が生まれたとあります。

長丸の生母が誰なのか、はっきりしていません。小督という説もありますが、勝姫や初姫の出産時期が近いこと、徳川家の長男に代々つけられている幼名「竹千代」がついていないことから、産んだのはおそらく奥女中の一人であったと考えられます。

長丸はわずか2歳で夭折しているせいで、残念ながら史料がほとんどありません。

1603年 – 24歳「江戸幕府が開かれる」

家康が征夷大将軍に、秀忠が右近衛大将に任じられる

家康が征夷大将軍に着任

関ヶ原の戦いで家康率いる東軍は勝利し、豊臣家の力は削ぐことができましたが、秀吉の遺児、秀頼は健在であり、家康はあくまでの秀頼の後見役でした。秀頼が成人した暁には、家康は身を引いて秀頼の世になるだろうと思っている人もいたはずです。

その状況が変わったのが1603年の、家康への将軍宣下です。家康が征夷大将軍に補任されたことで、秀頼の後見役ではなく、江戸幕府が開府し、新たな政権が立ち上がることになったのです。

秀忠はこの年、権大納言兼右近衛大将に任官します。これは源頼朝も任官したものであり、将来的に家康の後を継いで秀忠が「二代将軍」になることを明確にしたものでした。

秀頼と千姫の結婚

豊臣秀頼

家康は、将軍宣下を受けることで、豊臣側からの反発が起きることを予測していたと思われます。そのための対策として採られたのが、秀忠の娘千姫と秀頼の結婚です。淀殿が、これで徳川が秀頼の後ろ盾になってくれると考えたとしても、不思議ではありません。

この時点で、秀忠や小督がどの程度家康の意図を理解していたか定かではありませんが、いつの日か豊臣とは敵対する日が来るかもしれないという危惧はあったでしょう。そして、それを豊臣側に悟られてはならないという気持ちもあったはずです。

秀頼と千姫の婚儀は大坂城で行われたのですが、小督は身重の身体にもかかわらず江戸を出て千姫に付き添っています。

実の姉である淀殿に会いたい思いもあったでしょうし、まだ7歳の千姫に付き添いたい母の気持ちも理解できますが、ほぼ臨月に近い小督が江戸から大坂まで行ったのは、その裏に、淀殿を安心させるための徳川の策略もあったのではと深読みしたくなります。

浅井三姉妹の像(向かって左より茶々、江、初)

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では、この千姫の婚礼で、京極に嫁いでいた初も含め、淀殿と小督の浅井三姉妹が再会するシーンがありました。これが三人で会うことのできた最後です。

この三姉妹は時代の波に翻弄され続けた一生でしたが、それであればこそ、このように再び会える日があったのであれば、どれだけ嬉しかったであろうと考えてしまいます。

再会したかどうか、史実はわかりません。しかし小督としては、身重ではあるけれども二人の姉にどうしても会っておきたい、今しかもうチャンスがないと思って大坂へ行ったのかもしれないですね。

初姫生まれる

小督は大坂で四女となる初姫を出産しました。初姫は1606年、若狭小浜藩主京極忠高に嫁ぎます。京極家は小督の姉、初が嫁いでいた家でした。しかし初姫と忠高は不仲であったようで、初姫が29歳で病により亡くなった際、忠高は相撲見物をしていたとか。

初姫の葬儀は京極家ではなく徳川家よって行われ、徳川家の寺院に葬られました。父秀忠や弟家光は、初姫の最期を不憫に思い、京極氏が葬儀に参列することすら許さなかったようです。

1604年 – 25歳「秀忠の将軍見習い期間」

江戸城を守る秀忠

1603〜1604年にかけて、家康は常に江戸にいたわけではなく、伏見との間を行き来しています。その間、江戸を守っていたのは秀忠でした。徐々に秀忠は、家康に代わって行う仕事が増えていきます。

街道整備に着手

秀忠は1604年、街道整備を企画します。東海道と中山道、北陸道を統括して掌握しようと、一里塚を築かせたのです。1601年に家康が東海道に伝馬制度を設けていますが、そこから発展させ、秀忠が独自に街道整備の必要を思い立ち、推し進めたのです。

また、1604年に黒田如水が亡くなると、弔問を送ったのは秀忠でした。この時期の政治的な仕置について書かれた文書には、家康の文書だけではなく、秀忠の添え状も出されていることが多いです。

