レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯・年表まとめ【作品や本名、死因も紹介】

1500年 – 48歳「故郷のフィレンツェへ」

アイディアに時代が追いつかず、故郷フィレンツェへ

ヴェネツィアで軍事技術者として雇われたレオナルド・ダ・ヴィンチですが、新兵器のアイディアは当時の技術では実現することができないものが多く、1年も経たないうちにヴェネツィア共和国を去り、故郷のフィレンツェに戻ってきました。

時代が追いついてなかったんですね。

絵画史上最高値で落札された「サルバトール・ムンディ」の制作

ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」

レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェでもいくつもの傑作を制作しています。中でも「サルバトール・ムンディ」は男性版のモナ・リザとも言われ、2017年に約4億5千万ドルという美術品の落札価格としては史上最高額で落札されました。

1502年 – 50歳「チョーザレの軍事技術者としてイタリア中を行脚」

「地図の父」としての業績

ダヴィンチが手描きした地図

1502年、レオナルド・ダ・ヴィンチは当時のローマ教皇アレクサンデル6世の息子であるチョーザレ・ボルジアの軍事技術者として8ヶ月、イタリア中を行脚します。

今回は兵器の開発ではなく土木技術に特化した軍事技術者として任命され、地図の作成や長さ200メートルにもなる橋の設計図の制作などを行いました。

残念ながら、長さ200メートルの橋は当時の技術では不可能だとして工事が行われませんでしたが、地図の作成においては、まるで真上から見たかのうような正確な地図を作成し、「地図の父」の一人にも数えられるほどの功績を残しています。

1503年 – 51歳「「モナ・リザ」の制作開始」

世界で最も有名な絵画「モナ・リザ」の制作開始

ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

1503年、レオナルド・ダ・ヴィンチは後に「世界で最も有名な絵画」とまで言われることになる「モナ・リザ」の制作を開始します。

モデルとなった女性は、商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるとする説が通説ですが、モデルについては諸説あり、中には「レオナルド本人の自画像ではないか」という説もあります。

作品自体に謎が多いことも注目を集め続ける所以の一つかもしれません。

ダヴィデ像の置き場についてミケランジェロと口論

ミケランジェロ「ダヴィデ像」

「モナ・リザ」を制作開始したのと同じ頃にレオナルド・ダ・ヴィンチは、ライバルであるミケランジェロが制作していた「ダヴィデ像」の設置場所を決める委員会の一員となっていました。

仲が悪いことで有名なこの二人、案の定、設置場所で口論となり、結局はミケランジェロの希望が通ったそうです。

余談ですが、ミケランジェロは気難しくて怒りっぽい性格で弟子も長く続かないと言われるほどの性格だったそうです。案外、レオナルドはミケランジェロに困らされていた側なのかもしれません。

1504年 – 51歳「幻となったミケランジェロと壁画対決」

「アンギアーリの戦い」の制作開始

ダ・ヴィンチ「アンギアーリの戦い」

レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェ共和国政庁からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁に描く「アンギアーリの戦い」の制作を開始しました。

そして時を同じくして、ミケランジェロも同じ大会議室の反対側の壁に壁画「カッシーナの戦い」を描き始めていました。

この依頼、実は当時天才画家として有名だった二人を競わせるために企画されたものだったのです。粋な企画をする人はどの時代にもいるものですね。

幻となったレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画対決

ミケランジェロの下絵を模写した「カッシーナの戦い」

ヴェッキオ宮殿の大会議室で繰り広げられるはずだったレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画対決ですが、残念ながら両者の作品は完成することなく、幻の対決となってしまいました。

レオナルドの「アンギアーリの戦い」は新技法を試したものの失敗し未完のまま放棄され、ミケランジェロの「カッシーナの戦い」は、ミケランジェロがローマ法王の墓を手掛ける依頼のためにローマに呼び戻されてしまい、これも未完のまま放棄されたのです。

両壁画ともに、時代とともに失われたと言われていましたが、近年、ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁の裏に謎の空間が存在していることが分かり、そこに「アンギアーリの戦い」が現存しているのではないか、と注目を集めています。

