レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる逸話
逸話1「シオン修道会のメンバーだった?」
レオナルド・ダ・ヴィンチは、11世紀に発足したテンプル騎士団の秘密を守ることを目的とした秘密結社のメンバーだった、という説があります。この説は映画にもなったダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」の題材となり世界から注目を浴びました。
しかし、このシオン修道会。現在では、ピール・プランタールという人が1956年に考えた架空の集団だった、と言われています。
とはいえ、小説「ダ・ヴィンチ・コード」を読みながらレオナルド・ダ・ヴィンチの作品集を読み漁っていた時の胸のときめきは忘れられません。こういう話は嘘か真かは重要でないのかもしれませんね。
逸話2「レオナルド・ダ・ヴィンチのお墓に本人の遺骨はない?」
レオナルド・ダ・ヴィンチはフランスのアンボワーズ城内のサン・フロランタン教会に埋葬されたと言われていますが、実は本人の遺骨かは定かではない、と言われています。
というのも、1802年にこの教会は老朽化もありフランス革命時に破壊されてしまい、墓石は城を再建するために利用され、骨は掘り返されて、別の場所に埋葬されたそうです。
その後の1863年、詩人のアルセーヌ・ウーセイが「…EODUS VINC…」という墓石の欠片と骸骨を発見し、「LEONARDUS VINCIUS(レオナルドゥス・ヴィンチウス)」(ラテン語のレオナルド・ダ・ヴィンチ)の墓ではないかとして、アンボワーズ城に再び埋葬した、と言われています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの簡単年表
1452年4月15日、公証人のセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農家の娘、カテリーナとの間に私生児として誕生しました。
生まれてから5歳まではヴィンチ村で母親と暮らしていましたが、父セル・ピエーロが正式に名家の娘と結婚したことを機に、父に引き取られて父夫婦とフィレンツェ都市部で暮らし始めます。
14歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは父の働きかけもあり、当時フィレンツェで最も優れた工房の一つと言われていたヴェロッキが運営する工房へ入門し、芸術家としての道を歩み始めます。
20歳の頃には、工房の主催者であるヴェロッキオと「キリストの洗礼」を合作します。この時すでにレオナルド・ダ・ヴィンチは聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ていたと言われています。また同じころにはヴェロッキオから独立していたとも言われています。
24歳だったレオナルド・ダ・ヴィンチと他3名の青年が、同性愛の容疑を掛けられるも証拠不十分で放免される、という事件が起こりました。レオナルド・ダ・ヴィンチが同性愛者の傾向があったことを示唆している事件です。
26歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴェロッキオから独立して最初の作品である「ブノアの聖母」と「カーネーションを持つ聖母」を制作します。この頃には父親の池からも出たと言われています。
28歳の頃のレオナルド・ダ・ヴィンチは、彼の残した手記からスランプに陥った時代だったのではないかと言われています。この頃に「荒野の聖ヒエロニムス」を描き始めますが、描き始めの時点で制作を放棄しています。
レオナルド・ダ・ヴィンチが29歳の頃、サン・ドナート・スコペーと修道院から「東方三博士の礼拝」の制作依頼を受けます。しかし、1482年にレオナルド・ダ・ヴィンチがミラノ公国へと向かったため未完に終わっています。
1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチは制作依頼を受けていた「東方三博士の礼拝」の制作を放棄しミラノ公国へ旅立ちます。理由は諸説ありますが、一説には「東方三博士の礼拝」の制作で行き詰まったため、とも言われています。
1483年、レオナルド・ダ・ヴィンチは「岩窟の聖母」の制作依頼を受けます。作品は完成させたものの、構成や報酬について依頼主側と裁判になり、この裁判は発注から25年後の1508年にようやく決着することになります。
1489年頃からレオナルド・ダ・ヴィンチは解剖した人体のデッサンを描き始めました。教皇レオ10世に解剖を禁止されるまでの20年間で約30体の死体を解剖し、デッサンの数は750枚にも上りました。
1490年頃からレオナルド・ダ・ヴィンチは数学者のルカ・パチョーリのもとで数学を学びます。1509年に出版されるパチョ―リの「神聖比率」の挿絵版画の下絵を手掛けます。
この年には、舞台劇「天国の祭典」の舞台総監督として舞台演出を手掛けたり、巨大な騎馬像の制作を開始したりなど多方面での活動しています。
1492年、レオナルド・ダ・ヴィンチは粘土像「巨大な馬」を完成させ、鋳造を進めようとしていましたが、競争相手だったミケランジェロからは「このような大仕事ができるわけがない」と侮辱されたと言われています。
1493年、レオナルド・ダ・ヴィンチはヴィンチ村で貧しい生活を送っていた生母のカテリーナをミラノに招待し、カテリーナがなくなるまでの2年間をともに暮らしました。
1495年頃にレオナルド・ダ・ヴィンチは、のちに世界で最も複製画やパロディ作品が作られた言われる「最後の晩餐」の制作を行います。この頃に生母カテリーナが死去したと考えられています。