1604年に書かれた史料からは、家康が意識的に秀忠へ権限を委譲していたことがわかります。

家光の誕生

1604年は秀忠と小督の間に、待望の男の子が生まれた年です。幼名は竹千代、のちの三代将軍家光です。

家光には傅役として青山忠俊、内藤清次、酒井忠利らがつきます。そして乳母としてお福(春日局)がつきました。

お福といえば、1989年の大河ドラマ「春日局」の主人公です。大原麗子が演じた春日局は、ただ強いだけではない、女性らしいしなやかさもあって、キャリアウーマンの見本のような女性でした。

家光は江戸幕府の職制の整備や将軍権力の確立、鎖国の完成と沿岸防備など、今後200年以上続く江戸幕府の基礎を築いた将軍として知られています。 

1605年 – 26歳「秀忠が二代将軍の座につく」

家康と秀忠の上洛

秀忠が二代将軍の座につく

正月を江戸城で迎えた家康でしたが、年明け早々上洛します。そして2月24日、秀忠も江戸城を発ちました。この時率いた供は十万もしくは十六万と言われる大軍勢並みの規模でした。

これは家康が私淑していた源頼朝の上洛の先例に習ったと考えられます。1603年、秀忠が権大納言兼右近衛大将に任官したのも、頼朝が同じ任官をして鎌倉幕府を開いたという縁起の良いものだと捉えていたからと言われています。

秀忠に付き従った大名たちは、ほとんどが江戸城より東、北側の大名です。徳川が江戸に拠点を置くようになって以降、主に江戸城で政務をとっていたのは秀忠であったことからも、東国方面の大名は秀忠が管轄し、西側の大名は家康が管轄していたのかもしれません。

3月21日、秀忠が伏見城に到着します。そして4月7日、家康は朝廷に将軍職を秀忠に譲る旨を奏請するのです。

秀忠の将軍宣下

4月16日、後陽成天皇により秀忠は征夷大将軍に任じられました。徳川氏が政権を世襲することを世に知らしめた出来事でした。

後陽成天皇

なぜこの時期に家康が秀忠に将軍職を譲ったのかについては、確かな史料がありません。
しかし考えられるのは、家康がまだ目の黒いうちに秀忠との二元体制を敷きたいという思惑です。

秀忠には将軍職を任せて東国の支配に力を入れさせ、家康はいまだ無視できない大坂方の勢力と西国大名への対策に力を注ぐことで、開いたばかりの江戸幕府を安定化したものにしたかったのではないでしょうか。

こう考えると、東や北に領国を持つ大名たちが供として秀忠とともに上洛してきたのも頷けます。

1606年 – 27歳「秀忠を中心とした新体制構築と忠長の誕生」

江戸城が秀忠の城となる

家康は立場上隠居の身となったので、江戸城を出て駿府城へ移ることに決めます。秀忠単独の城となる江戸城では、秀忠の政治体制が整えられていきました。

秀忠のもとには家康以来の年寄である大久保忠隣と本多正信がつけられました。

江戸城

この二人、とても仲が悪いことで有名でした。家康は、わざとこのような人事にすることで、秀忠が色々な意見を聞くように仕向けたのです。さらに、家康の側には本多正純がいます。正信と正純の親子関係を通じて、江戸城の様子が家康の耳に入る仕組みになっていたのです。

このほか、酒井忠世、土井利勝、安藤重信、青山成重らが年寄や年寄並として秀忠の政務を支えました。

書院番も設置されました。青山忠俊、水野忠清、内藤清次、松平定綱の四人が組を作り、それぞれ番頭となりました。書院番は、将軍が出歩く際の侍従となる将軍の親衛隊のようなものでした。江戸城本丸白書院紅葉の間に勤務していたことから書院番と呼ばれます。

このように、政治機構は少しずつ整備されていきますが、しばらくは秀忠よりも家康の意向が強く働く形となりました。秀忠の独自路線が出始めるのは、1611年ごろからと考えられます。

忠長が生まれる

小督は二人目の男子となる国千代、のちの忠長を出産します。忠長については、真偽のほどはわからないものの逸話が多く残っています。

忠長は幼い頃から眉目秀麗でなおかつ聡明であったため、小督が溺愛し、家光が忠長に嫉妬して自殺まで考えたというエピソードはよく知られていますね。

徳川忠長

しかし成長するにつれ、忠長は思慮の浅い行動が目につくようになります。秀忠や家光に叱責されるだけでなく、最愛の母小督でさえ呆れてしまうような出来事もあったようです。