1506年 – 54歳「ミラノとフィレンツェを行き来する」

ミラノの街並み

再びミラノへ

1506年、レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ総督シャルル・ダンボワーズに招かれて再びミラノを訪れ、宮廷画家兼技師を任命されます。

有名な自画像を描いたのもこの時期ですが、この自画像、一説にはレオナルド本人ではなく、 80代の叔父を描いたものではないかと言われています。

確かに、当時 50 歳半ばのレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像としては少し老けすぎているようにも見えます。

ラファエロが短期間弟子入り

ラファエロの代表作のひとつ「アテナイの学堂」

この頃には、のちに「ルネサンスの三巨匠」の一人として数えられる当時21歳のラファエロがレオナルド・ダ・ヴィンチのもとに短期間ですが弟子入りしていました。

この時期にラファエロが残したスケッチの中には「モナ・リザ」のものもあり、そのスケッチの背景には現存する「モナ・リザ」には描かれていない2本の柱が描かれていることから「モナ・リザはもう一枚存在するのではないか」とも言われています。

父親の遺産をめぐり親族とトラブル。一時フィレンツェへ

遺産を巡って訴訟に発展

レオナルド・ダ・ヴィンチの父セル・ピエーロが1504年に死去し、その遺産をめぐって異母弟妹12人と訴訟問題が発生。これを解決するためにレオナルドは一時フィレンツェへ向かいました。

レオナルドは、この訴訟問題で疲れてフィレンツェに嫌気がさしたのか、翌年の1508年にはすでにミラノ公国へ戻っています。

万能の天才でも、人間同士、特に親族のお金に関する問題には疲れるものなんですね。

1508年 – 56歳「ミラノで悠々自適な生活をおくる」

裕福で自由に活動していた時期

1508年頃のレオナルド・ダ・ヴィンチのミラノでの生活は悠々自適なものだったようです。

ミラノ総督シャルル・ダンボワーズの支援が会ったのもそうですが、1490年代にミラノにいた時の仕事の報酬としてもらい、戦争により没収されていたブドウ園が返還されたり、水路使用料の利権を得たりと、お金には困らなかったようです。

そのおかげで解剖学に没頭して240枚にもおよぶデッサンを描いたり、山登りをして風景画を描いたりと、好きなことをして過ごしていました。

「近代解剖学の祖」はレオナルド・ダ・ヴィンチだったかもしれない?

多量の解剖学スケッチを残したダ・ヴィンチ

「近代解剖学の祖」として知られるヴェサリウスが、詳細な解剖図をもとにした「人体の構造」を出版し、解剖学に大きく影響を与えたのが1543年のことです。

しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチはその約40年も前にすでに世界初と言えるほどの詳細な解剖スケッチ「Anatomical Manuscript A」と「Anatomical Manuscript B」を残していました。

その中には、肝硬変や動脈硬化の発見など医学的にも非常に価値の高い内容も含まれていましたが、書籍や論文として発表されることはありませんでした。

もし、レオナルドもしくは誰かがこのスケッチをすぐに書籍にして出版していたら「近代解剖学の祖」はレオナルド・ダ・ヴィンチになっていたかもしれません。

1513年 – 61歳「ローマへ移住」

ローマへ移住するも仕事にあぶれる

ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1511年にパトロンであったシャルル・ダンボワーズが亡くなったこともあり、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチからの招待を受け、仕事を求めてローマへ移住しました。

ローマでは「洗礼者ヨハネ」を制作しましたが、当時のローマでは若いミケランジェロやラファエロが活躍していて、仕事はなかなかもらえなかったようです。

1516年 – 64歳「フランスで最期の3年間を過ごす」

フランス王からの招待でフランスへ

ダ・ヴィンチの晩年の家となったクルーの館

1516年、ローマでのパトロンだったジュリアーノ・デ・メディチが亡くなった後、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世の招待でフランスへ向かいました。