1499年、第二次イタリア戦争が勃発します。レオナルド・ダ・ヴィンチがいたミラノ公国がフランスに敗れたため、レオナルドは友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへ避難し、避難先のヴェネツィアで軍事技術者として雇われることになります。
ヴェネツィアで軍事技術者として雇われたレオナルドですが、新兵器のアイディアは当時の技術では実現することができないものが多く、1年もしないうちにヴェネツィア共和国を去り、故郷のフィレンツェに戻ってきました。
ちょうどこの頃、ライバルであるミケランジェロが「ダヴィデ像」を完成させ、世間の注目を集めていました。
教皇アレクサンデル6世の息子チョーザレ・ボルジアの軍事技術者として8ヶ月従軍しイタリア中を行脚し、要塞建築のための地図制作や、軍事戦略のための地図作成、200メートルに及ぶ橋の建造計画の立案などを行いました。
1503年、レオナルド・ダ・ヴィンチが55歳の頃に、世界で最も有名な絵画とも言われる「モナ・リザ」の制作を開始、完成までに3~4年かかったと言われています。
1504年、フィレンツェ共和国政庁からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁に描く壁画「アンギアーリの戦い」の制作を開始します。
同時期に大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが壁画「カッシーナの戦い」の制作に取り掛かっており、同時の天才画家を競わせようと仕組まれたものだった言われています。
しかし両方の壁画が未完のまま放棄されるという結末となりました。
1506年、レオナルド・ダ・ヴィンチは再びミラノを訪れ宮廷画家兼技師に任命されますが、1507年には父親の遺産を巡って兄弟たちと訴訟問題になり、その解決のために一時フィレンツェに戻ります。この故郷でのトラブルに疲れたのか、レオナルド・ダ・ヴィンチはは1508年には再びミラノ公国へ旅立ちます。
1510年頃からレオナルド・ダ・ヴィンチはパドヴァ大学解剖学教授のマルカントニオ・デッラ・トッレとともに解剖学の共同研究を行います。
絵画の写実性を高めるための解剖学の研究ですが次第に人体そのものに興味を抱くようになり科学者として人体の構造をデッサンするようになったそうです。
1513年、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世に招かれて、フランそのローマへ移住し、この世を去るまでの3年間をローマで過ごします。
1516年、フランス王フランソワ1世の居城であるアンボワーズ城近くのクルーの館で息を引き取ります。享年64歳でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの葬儀は彼の遺言に従い60名の貧者が参加し、遺産も親しい間柄だった人たちに分配されました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯年表
1452年 – 0歳「フィレンツェ郊外のヴィンチ村で誕生」
公証人の父と農家の娘の間に生を授かる
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日にフィレンツェ郊外のヴィンチ村にて、公証人であるセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農家の娘だったカテリーナとの間に生まれます。
しかし、公証人と農家の娘では身分の差が大きくかったためレオナルド・ダ・ヴィンチは私生児として扱われ、公証人という仕事を継ぐこともできなかったため、しっかりとした教育を受けられなかったとも言われています。
私生児で教育を受けられなかったら天才になれた
私生児としてしっかりとした教育を受けなかったレオナルド・ダ・ヴィンチでしたが、そのおかげか自分の興味関心に素直に従ってのびのびと成長できた、自然の中で鋭い観察眼を培ったと言われています。
レオナルド・ダ・ヴィンチほどの天才が実はしっかりとした教育を受けたかったために生まれた偉人であることは驚きです。
また、もし教育を受けていたら、今とは逆に平凡な人物になっていたのかもしれないと思うと、歴史的な偉人やエピソードは偶然の連続による産物であるということを改めて認識させられます。
1457年 – 5歳「フィレンツェ都市部で父と暮らし始める」
父のものとに引き取られ、フィレンツェ都市部で父夫婦と暮らし始める
身分の違いから都市部で暮らしていた父セル・ピエーロは、レオナルド・ダ・ヴィンチが5歳の頃に名家の娘と結婚します。しかし、子どもには恵まれなかったため、ヴィンチ村でカテリーナと暮らしていたレオナルドを引き取ることにしました。
こうしてレオナルドは母親から引き離され、父夫婦と暮らすようになります。
複雑な家庭事情のようにも思えますが、父セル・ピエーロはレオナルドのことをしっかり愛していたようで、レオナルドが工房へ入門する際や独立する際などに援助をしています。
当時としてはこういった家庭事情は今と比べて当たり前だったのかもしれませんね。
レオナルドの画才は天性のものだった
レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期の逸話として、父セル・ピエーロがレオナルドに絵を描かせてみた時の話が有名です。
ある日、セル・ピエーロのもとに知人から楯飾りの装飾の相談が来ました。レオナルドは悪戯でそこにコオロギやコウモリ、カゲロウといったグロテスクな動物や昆虫で埋め尽くされた絵を描きました。
この絵を見たセル・ピエーロは、あまりの絵の質の高さに驚き、レオナルドが描いた絵はフィレンツェの画商に売り、知人には購入した楯飾りを渡したそうです。
レオナルドは、幼少の頃から鋭い観察眼とそれを描写する表現力を持ち合わせていたようです。