忠長の失脚を決定付けたのは、1631年に起こった、罪のない藩士数十人を手討ちにした事件でした。秀忠は蟄居を命じますが、驚くことに忠長は蟄居先から抜け出し、自分の赦免を願い出ています。

自分の置かれている立場さえ弁えることのできない忠長を、家光は許せなかったのかもしれません。父秀忠の他界後、家光は忠長の所領を全て没収し、自刃するように仕向けました。享年28歳でした。

1607年 – 28歳「和子の誕生」

天皇家に嫁いだ娘

徳川和子

小督は松姫、のちの東福門院和子を出産します。秀忠との間にもうけた最後の子供です。

和子は1620年、女御として入内します。将来的に後水尾天皇の中宮に望まれていました。二人の皇子と五人の皇女を産みましたが、皇子は二人とも早世しています。1623年に生まれた第一皇女、興子内親王が女性の皇太子にあたる女一宮となりました。明正天皇です。

後水尾天皇は、のちに紫衣事件を起こすことでもわかるように、意思をはっきりと示す天皇でした。東福門院和子は温和な性格であったようで、そんな天皇によく仕え、実家である徳川家との関係も良好に保つという難しい仕事に生涯にわたって立ち向かいました。

後水尾天皇

また、後水尾天皇と東福門院和子は、寛永文化の担い手としても知られています。

特に東福門院和子は、宮中で小袖の着用を流行らせたことで有名です。琳派という、現代でも世界的に人気の高い流派の担い手である尾形光琳、乾山兄弟の実家は雁金屋という高級呉服商でしたが、ここで自ら選んだデザインの着物を仕立てさせました。

これはのちに「寛文小袖」と呼ばれるようになり、武家でや町人までもが夢中になりました。現在もその一部の着物が残っていますが、とても斬新なデザインです。

1611年 – 32歳「秀忠が江戸幕府の実権を握り始める」

秀頼と家康の会見

豊臣秀頼

3月28日、家康は二条城で秀頼と会見を行っています。対等な会見ではありましたが、これまで豊臣氏に対して臣下の礼をとっていた徳川氏が並んで座ったということは、秀頼の家康に対する臣従を意味していました。

家康は、ここにきて徳川と豊臣の上下関係がはっきりしたと確信し、徐々に秀忠に政治の実権を移していくことになります。

天領の年貢を江戸納めとする

年貢の納め先を江戸へ変更

家康の、秀忠への政権移譲の意思が見て取れる出来事に、天領の年貢の納め場所の変更があります。

天領とは江戸幕府直轄の領地で、幕府の経済基盤となるものですが、これまでは天領の年貢は駿府に納められていました。しかし1611年から、美濃、伊勢、近江以外の天領の年貢は全て江戸へ納められるようになります。

江戸に経済力を集中させるということは、政治の中心が秀忠のいる江戸に移ったことを示していると言えます。

保科正之の誕生

父家康が呆れるほど小督以外の女性とはほとんど関わりを持たなかった秀忠でしたが、この頃はお静の方と呼ばれる側室を寵愛していたようです。

もともとは板橋に住む庶民の娘、もしくは大姥局の侍女あったとされ、大奥で御半下と呼ばれる最下層の女中として仕えていたという説もあります。

お静の方が出産したのは男児でした。幸松丸、のちの保科正之です。

保科正之像

秀忠が小督に遠慮したのか、秀忠は実子として公表しないまま、見性院という武田信玄の次女に養育を託します。その後、信濃高遠藩主、保科正光の養子となって正之を名乗りました。

家光も異母弟の存在を知らないままだったようですが、鷹狩りに行ったある日、休憩した寺院の住職から正之の存在を教えられたと言われています。

保科正之は有能で領民にも慕われる善政を敷いた藩主でした。また、秀忠の実子であることを言い立てることもなく、立場をわきまえた行動ができる賢い人でもありました。

家光は実弟忠長の傍若無人な振る舞いに悩まされ続けていたこともあり、正之を殊の外頼りにしていたようです。家光は息をひきとる間際、正之に跡取りとなる徳川家綱の補佐を頼みました。正之は家光の遺言に見事に応え、幕政は安定します。

後年保科正之は会津藩主となりますが、家光から受けた恩義を忘れないようにと、「会津家訓十五箇条」で、将軍家を最優先に考えるように書き残しました。

幕末、この御家訓があったがために九代目会津藩主松平容保は京都守護職という役目を引き受けました。京都守護職を受けることでの会津藩のメリットはないばかりか、誰が考えても損な役回りです。この時点ではひたすら徳川将軍家のためだけの役割だったのです。