この時に与えられたのがアンボワーズ近郊のクルーの館で、永眠するまでの3年間を弟子や友人たちとともに過ごしていたそうです。

生涯「万能の天才」を貫き通した

フランスへ移住した後も活動の広範さは健在で、「アルジャンタンの舞踏会」や「マリニャーノ先勝記念イベント」「フランス王の姪の結婚式」といった祭典のプロデュースを行いました。

また、植物や動物の動き、機械の設計図、流体に関する考察など芸術領域に収まらないさまざまなノートをまとめていたそうです。

レオナルドのノートは一つの事柄について1ページにまとめて記載されていることが多く、将来的に出版するつもりだったのではないかとも言われています。

1519年 – 67歳「フランス、クルーの館で永眠」

67歳でこの世を去る

天才ダ・ヴィンチの最後

1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランスのクルーの館で息を引き取りました。遺言に従って葬儀には60名の貧者が参列したそうです。

また、遺産相続は金銭だけでなく、絵画や蔵書、道具、私物(ノートなど)を兄弟や弟子だけでなく給仕係にまで分配したそうです。近しい人には大変優しかった、というレオナルドの性格が分かるエピソードです。

レオナルドの死後、フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチのことを

「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」

と語ったと言われています。

マルチタレントな人が多かった当時においてもレオナルド・ダ・ヴィンチの多才さは際立っていたことが分かります。

レオナルド・ダ・ヴィンチの関連作品

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レオナルド・ダ・ヴィンチ 上

世界的ベストセラーとなった「スティーブ・ジョブズ」の著者が記した、レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記です。レオナルド・ダ・ヴィンチが残した500年前の7200ページにもなる手記、ノートを中心に解説がされているため、画家としてだけでなく「万能の天才」と言われる所以がよく分かる本です。

イラストで読む レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチのの生涯のエピソードをイラスト付きで分かりやすく知れるだけでなく、人物相関図や当時の社会状況等の解説もされていて、レオナルド・ダ・ヴィンチの生きた自体も合わせて知ることができる本です。

ペンブックス1 ダ・ヴィンチ全作品・全解剖。 (Pen BOOKS)

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画作品にフォーカスして解説されている本です。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品と他者の作品を比較しながら解説がされていたりなど、入門者向けの読みやすい本です。

ダ・ヴィンチ・コード

「レオナルド・ダ・ヴィンチはシオン修道会のメンバーだった」という都市伝説をもとに展開されるフィクション作品です。内容はフィクションですが随所にレオナルドの作品が謎解きの鍵として出てくるので、興味を持つキッカケには良い本です。

上記以外にもレオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる書籍をこちらの記事で紹介していますので、多くの選択肢から書籍を選びたい人はご覧ください。

【24年11月最新】レオナルド・ダヴィンチをよく知れるオススメ本ランキングTOP7

おすすめ動画

万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ偉人伝〜絵画全13作品を徹底解剖〜前編

当時の時代背景やレオナルド・ダ・ヴィンチの周りの人物についても解説しつつ、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯や絵画作品ひとつひとつの解説されている分かりやすい動画です。

おすすめドラマ

ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯

イタリア放送協会が制作したドキュメンタリードラマです。ドキュメンタリータッチで描かれているため当時の生活なども想像しながらみることができる貴重な作品と言えます。

ダ・ヴィンチ・デーモン

青年時代のレオナルド・ダ・ヴィンチが主人公のミステリードラマです。「学ぶ」というよりも「楽しむ」コンテンツのため好き嫌いは分かれるかもしれませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの想像を膨らませてくれる作品です。

関連外部リンク

まとめ

レオナルド・ダ・ヴィンチは、アウトプットの一つが「絵画」だっただけで、「画家」というよりも「研究者」「探求者」と言ったほうがシックリくることがが記事執筆を通して分かってきました。

飽きっぽくて完璧主義、なかなか作品が完成しない部分は見習わないほうが良いですが(笑)、興味のある事柄については学問の垣根なんて気にせずとことん突き詰めていくその姿勢は大いに見習いたいと思います。

この記事を読んだ方がレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯から何かしらポジティブな学びが得られれば幸いです。

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