最終局面で将軍徳川慶喜は謹慎して戦を避けたため、江戸幕府に向けられていた新政府軍の矛先は会津藩へと向かい、それを全て引き受ける形で会津藩は壊滅的な打撃を受けました。そして徳川将軍家は残ります。

この結果はある意味で御家訓第一条にある「大君(徳川将軍家)の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」という保科正之の意思が達せられた形であり、秀忠や家光が敷いた徳川家存続のための壮大な伏線だったのかもしれません。

1613年 – 34歳「大久保忠隣失脚事件」

秀忠の側近であった大久保忠隣の謀反?

この事件は、秀忠の養育係でもあった大久保忠隣が謀反の疑いで改易されたというものです。

事の起こりは、家康が鷹狩りに出かけた際、付き従っていた本多正信へ目安(訴状)が手渡されたことでした。そこには大久保忠隣が大坂と通じて謀反を企んでいると書かれていました。

本多正信画像

調べてみると、大坂方と誼を通じていることはないと判明しましたが、勝手に婚姻関係を結んだり、不正に蓄財するなど余罪があることが発覚します。家康は本多正信と相談し、忠隣の改易を決めたのです。

秀忠は、この一件に関してほとんど蚊帳の外でした。それを考えてみても、家康が、大久保忠隣の権力が大きくなりすぎることを恐れ、本多正信との対立関係を利用して忠隣を失脚させたのではないかとも想像できます。

忠隣の失脚後、若手の年寄たちが台頭し、秀忠を中心に新しい政治体制が築かれていったことを見ても、この事件は忠隣自身の問題というよりは、秀忠のための新政権に必要な家康の計略だったのかもしれません。

1614年 – 35歳「大坂冬の陣」

方広寺鐘銘事件

方広寺

方広寺とは、秀吉が着工した京都にある寺です。地震や火災で何度も壊れるも、秀吉の死後は秀頼が意思を引き継ぎ、1612年に完成しました。1614年、開眼供養を予定していましたが、突然家康が、この寺の鐘銘は家康を呪詛しようとしていると言い出したのです。

この事件を考えるには、家康の胸中を察する必要があるでしょう。豊臣家の処遇をどうするかということです。

秀忠は、娘千姫を秀頼に嫁がせていますし、小督は淀殿の妹です。豊臣家が一大名として徳川家に付き従ってくれているなら、無理矢理に大鉈を振るうつもりはなかったように思います。

豊臣秀頼

しかし家康は違っていました。秀頼の成長を見て、豊臣家の再興が現実になるかもしれないとも思ったでしょう。家康は孫の家光をことさら可愛がっていました。家光のためにも、徳川幕府を磐石なものにしておきたいという思いもあったはずです。

そして何より、残りの寿命を考えたはずです。自らの手で豊臣家を滅ぼせば、将軍秀忠の名を汚さないで済みます。難癖をつけてでも無理やり戦に持ち込んで豊臣家を潰すことが、家康は自分の最後の仕事と考えたのではないでしょうか。

そんな焦る胸の内はひた隠して、家康は用意周到に事を起こしました。

まず家康は、方広寺再建を積極的に進めるよう、秀頼に働きかけます。秀吉の残した莫大な財産をできるだけ使わせようとしたのです。秀頼も、豊臣の威信を世間に示す目的で、家康の勧めに従って豪勢に金銀を使います。

そして全て完成し、大仏開眼供養まであとわずかという日になって、「家康を呪詛する銘文がある」と言いがかりをつけたのです。

国家安康の梵鐘(重要文化財)とその銘文

これを聞いた淀殿も、これが家康の難癖だとわかったはずです。鐘銘については、事前に家康に確認を取っているわけで、もし本当に気になっていたのであれば、もっと前に言ってくるべきことでした。結局この家康の言いがかりがきっかけとなり、大坂攻めが決まります。

この討伐の決断を下したのは秀忠ではなく家康です。家康自身もこれが強引なやり口だと自覚していたと考えられます。だからこそ隠居の身の家康が出てきたのです。家康は全ての罪をかぶる覚悟だったのでしょう。

大坂冬の陣

家康が大坂攻めを決定したのは10月1日でした。江戸にいる秀忠への知らせと共に、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江の諸侯に陣触れを出します。

秀忠の脳裏には、関ヶ原の戦いにおける遅参の光景が蘇ったはずです。今度は遅れまいと考えたのでしょう。東国大名に大坂攻めの軍勢を出すよう命じるだけでなく、自らも六万近い兵力を連れて10月23日には江戸を発ち、11月10日には伏見城に入ります。

迅速な進軍を見せる

この行軍がいかに異様な速さだったかが、史料に残されています。六万人の軍勢が一日で約70キロ、途中川も渡りながら進んだというのです。家康はこの秀忠軍の様子を聞き、急げば皆疲れてしまうからもっとゆっくり来るようにと手紙を出したほどでした。

一説には、行軍中に秀忠本隊が急ぎすぎるあまり、先陣を追い越してしまったとも言われています。秀忠にとって関ヶ原の戦いでの遅参がいかにトラウマであったかがよくわかる逸話です。はたから見ると可哀想なほどですね。

11月15日、秀忠は伏見城から出陣し、淀から平野へ陣を進めます。実戦は11月19日から始まりました。この日、秀忠は家康と住吉で落ち合い、軍評定を開いています。

伏見城

記録では、この時秀忠は大坂城の即時総攻撃を何度も主張したようです。関ヶ原の戦いの屈辱を果たそうと躍起になっていたのかもしれません。相変わらず健気な秀忠です。しかし家康は、大坂城は力攻めで落とせないとして、秀忠の案は退けられました。

この評定で家康と秀忠は、大坂城は包囲した状態で講和に追い込み、大坂城の堀を埋めさせる方針に決めました。

講和交渉と堀の埋め立て

大阪城 再建天守閣

12月、講和交渉がはじまります。そして家康の思惑通り、二の丸と三の丸の堀を埋めることを大坂方に納得させました。

この後の歴史の流れを知っている私達からすると、なぜこの時に大坂方は堀を埋める条件を受け入れたのか、不思議に思ってしまいます。なぜなら、これによって秀吉が築いた天下の名城だった大坂城は丸裸にされてしまったからです。

家康、秀忠側は堀を埋めること以外に、秀頼の他国への国替や、淀殿を人質に出すといった案も出していました。この時、もしこういった別の案を受け入れていれば、もしかしたら豊臣氏は勢力は縮小されても滅亡しなかったかもしれません。

しかし秀頼たちは堀の埋め立てを選びました。大坂城の堀の埋め立てと一言で言っても、大坂城は巨大な城ですから大工事になるわけで、きっと時間がかかるだろうと思ったのかもしれません。

『本丸図』 豊臣大坂城本丸の縄張りを描いたものとされる

また、心情的に、秀頼も淀殿も大坂を離れたくなかったことも考えられます。秀吉が築いてくれたこの城に留まりたいとの一心で、堀の埋め立てを選ぶ以外に選択肢はなかったのかもしれません。

大坂方の心情はともかく、家康としては堀の埋め立てこそが戦を起こした最大の目的でありました。講和と言いつつも、事実上の勝利を得たのは徳川だったのです。

12月19日、講和が成立すると、23日から堀の埋め立て工事が始まりました。秀忠が現場監督となり急ピッチで進められ、驚くことに1615年1月19日には本丸の堀以外の全ての堀が埋め立てられました。秀忠は工事完了後、江戸城へ戻ります。

1615年 – 36歳「豊臣氏滅亡と徳川単独政権の誕生」

大坂夏の陣

大坂城炎上 1663年絵図

講和したとはいえ、大坂方の不満はくすぶり続けていました。3月には大坂城に多くの浪人が集まり、火薬の製造や兵糧集めが行われ、戦備えの様相を呈してきます。

この様子を聞いた家康は大坂へ使者を送り、秀頼が大坂城を退去し伊勢か大和に移るか、もしくは浪人を放逐するか、いずれかを選ぶように迫ります。

しかし家康はどちらの条件も受け入れられないだろうと踏んでいたようで、返事を待たずに4月4日、駿府城を出ています。18日に二条城へ入りました。秀忠は21日に伏見城に入っています。

豊臣秀頼

22日、二条城にいる家康を秀忠が訪ね、大坂城攻めについて相談します。秀忠が先陣をつとめることで話がまとまりました。

5月5日、秀忠は伏見城を出て河内の砂に着陣。総攻撃は7日と決まっていました。

秀忠は主戦場となりそうな天王寺口を担当したかったようですが、家康が許しませんでした。あくまでも家康はこの戦を背負う覚悟だったのがよくわかるエピソードです。秀忠は岡山口を受け持ちます。

5月7日、大坂城総攻撃が開始しました。予想通り、家康がいた天王寺口は大混戦となります。真田幸村が家康の首を狙ったという有名なエピソードが知られていますが、家康が切腹を口走るほどに危うい場面があったようです。

真田幸村公騎馬像

大河ドラマ「真田丸」では、真田幸村の猛追を秀忠が退けた演出でした。史実はどうであれ、心情的にはここからは秀忠の時代だということがよくわかる展開でした。

これまで散々だった秀忠が(特にこのドラマでは意図的にひどい扱いでしたね)、二代目として立派になった姿を星野源が最終回でとても魅力的に演じていて、一視聴者として秀忠の成長を喜びたくなりました。

この戦、最終的に大坂城は落城、秀頼と淀殿は自害して豊臣氏は滅亡します。

歌舞伎の演目に、大坂城落城を扱った「沓手鳥孤城落月」があります。明治時代の作家である坪内逍遥が書いた、秀頼と淀殿がお互いを思いやる心を描いた作品です。

明治時代、五世中村歌右衛門が当たり役とした淀の方ですが、近年では坂東玉三郎が常軌を逸していく淀の方を見事に演じて話題になりました。秀頼と淀殿の物語は、いつの世も日本人の琴線に触れる話のようです。

千姫の救出

千姫

大坂夏の陣では、秀頼に嫁いでいた千姫を助けるというミッションもありました。千姫は家康の陣に届けられます。そこで千姫は、秀頼と淀殿の助命を願い出ましたが、家康は判断を秀忠に預けました。

この時の秀忠の心中は察するに余りあります。

秀忠の性格を考えると、真摯な娘の訴えを邪険にするような父親とは思えません。その一方、二代将軍としての立場もあります。家康の期待に応えたいという気持ちもわかります。

おそらく、この戦に出陣する際、秀忠は江戸城で小督と話したはずです。豊臣が滅ぼされる結果になることも予想していたでしょう。秀忠も小督も、最悪の結果を覚悟して戦に臨んだと思われます。

家康は重要な決断をあえて秀忠に任せた

千姫は助けるという方針は、家康も秀忠も当初から決めていたと考えられるので、淀殿や秀頼を見殺しにした時の千姫からの恨みつらみも、秀忠は引き受ける覚悟ができていたのかもしれません。結局、秀忠は千姫の訴えを聞き入れませんでした。

この判断を聞いた家康は、秀忠の成長に安心したのでしょうか、これ以降本格的な隠居の身になることを決意したようです。今後は駿府へ意見を聞く必要はないから、将軍が決めて実行するよう秀忠に伝えたと言われています。

一国一城令

伊予国 松山城本壇(天守丸)

6月13日、秀忠の名前で一国一城令が出されます。大坂夏の陣後、大名の統制のため、一領国には居城一城のみとし、それ以外は破却するよう命じたものです。城がたくさんあると謀反の拠点になりやすいと考えて出されました。

この法令は、主に西国大名を対象としていました。西国には豊臣恩顧の大名が多かったので、その勢力を削ぐ必要があったのです。

注目しておきたいのは、この法令が秀忠から出されたという点です。西国大名に関してはこれまで大御所家康が管轄下に置いていましたが、大坂の陣以降、西国大名も秀忠が差配するようになったことが、この一件からよくわかります。

家康が、秀忠の政治から身を引いたことがわかる一例です。

武家諸法度

政治の仕組みを整備

武家諸法度は7月7日に出されました。大名統制の法です。徳川幕府は、信長や秀吉のように英雄のような個人との結びつきで行われる政治ではなく、法制度の元に諸大名を管轄し、将軍が政治を行うことを表しています。

この法度に関しては、家康が命じて作らせたものでした。しかし、申し渡しをしたのは秀忠です。以後、新将軍就任後には諸大名に読み聞かせるのが慣例になりました。

禁中並公家諸法度

朝廷の勢力を抑え込む法を整備

7月17日には、禁中並公家諸法度が定められます。家康と秀忠、そして前関白二条昭実の連署で出されました。江戸時代の朝廷の法的枠組みを決めたものですが、実際には朝廷を抑え込むための法度でした。

平清盛源頼朝、足利尊氏など、武家政権の頂点に立った者たちは、皆朝廷の扱いに苦心していました。家康はその前例を踏まえた上で、朝廷支配の枠組みを作ろうとしたのです。

家康の入念な幕府の土台作りがあったからこそ、以後約250年もの間江戸幕府が存続したのでしょう。

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